第8話 まだ足りない
全長三十メートル。その前で、彼は準備運動を始めます。
ヴォルカニスは、動かなかった。
目の前の獲物が、逃げるでも構えるでもなく、悠々と体を伸ばしている。その光景を、理解できずにいるようだった。
ジェクスはふくらはぎを伸ばし終えると、軽く足踏みをした。熱された火山礫が、ざり、と鳴る。
――さて。
三十三年間、来るはずのない異世界に備えて鍛えてきた体。ギフトによって書き換えられた身体能力。その本当の限界を、ジェクスはまだ知らない。
ギルドに入ってからの依頼は、どれも手加減で終わらせてきた。
今日は、そのブレーキを、少しだけ外してみる日だった。
***
沈黙を破ったのは、大蛇の方だった。
咆哮とともに、巨躯が突進してくる。地面が波打ち、黒い礫が跳ね上がった。顎が開き、剣よりも長い牙が眼前に迫る。
ジェクスは避けなかった。
右手を軽く前に出し、迫る牙をそのまま受け止めた。
硬い衝撃。そして、牙から流し込まれる灼熱の感触が、腕を伝う。
――現世で、焚き火の熾火を素手で扱う訓練を積んだことがあった。
あの頃の痛みに比べれば、これはまだ耐えられる範囲だ。
牙は、皮膚を破らなかった。
多少浅く裂けたとしても、この体ならものの数分で塞がる。そう思えるからこそ、恐れずに受けられる。
ヴォルカニスが、初めて怯んだように見えた。
硬い岩盤すら砕くはずの牙が、目の前の細い腕一本を貫けない。
「ふぅん」
ジェクスは牙を握ったまま、軽く力を込めた。
大蛇の巨体が、わずかに引きずられる。数トンはあるだろう質量が、たった一本の腕によって傾いだ。
岩陰で、カイドが息を呑む音が聞こえた。
***
そこから先は、狩りというより検証だった。
大蛇が尾を振るえば、半歩下がってその軌道をいなし、隙をついて胴に拳を叩き込む。硬いはずの鱗に、蜘蛛の巣状のひびが入った。
炎のブレスを吐けば、正面から受けてみる。
――耐えられる温度域、更新。
視界が白く灼けるほどの熱量。だが、皮膚が炭化する感覚はない。息を止め、熱風が過ぎるのを待つ。
まるで運動不足を解消するかのような、淡々とした動きだった。
***
だが、四合目を過ぎた頃だった。
尾の一撃を、いなしきれなかった。
「――ぐっ」
体が浮き、黒い斜面を数メートル滑る。肩に鈍い痛みが走った。
――重い。
これまで受けてきたどの一撃とも、質量が違う。手加減の余地を測っていた自分の見積もりが、少しだけ甘かったと気づく。
立ち上がりながら、ジェクスは口の端を上げた。
――そうか。まだ、こっちが本気じゃなかったな。
膝を落とし、両足で黒い地面を噛む。
次の突進を、今度は正面から受け止めた。
両腕で顎をこじ開け、そのまま――押し返す。
三十メートルの巨躯が、初めて後退した。
「――ッ、嘘だろ……」
岩陰から、カイドの掠れた声が漏れた。
***
終わりは、単純だった。
尾を振り抜いた直後の、わずかな硬直。
ジェクスはその一瞬に踏み込み、鱗の薄い首の付け根――ガルドナーから聞いていた急所に、渾身の正拳を叩き込んだ。
鈍い音が、腹に響いた。
巨体が、地響きを立てて崩れ落ちる。
黒い砂塵が高く舞い上がり、ゆっくりと降りてきた。
辺りに、静寂が戻った。
***
ジェクスは拳を軽く振って、感触を確かめるように開いたり閉じたりした。
「……思ったより、まだ届いてないな」
誰に言うでもなく、そう漏らした。
胸の内にあったのは、達成感ではなく、小さな違和感だった。
ギフトによる身体強化がどこまで伸びているのか、本気で確かめるつもりだった。結果は――強くはなっていた。三十三年分の積み重ねと、ギフトによる恩恵は、確かにこの体に宿っている。
それでも、どこかで「これで全力です」と言い切れない感覚が残った。
まだ何か足りない。
その正体が何なのか、ジェクス自身にもまだわからなかった。想定録のどの項目を探しても、この違和感に該当する記録はなかった。
***
岩陰から、カイドが脇腹を押さえながら立ち上がった。
倒れた大蛇と、その前に立つ男を交互に見て、しばらく言葉を失っている。
「……お前、化け物か」
「お互い様だろ。眷属、あれだけ捌いておいて」
「あんなもんと一緒にすんな」
カイドは苦い顔をして、それから深く息を吐いた。
その目には、これまでとは違う色が浮かんでいた。嫉妬でも張り合いでもない、もっと素直な――負けたくない、という光だった。
「……次は、俺が本体をやる」
「そうか」
「そうかって、お前な」
「待ってる」
短く返すと、カイドは何か言いかけて、結局黙り込んだ。
***
夕暮れが、火山地帯を赤く染めていた。
山頂の煙は、少しだけ細くなったように見える。掘り進める主がいなくなれば、噴火も遠のくのだろう。
ジェクスは腕に残る火傷の跡に、そっと触れた。
――まだ、伸びしろがある。
その事実が、不思議と嬉しかった。
熱を孕んだ風が、二人の間を通り抜けていった。
お読みいただきありがとうございます。
ギフトによる身体強化がどこまで伸びているのか、確かめるための一戦でした。検証のつもりが、途中で少しだけ本気になる——その切り替えを書けたのが今回の収穫です。
それでも残った「まだ足りない」という感覚。その正体は、本人にもまだ分かっていません。




