二十三話 魔塔主の最愛
最後の書類にサインを終え、書類の山に加える。ペンを戻して、天井を仰いで一息ついた。
「……ふう……」
新しい魔法陣の使用許可証や各魔術学院卒業者計773名の進路先の確認作業など、帝国の魔術師をまとめる魔塔主としての仕事を終え、疲れた頭に思い浮かぶのは、娘のこと。
──あの子はもう眠った頃だろうか。それとも、慣れない土地でまだ眠り切れていないだろうか……
抱きしめた時に僅かに体が熱かったことを思い出す。バルドヴィーノによると、魔力反動で熱を出していたという。たくさん食べて、ぐっすり眠っているといい。魔塔主フェリシトは、その空のように青い瞳を白い瞼で隠して、娘の姿を思い浮かべた。
……髪色と瞳の色、目元のほくろが無いこと以外、最愛の妻にそっくりな女の子。本当に愛らしい、僕たちの娘。生きていてくれてよかった。会うことが出来てよかった。魔法を好いていてくれてよかった……
いつの間にか娘の姿に妻の姿が重なる。娘の言葉が思い出され、フェリシトは唇を噛んだ。
『お母さんは……七日前に、病気で……』
七日前。たった七日前。七日前まで、彼女は、アリアナは、フェリシトの最愛は、生きていた。この世界で呼吸をしていた。話していた。微笑んでいた。もしもフェリシトが、七日前までに見つけ出せていたら……
「っ……」
そんな想像は、既に叶わない。たらればを想像したって、アリアナはもう居ないのだ。彼女はもう、息を吸うこともない。あの、春の風のように柔らかな声で語りかけることもないし、暖かな陽だまりのように微笑むこともない。……二度と、フェリシトの名前を呼ぶこともない。
「…っ、ああ……っ」
フェリシトは、顔を両手で覆って悲痛にこらえた。愛する人を喪った。世界で一番愛おしい女性を喪った。自分は彼女のそばに居ることさえ出来なかった。何処にいるのかさえ、娘が産まれていることさえ、苦しんでいることさえ、知らなかった。最愛だと、守ると、誓ったのに。すぐそばに居ても守りきることすら出来ず、記憶を失わせ、一人で子どもを育てさせ、見つけ出すことすら出来ずに逝かせてしまった。どんなに心細かったことだろうか。苦しかっただろうか。
「アリアナ……」
謝っても謝りきれない。約束を守れなかった自分に、彼女の死を嘆く資格などあるのだろうか。泣く資格があるのだろうか。
「ごめん……」
いくら慚悔しても、自分を憎んでも、張り裂かれたような胸の痛みも、とめどなく流れる涙も、止まらなかった。溢れる涙を拭おうとして、冷たい指輪の感触が額に触れる。その冷たさに、将来を誓い合った時の彼女の笑顔を思い出す。
『……私、この日が今までの人生でいちばん幸せな日です』
喜びの涙を流しながら、世界で一番美しい笑顔を浮かべていた。頬を伝う涙を拭うと、感極まったように背伸びをしてフェリシトの首に抱きついてくれた。そして、涙混じりの声で、嬉しそうに囁いたのだ。
『……ありがとうございます、フェリシト様。私を、家族にしてくれて……私を、あなたの妻にしてくれて……私、ほんとうに幸せです……』
13歳で両親を亡くし、頼りになる親戚もおらず、天涯孤独だった彼女は、家族が出来て、帰る場所が出来て嬉しいと結婚後も言っていた。フェリシトと、バルドヴィーノと、シルヴィオと、家族として過ごす日々に、救われていると。……救われたのは、フェリシトの方だったのに。
冷たい家庭で育ったフェリシトに、愛情の何たるかを、息子への愛情の示し方を、教えてくれた。感情を抑え込む癖があったフェリシトに、自分の感情に向き合うよう告げてくれた。フェリシトより六つも歳下だったのに、確かにフェリシトの眩しい光だった。
「…は……」
震える息を吐いて、顔を上げる。ぼやけた視界の中、卓上に置かれたアリアナの肖像画を眺めて、再び涙が流れ出た。……愛おしさと哀しみで、気が狂いそうだった。
耳に心地よい声。甘いラベンダーの香り。愛らしい笑顔。子どものように泣きじゃくった泣き顔。愛おしい温もり。愛称を呼ぶ時の恥じらった顔。全て、全て、鮮明に思い出せるというのに。彼女はもう居ない。あの声も、香りも、笑顔も、泣き顔も、温もりも、恥じらう姿も、この世界のどこにも存在しない。見ることも、感じることも、叶わない。
「っ……」
刺繍が得意だった。よく日記をつけていた。ラベンダーの香りを好んでいた。料理が苦手だった。幼い頃に訪れた諸外国の話をよくしていた。周囲の人を安心させようと、いつも笑顔な女性だった。
「…っ……あいたい……」
あと一度だけでもいいから、会いたかった。……夢であったなら。アリアナが居ないというのは、悪い夢で、本当はどこかで生き続けていてくれたら。
そうしたら、探すことができる。会いに行って、謝ることができる。抱き締めて、名前を呼べる。記憶をなくしていてもいい。絶対に思い出させる。思い出したくないというのならそれでもいい。不甲斐ないと嫌われていてもいい。彼女が生きていて、それを確認することができるだけでいいのに。
「アリアナ……ごめん。ごめん…っ」
思考が堂々巡りになっているのが自分でも分かった。同じことをぐるぐると考え続けていても、何も解決しないとも分かっていた。けれど、どうしても考え続けてしまう。いっそ狂ってしまえたらよかった。
──でも……狂ったら、だめだ。
愛と後悔と哀しみと罪悪感でぐちゃぐちゃになった心とは裏腹に、頭の根底にはその意識がしっかりとあった。
……自分には、子どもがいるのだから。息子がいる。娘がいる。バルドヴィーノも、シルヴィオも、アメリアンナも、フェリシトの大切な子供たちだ。上二人は成人しているが、アメリアンナは成人には程遠い。父親が、今狂うわけにはいかない。
それに、自分には“魔塔主”という立場がある。自分の代のうちに終わらせるべきことだって、まだ全然対処出来ていない。
……だから、こうして泣き続けるのは今だけ。今夜だけ。みっともない姿でもいいから、今のうちに愛も後悔も哀しみも罪悪感も、できる限り全て受け止めておこう。そうして、明日からは父親として、魔塔主として、生きていかなければ。
防音の結界が張られた魔塔主の部屋で、フェリシトの泣き声だけが響いていた。




