第2話 「想定録、起動する」
体が、なくなった。
正確には、体という重みだけが、すとんと抜け落ちた。魂だけが取り残された感覚――そんなもの、三十三年間、一度も想定していなかった。
(――おい、待て)
一瞬、本能的な怯えが背筋を駆け上がった。地面もない。重力もない。呼吸をしている実感すらない。人がパニックになるには、十分すぎる状況だった。
だが、怯えは長くは続かなかった。
(――いや。落ち着け。今更、何を慌ててる)
三十三年間、ありとあらゆる「もしも」を考えてきた頭が、すぐに立て直しにかかる。肉体という檻から抜け出した魂が、今、世界と世界の狭間を渡っている――誰も名付けたことのない、その一瞬。
想定録の棚を、反射的に探る。
――ない。
該当項目、ゼロ。三十三年分の記録のどこにも、この感覚を示すものはなかった。
笑いそうになった。
(――ここに来て、まだ知らないことがあるとはな)
積み重ねてきたはずの備えが、初めて役に立たない場所に立っている。それが、怖くなかった。むしろ、笑ってしまうくらい愉快だった。
暗闇の奥で、記憶が一枚ずつめくれていく。
誰もいない早朝の公園。ゴム製の模擬刀を握る手のひらの感触。読み潰した防災の本の、ページの端の折れ具合まで思い出せる。何百回とシミュレートした「もしもゾンビが出たら」の手順。あの積み重ねの全部が、今、初めて意味を持つ場所へ向かっている。
――想定録、起動。
言葉にならない感覚が、体の芯で――いや、体などもうないのに――確かに輪郭を持った。今までは、ただ考え続けてきただけの記憶の山。それが今、呼べば応える距離まで近づいてくる。三十三年、頭の中だけで転がしてきた石が、ようやく武器の形に研がれた。そんな手応えだった。
遠くで、鐘が鳴った。
夕焼けの丘で聞いたのと同じ、低く長い響き。
だが今度は、違って聞こえた。
――終わりの合図じゃない。
これは、始まりの音だ。
体の輪郭が、ゆっくりと結び直されていく感触があった。ギフトによって書き換えられた新しい器――どんな姿になっているのか、まだ自分でも知らない。
知らないということに、もう怯えはなかった。
(――さて。ここから先、全部が想定外だ)
三十三年間、あらゆる可能性を潰してきた男が、初めて「分からないこと」を心地よいと感じていた。
意識が、少しずつ像を結び始める。
遠く、かすかな音が混じった気がした。何かが動く、乾いた音。
風の匂いがした。
乾いた、夏草の匂いだった。




