第3話 名前を選ぶ
異世界に降り立った主人公。まず彼がやったのは、驚くことでも喜ぶことでもなく、状況確認でした。
三十三年間積み重ねてきた「もしも」への備えが、さっそく牙を剥く第三話です。
城門に近づくにつれ、怒鳴り声の中身が聞き取れるようになってきた。
「――だから、今日はもう受け付けられないと言っている! 身分証がない者は、後回しだ!」
「そんな……! 村が焼かれて、命からがら逃げてきたんだ! 頼む、後生だから!」
鎧姿の門番と、旅装のまま泥にまみれた男が言い争っていた。周りには同じように身なりの荒れた人々が、不安げに立ち尽くしている。
(――難民か。魔物の被害が、思ったより広がってるのかもしれない)
ジェクスは列の後ろに並びながら、耳を澄ませた。
「最近、身分証のない流民が増えすぎてる。上からのお達しでな、審査を厳しくしろと言われてるんだ。悪いが、俺にもどうしようもない」
門番の声には、苛立ちよりも疲労がにじんでいた。何十人と同じやり取りを繰り返し、その度に板挟みになってきたのだろう。悪人には見えなかった。
しばらく押し問答が続いた後、結局その男は仮の待機所へ案内されていった。列が、また少しずつ動き出す。
自分の番が来た。
「身分証を」
門番が、感情を殺した声で言った。だが、その目の奥には、先ほどまでの疲労がまだ残っている。
「持っていない」
ジェクスは正直に答えた。誤魔化しは、疑いを生む。疑いは、時間を食う。
門番の眉が、ぴくりと動いた。またか、という顔だった。
「今日はもう――」
「三日前、北の外れの村が魔物の群れに襲われた」
ジェクスは、相手が言い切る前に続けた。焦った様子は見せず、淡々と。
「家も、書類も、燃えた。命からがら逃げてきただけだ。名前を言っても、恐らく知らない村だ」
門番は、疑わしげにジェクスの姿を上から下まで見た。汚れひとつない旅装。傷ひとつない肌。矛盾に気づかれかけている、その空気を感じ取ったジェクスは、あらかじめ用意していた一手を出した。
「見ての通り、身なりは整っている。逃げる前に、せめてこれだけはと着替えてきた。命だけは、と思って」
半分は本当だった。造像されたばかりの体と装備は、傷んでいるはずがない。だが「命だけは助かりたくて取り繕った」という説明は、人間の見栄という普遍的な弱さに訴えかける。
門番は、じっとこちらを見つめたまま、しばらく黙っていた。
「――今日だけで、五人目だな。こういう手合いは」
疲れた声で、そう呟いた。だが、その響きに敵意はなかった。むしろ、どこか諦めに似た苦笑が混じっている。
「仮登録所に行け。手数料と引き換えに、暫定の身分証を出してもらえる。……最近は物騒だ。気をつけてな」
その一言に、ジェクスは小さく引っかかりを覚えた。
「物騒、というと」
「魔物の異常発生だけじゃない。……いや、お前には関係のない話だ。行け」
門番はそれ以上語らず、次の列に向き直った。だが、その一瞬の間に浮かんだ表情――何かを警戒するような、苦いものを堪えるような色を、ジェクスは見逃さなかった。
(――魔物だけじゃない、か。この世界にも、人為的な何かがある、ということか)
「仮登録には、名が要る」
門番が続けて言った。
「名は」
その一言で、足が止まりかけた。
――名は。
天界で神に問われたのと、同じ言葉だった。あの時は答える間もなく光に飲まれたが、今度は違う。今、この場で、自分がこれから背負う名を、自分自身の意思で選び取れる。
元の名前は、もう意味を持たない。あの三十年の、うだつの上がらない日々の名前。捨てることに、未練はなかった。
(――そういえば、あの名前を名乗らなくなったのは、これが初めてじゃない)
顔を出さずに続けていた発信も、あの名前ではやっていなかった。ストレッチも、筋トレも、腸活も、全部別の名前の下でしか語ってこなかった。本名を捨てて、別の名前で新しい自分になる練習は、もう三十歳を過ぎた頃から積み重ねてきたことだった。
だから今、これが本当の意味での最後の切り替えなのだと分かっても、怖くはなかった。むしろ、ようやく本番が来た、という感覚に近い。
ウィクトーリア・アマト・クーラム。勝利は、準備を愛する。
その言葉の響きから、頭の中に浮かんだ音があった。配信で名乗っていた名前と、どこか重なる音。
「――ジェクス」
自分の口から出た音を、自分の耳で確かめる。悪くない、と思った。
「ジェクス、だな」
門番が羊皮紙に何かを書き付けながら復唱した。それから、ふと顔を上げた。
「変わった名だな。どこの言葉だ」
「――さあ。自分でもよく分からない」
それは、噓ではなかった。門番は怪訝な顔をしたが、それ以上は追及せず、小さく笑った。
「まあいい。人の名前なんぞ、大体そんなもんだ」
仮登録所は門をくぐってすぐの、小さな石造りの建物だった。手数料は思いのほか安く、暫定の身分証を受け取る。
門をくぐると、石畳の通りに雑多な喧騒が満ちていた。露店の呼び込み、荷馬車の車輪の音、聞いたことのない言語の抑揚。三十三年間、頭の中だけで思い描いてきた「異世界」が、今、五感のすべてを通して押し寄せてくる。
だが、その活気の端々に、さっきの門番が見せた苦い表情の余韻が、まだ残っている気がした。
通りの先に、剣と盾を組み合わせた紋章の看板が見えた。
(――冒険者ギルド、あたりか)
ジェクスは、その看板に向かって歩き出した。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
異世界に来て早々、名前を変え、金を得て、ようやく街へ。次話ではいよいよ冒険者ギルドに足を踏み入れます。
「想定内だ」と繰り返す彼に、何か想定外が訪れるのはいつになるのか——よければ感想やブックマークで応援していただけると嬉しいです。




