第79話 二つの温度差
出立前夜、ジェクスがある準備を始めます。
出立前夜、ジェクスは、鍛冶場の裏手で、コツコツと何かを組み立てていた。
石を積み上げ、簡易的な炉のような形を作り上げていく。その様子を、通りかかったアリシャが不思議そうに覗き込んだ。
「――何、作ってるの?」
「――サウナだ」
その一言に、アリシャの目が、驚いたように見開かれた。
「――サウナ? ……嘘、懐かしい」
「――だろうな」
ジェクスは、小さく笑った。同じ世界から来た者同士、通じる言葉があるのは、当然のことだった。
「――こっちの世界にも似たようなものがあるかと思ったが、なかったから、自分で作ってみた」
「――器用ね、相変わらず」
「――これくらいなら、何とかなる」
石組みは、ほとんど完成に近づいていた。だが、ジェクスの手が、ふと止まる。
「――一つ、頼みがあるんだが」
「――何?」
「――氷を、作ってほしい」
「――氷?」
「――水風呂を作りたくて。ただ、俺は氷を作る魔法が、あまり得意じゃなくて」
ジェクスは、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「――お願いできないか」
アリシャは、しばらくジェクスの顔を見つめた後、小さく笑った。
「――いいわよ、それくらい」
「――助かる」
アリシャが、手をかざす。冷気が指先から広がり、傍らに置かれた大きな樽が、瞬く間に氷水で満たされていった。
「――こんなもの?」
「――十分だ。ありがとう」
「――でも、何でこんなこと、今更」
その問いに、ジェクスは、少し遠い目をした。
「――こっちの世界に来る前、大事な勝負事の前は、いつもサウナに入ってた。……体から、悪いものを全部抜いて、頭を空っぽにするんだ。験担ぎみたいなもんだな」
「――そう」
「明日から、いよいよ本番だ。……だから、今夜のうちに、済ませておきたくて」
アリシャは、その言葉に、小さく頷いた。
「――なら、頑張って」
「――ああ。……もし興味あるなら、いつでも入りに来ていいからな」
軽い調子で付け加えられたその一言に、アリシャは、特に気にする様子もなく、小さく肩をすくめただけだった。氷水を作り終えたことに満足したように、そのまま宿舎へと戻っていく。
その背中を見送りながら、ジェクスは、小さく笑った。
(――気づかなかったか)
誘ったつもりだった。だが、アリシャは、それを深く考えることもなく、ただ頼まれた通りに氷を作って帰っていった。
(――まあ、それならそれで)
ジェクスは、一人、組み上げたサウナに火を入れた。
熱気が、じわじわと肌に染み込んでくる。汗が噴き出し、余計な思考が、少しずつ溶けて流れていくような感覚があった。
(――明日から、いよいよ本番だ)
想定録の棚を、静かに辿っていく。これまで積み重ねてきたもの――三十三年分の想定、この世界で得た技術、仲間たちとの絆。全てが、今この瞬間のために積み上がってきた気がした。
(――デュオ・プロヴィーサ。トルメントゥム・イグニス。トルム・ウェネヌム)
新しく手にした力の名を、一つひとつ、頭の中で確かめる。まだ完成していない技術もある。だが、今持っているものだけで、できる限りのことをする――それだけだった。
熱に浸りきったところで、氷水の樽に、体を沈める。冷たさが、一気に全身を駆け抜けた。
「――っ、これだ」
かつて、現世で何度も繰り返してきた儀式。熱と冷、その落差の中で、思考が驚くほど澄み渡っていく。不安も、緊張も、余計な感情の全てが、その一瞬だけ、綺麗に洗い流されるような感覚があった。
サウナと水風呂を、幾度か往復するうちに、体の芯まで、静かな熱と落ち着きが満ちていった。
(――よし)
満足のいく仕上がりに、ジェクスは小さく頷いた。
自室に戻ると、剣――デュオ・プロヴィーサを、丁寧に手入れする。二振りの刃を、灯りに照らしながら確かめ、鞘に収める。明日からの戦いに向けて、準備できることは、もうやり尽くしていた。
(――あとは、寝るだけだな)
想定録の棚に、静かに蓋をするように、ジェクスは目を閉じた。三十三年分の積み重ねの先、まだ見ぬ戦いへの、確かな覚悟だけが、胸の奥に残っていた。
穏やかな眠りが、静かに訪れた。
***
その夜遅く、宿舎の自室に戻ったアリシャは、寝支度を整えながら、ふと今日の出来事を思い返していた。
(――サウナの後は、水風呂……)
その言葉の意味を、頭の中で、もう一度なぞってみる。
(――待って。あれ、もしかして――)
一緒に入らないか、という誘いだったのではないか。その可能性に、今更ながら思い至った。
「――え」
顔が、一気に熱くなるのを感じた。
「――何よ、それ……最初に言ってよ……」
誰に言うでもなく、アリシャは、枕に顔を埋めた。
出立前夜、静かな宿舎の一室で、一人分の羞恥心だけが、しばらくの間、行き場もなく燻り続けていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
サウナと水風呂、現世の習慣を異世界で再現するジェクスらしい一幕でした。不器用な誘い方と、それに後から気づくアリシャ——二人の距離感が、また少し縮まったのではないかと思います。
決戦前夜、思考を整え、静かに眠りについたジェクス。次話はいよいよ出立の朝です。次話もお楽しみに。




