第93話 試練の先に
魔王討伐のための試練、それを乗り越えた先にどんな力が目覚めるのか…
暗闇の中、ジェクスは、静かに宙を進んでいた。
視覚に頼れない分、全ての感覚が、これまでにないほど鋭敏になっていた。魔力を纏わせた指先が、壁の凹凸を捉える。耳が、微かな水音や、風の流れを拾い上げる。皮膚が、空気の密度の変化――重力が揺らぐ予兆を、いち早く察知する。
(――来る)
不意に、体が数倍の重さに押し潰されそうになった。だが、その予兆を、既に肌で感じ取っていたジェクスは、瞬時に魔力を全身へ巡らせ、体を軽く保った。
どれだけの距離が、まだ先に待っているのか――それすら分からないまま、体に宿るギフトの力だけを頼りに、暗闇を突き進んでいく。終わりの見えない道のりは、体力以上に、精神を静かに蝕んでいった。
それでも、この速度で進めているのは、超人的な筋力も、疲労を抑える自然治癒力も、そして翼のない体で空を飛ぶ力も――天界であの十秒に思い描いた、様々な力の一つ一つが、今、この瞬間を支えてくれているからだった。
視界に映る情報が、何一つない。だからこそだろうか、あの十秒間の記憶が、これまでにないほど鮮明に、脳裏へと蘇ってきた。目を閉じていたわけでもないのに、目を閉じていた時よりも、遥かに克明に。
(――あの十秒で、これだけの引き出しを用意しておいて、本当に良かったな)
天界で理想の自分を思い描いたあの瞬間――数え切れないほどの「もしも」の中から、飛ぶことも、走り抜けることも、傷つきながらも立ち続けることも、その全てを、余さず選び取っていた。あの時の自分に、ジェクスは、静かに感謝を送った。
(――強くなれたのは、この世界だけで頑張ってきたからじゃない)
三十三年間の積み重ねと、あの十秒の準備。その両方が、幾重にも重なり合って、初めて、今この瞬間の自分がある。改めて、その事実を噛み締めながら、ジェクスは、暗闇の奥へと、さらに速度を上げていった。
一日目のうちに、ジェクスは、洞窟の三分の一ほどを進んでいた。重力の変化にも、ようやく体が馴染み始めている。
(――炎は、使わない)
刺激すれば、何が起こるか分からない。想定録の棚を辿りながら、気配をやり過ごす術を、少しずつ会得していった。息を潜め、魔力の揺らぎを最小限に抑え、静かに、しかし着実に、奥へと進んでいく。
一日目が終わる頃、崩落した岩が、行く手を塞いでいた。飛行だけでは避けきれず、ジェクスは、瓦礫を素手で押しのけながら、道を切り開いていった。
「――っ、くそ」
鋭利な岩の破片が、腕を裂いた。血が滲むが、止まっている暇はない。ジェクスは、傷口に意識を集中させ、魔力を注ぎ込んだ。もとよりギフトに備わる自然治癒力――それを、魔力で無理やり後押しするように、傷の塞がる速度を引き上げていく。瓦礫の隙間を、強引にこじ開けながら。
(――筋力も、無駄じゃなかったな)
超人的な筋力がなければ、この瓦礫を押しのけることすら叶わなかっただろう。傷を負いながらも、ジェクスは、小さく笑った。天界で積み上げた力の一つ一つが、こうして実際に役立っていく実感が、痛みの中にも、確かな充実感を運んできた。
瓦礫を抜けた先、道が二つに分かれていた。目印になるものは、何もない。
(――こういう時こそ、だな)
現世で学んだサバイバルの知識――風の流れる方向、微かな湿り気、空気の澄み方。ギルほどの経験には到底及ばないが、それでも、判断材料としては十分だった。ジェクスは、より湿った空気が流れてくる方の道を選んだ。
(――水源に近い方角のはずだ)
その読みは、間違っていなかった。
二日目、洞窟をさらに奥へと進んだ末、微かに、これまでとは違う空気の流れを感じた。水の匂い、そして、どこか清涼な気配。
「――ここか」
暗闇の先、ぽっかりと開けた空間に、淡く光る泉が広がっていた。光源のないはずの洞窟の中で、その水面だけが、静かに輝いている。
泉の傍らには、一つの聖杯が、静かに置かれていた。ジェクスは、それを手に取り、慎重に水を汲んだ。休む間も惜しく、すぐさま、来た道を引き返し始めた。
行きに二日をかけた道のりだったが、帰りは、既に一度通った感覚が、迷いを大きく減らしてくれていた。それでも、三日目の終わりに間に合わせるには、ほとんど休みなく進み続けるしかなかった。体力よりも、集中力の限界の方が、先に近づいていた。
***
三日目の終わり、洞窟の外に出た瞬間、久しぶりの外気――正確には、開放感が、全身を包み込んだ。
「――終わった、のか」
三日ぶりの外の空気を、ジェクスは、深く吸い込んだ。まだ、誰の姿もない。約束通り、印を残しておく必要があった。
近くにあった石を積み上げ、簡単な目印を作ると、ジェクスは、船へと向かった。
船内に足を踏み入れた瞬間、通信機らしき装置から、切迫した声が響いてきた。
「――こちら本隊! 応答願います、緊急事態発生!」
その声に、ジェクスの背筋が、一気に凍りついた。
「――どうした!」
咄嗟に、通信機を掴み取る。
「――魔族の襲撃です! 想定より遥かに数が多い……このままでは、持ちません!」
その報告に、ジェクスは、一瞬で状況を理解した。
(――迷ってる暇はない)
ギルが戻るまで待つという約束――それを、今は破らざるを得なかった。
「――今すぐ向かう! 場所を送ってくれ!」
通信機から座標を受け取ると、ジェクスは、汲んできたばかりの泉の水を、迷わず月明かりの下に掲げた。
一息にそれを飲み干すと、体の内側で、爆発的な熱が膨れ上がった。
「――ぐ、うぅ……!」
痛みにも似た感覚を、力尽くで抑え込む。想定録の棚に、新しい力の輪郭が、静かに刻まれていく。
「――待ってろ」
ジェクスは浮き上がりながら全身に満ちる力を感じる、これまでとは比較にならない魔力――その全てを、推進力へと変換する。
夜空を切り裂くようにして、ジェクスは、本隊のもとへと、一直線流星の様に飛び立っていった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
別動隊への襲撃、多数の魔族、ジェクスは間に合うのか——次話もお楽しみに




