第3話 名を、決める
水を探して歩いた先に、その街はありました。
水の音が聞こえてきたのは、歩き始めて二時間ほど経った頃だった。
草原が途切れ、地面がなだらかに下っていく。その底を、幅十メートルほどの川が流れていた。
水は澄んでいて、底の小石が数えられるほどだった。岸辺には背の低い灌木が茂り、白い小さな花をつけている。羽虫が、水面のすぐ上を群れて飛んでいた。
膝をつき、掌で水を掬う。
匂いを嗅ぐ。濁りを確かめる。少し口に含んで、吐き出す。
――大丈夫だな。
喉を鳴らして飲んだ。冷たさが、食道を通って腹まで落ちていくのが分かった。
顔を洗い、腕についた煤を落とす。水面に映った自分の顔が、揺れて崩れた。
――知らない顔だ。
驚きはなかった。むしろ答え合わせに近い感覚だった。
二十五歳前後に見える顔立ち。身長も、目測で百七十二センチ程度まで伸びている。
「理想の自分」を想像しろと言われて、その通りのものが返ってきた。それだけのことだ。
――三十三年鍛えてきた体の記憶は、そのまま残っている。器だけが、新しくなった。
立ち上がり、川に沿って下流へ歩き出した。
***
道らしきものを見つけたのは、それからさらに一時間後だった。
草が踏み固められ、二本の轍が平行に走っている。荷馬車の跡だ。深さから見て、それなりに重い荷を積んでいた。しかも一台や二台ではない。
――街道だ。
街道に足を踏み入れた瞬間、足裏の感触が変わった。草地の柔らかさが消え、乾いて締まった土の硬さになる。
***
日が傾き始めた頃、地平線の向こうに、それは見えてきた。
最初は、ただの影だった。
近づくにつれ、輪郭がはっきりしてくる。
灰褐色の城壁。高さは十メートル近くあるだろうか。石を積み上げ、隙間を漆喰で埋めた造りだ。長年の風雨で角が丸くなり、所々に苔が這っている。
壁の上には等間隔で見張り台が立ち、そこに小さな人影が見えた。
壁の内側からは、いくつもの煙が立ち上っていた。細いものが無数に、そして一本だけ、太く黒い煙。
――あれは、鍛冶場の煙だな。
風向きが変わると、匂いが届いた。
人の匂いだった。煮炊きの匂い、家畜の匂い、土埃、そして何かが焦げる匂い。それらが混ざり合って、一つの塊になって流れてくる。
三十三年間、頭の中だけで思い描いてきた「異世界の街」が、今、目の前にあった。
少しだけ足を速めた。
***
門の前には、列ができていた。
荷馬車を引いた商人、旅装の男女、子供を連れた家族。三十人ほどだろうか。
列の脇では、露天の水売りが柄杓を掲げて声を張り上げている。荷馬車の馬が、退屈そうに前肢で地面を掻いていた。
俺は列の最後尾についた。
前の旅人たちのやり取りに、耳を澄ませる。
「身分証を」
「はい、これを」
短いやり取りが繰り返される。木札を見せる者、羊皮紙を広げる者。形式は様々だが、共通しているのは――それを持たない者は、明らかに例外扱いされているということだ。
実際、前から五人目の男が、門番に何かを詰め寄られていた。声が大きくなり、押し問答が続く。
――さて。
想定録の該当項目が、ほとんど反射的に引き出された。
「身分を証明するものを持たない状態で、統治機構の存在する土地に入る場合」。
無人島漂流や大規模災害を想定して組み立てた思考の枠組みが、まさかこんな形で流用されるとは、三十三年前の自分は想像していなかっただろう。
列が進む。
自分の番が来た。
***
「身分証を」
門番が、感情の乗らない声で言った。数えきれないほど繰り返してきたであろう定型句。鎧の肩当てには、細かい傷が無数に入っていた。
「持っていない」
正直に答えた。
ここで下手に誤魔化そうとするのは悪手だ。門番という職業は、噓をつく旅人を見慣れている。誤魔化しは疑いを生み、疑いは時間を食う。
想定録が導き出した結論は、ひとつ。
――正直に、かつ「よくある事例」として処理させること。
門番の眉が、わずかに動いた。面倒事を予期する動きだ。
「では、どこから来た」
「北の外れの村だ。名前を言っても、恐らく知らないだろう」
これも計算のうちだった。存在しない、あるいは辺境すぎて確認しようのない出自を告げる。噓ではあるが、検証不可能な噓は、噓として機能しない。
「三日前、村が魔物の群れに襲われた。家も、書類も、燃えた。命からがら逃げてきた」
淡々と告げる。悲愴感を演出するつもりはなかった。感情を込めすぎれば、それは「演技」として相手の警戒心を刺激する。
事実を事実として述べる態度こそが、最も疑われにくい。
門番は、しばらくこちらを見つめた。
汚れひとつない旅装。傷ひとつない肌。
――矛盾に気づかれるか。
そう思ったところで、あらかじめ用意していた次の一手を出す。
「見ての通り、身なりは整っている。逃げる前に、せめてもと身なりだけは整えてきた。命だけは、と思って」
これは半分本当だった。造られたばかりの体と装備は、傷んでいるはずがない。
だが「命だけは助かりたくて取り繕った」という説明は、人間の見栄という普遍的な弱さに訴えかける。門番のような職業の人間は、そうした人間くささには慣れている。
門番は、小さく息を吐いた。
「……よくある話だ。仮登録所に行け。手数料と引き換えに、暫定の身分証を出してもらえる」
思った通りの展開だった。
「仮登録には、名が要る」
門番が続けて言った。
「名は」
***
その一言で、足が止まりかけた。
――名は。
天界で、神に問われたのと同じ言葉だった。
あの時は答える間もなく光に飲まれた。だが今度は違う。今、この場で、自分がこれから背負う名を、自分の意思で選び取れる。
現実の名前は、もう意味を持たない。
あの三十年の、うだつの上がらない日々の名前。仕事で失敗を重ね、大切な人を傷つけ、何者にもなれなかった男の名前。
――捨てることに、未練はない。
そういえば、と思った。
あの名前を名乗らなくなったのは、これが初めてじゃない。
顔を出さずに続けていた発信も、あの名前ではやっていなかった。ストレッチも、筋トレも、腸活も、全部「JX」という名前の下でしか語ってこなかった。
本名を捨てて、別の名前で新しい自分になる。
その練習は、もう三十歳を過ぎた頃から、画面の向こうで積み重ねてきたことだった。
だから今、これが本当の意味での最後の切り替えなのだと分かっても、怖くはなかった。
むしろ――ようやく本番が来た、という感覚に近い。
ウィクトーリア・アマト・クーラム。
勝利は、準備を愛する。
その響きから、頭の中に浮かんだ音があった。あの発信で名乗っていた名前と、どこか重なる音。
「――ジェクス」
自分の口から出た音を、自分の耳で確かめる。
悪くない、と思った。
新しい自分に、ちょうどいい名前だった。
「ジェクス、だな」
門番が羊皮紙に何かを書き付けながら復唱した。
「ああ」
それが、彼が「ジェクス」と名乗った、最初の瞬間だった。
***
仮登録所は、門をくぐってすぐの、小さな石造りの建物だった。
手数料は思いのほか安く、獣の袋から得た硬貨で足りた。
これも想定内だ。どんな社会でも、流民を受け入れて管理する方が、締め出すより安上がりだと、統治する側は分かっている。
暫定の身分証――薄い木札に、焼き印で文字が刻まれたもの――を受け取り、ジェクスは建物を出た。
***
石畳の通りに、雑多な喧騒が満ちていた。
両側に立ち並ぶのは、二階建ての石造りの家々。一階を店にして、二階に住んでいるらしい。窓からは洗濯物が垂れ下がり、その下を人が行き交っている。
露店の呼び込み。荷馬車の車輪が石畳を叩く音。子供が三人、笑いながら脇をすり抜けていった。
通りの先では、串に刺した肉を焼いている屋台があった。脂の落ちる音と煙が、風に乗って流れてくる。腹の奥が、素直に反応した。
聞いたことのない言語の抑揚。それなのに、意味は分かる。
――言語の問題は、解決済みか。神が気を利かせたのか、ギフトの副産物か。
ジェクスは、石畳の真ん中で足を止めた。
行き交う人々が、その脇を流れていく。
三十三年間、頭の中だけで思い描いてきた「異世界」が、今、五感のすべてを通して押し寄せてくる。
匂い。音。人の声。石畳の硬さ。夕方の風。
――本当に、来たんだな。
しばらく、そうしていた。
***
やがて、ジェクスは腰に手をやった。
角の束と、ほとんど空になった革袋。
――さて。
宿を取るにも、飯を食うにも、金がいる。
この角が金になるかどうかは、まだ分からない。だが、換える場所さえ見つかれば、当面はしのげるはずだ。
そして、その先も考えなければならない。
この世界で生きていくなら、継続的に稼ぐ手段がいる。三十三年分の準備を活かせて、なおかつ、この世界の仕組みに乗れる場所。
――まずは、そういう場所を探すか。
ジェクスは、雑踏の中を歩き出した。
夕陽が、石畳を赤く染めていた。
お読みいただきありがとうございます。
身分証を持たない男が、どうやって門をくぐるか。ここも三十三年分の想定が働く場面でした。
そして、名前。捨てる名前に未練はなく、選ぶ名前に迷いもない——その理由が、三十歳から始めた発信にありました。
ここから、彼の異世界での生活が始まります。
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