第2話 異世界? それも想定内だ
降り立った先は、地平線まで続く草原でした。
草の匂いで、目が覚めた。
乾いた、夏草の匂いだった。
まず、生きていることを確認する。次に痛みの有無。次に四肢の可動域。すべて異常なし。
目を開けた。
――空が、高い。
それが最初の印象だった。
地球の空より、明らかに青が深い。雲は一つもなく、頭上から降ってくる陽射しは白く鋭い。
身を起こすと、視界いっぱいに草原が広がっていた。
膝丈ほどの草が、地平線まで途切れることなく続いている。黄緑と、枯れかけた金色が斑に混じり合い、風が吹くたびに、その色の帯が波のようにうねって走っていった。
遮るものが何もない。ビルも、電線も、家も。
遠くに、ぽつりぽつりと木が立っていた。幹は太く、枝は傘のように横へ広がっている。乾燥した土地に適応した樹形だ。地球のサバンナに生えるアカシアに似ていた。
その向こう、はるか遠くに、うっすらと山脈の稜線が見える。
――ここが、異世界か。
立ち上がる。
軽い。驚くほど、体が軽かった。
三十三年間で染み付いた、関節のわずかな軋みも、朝の凝りも、何もない。視界も妙に鮮明だった。数十メートル先の木の、葉脈の一本一本まで見える気がする。
感情が動きかけたのは、一瞬だけだった。
――想定内だ。
***
草むらが、不自然に揺れた。
風の向きとは、合わない揺れ方。
俺は足を止め、呼吸を整えた。
距離、およそ十五メートル。揺れの幅から推定して、体高は五十センチ前後。単独。草を掻き分ける音の間隔が一定――迷っていない。こちらに真っ直ぐ向かってきている。
――狙われている。
飛び出してきたのは、犬ほどの大きさの獣だった。
赤黒い体毛。額から、小さな角が一本。開いた口から覗く犬歯は、明らかに肉を裂くための形をしていた。
唸り声も、飛びかかる軌道も、地球上のどんな動物とも一致しない。
だが。
動きの質そのものは、野生動物の捕食行動と、何も変わらなかった。
後肢に体重を乗せ、肩を沈める。跳躍の予備動作。
――中型犬の突進。想定済み。
狙ってくるのは喉だ。捕食者が最短で獲物を無力化する場所。
跳んだ。
俺は下がらなかった。下がれば、追われる。
半歩だけ、横に踏み出す。
空中で軌道を修正できない生き物は、跳んだ瞬間に進路が確定する。避けるべきは、真後ろではなく真横。三十三年間、頭の中で何百回と繰り返した判断だった。
獣の体が、俺の肩をかすめて通り過ぎていく。
着地の瞬間――そこが、一番無防備になる。
俺は、その沈んだ背中に、掌を叩きつけた。
力任せではない。体重を乗せ、地面へ押し込むように。
「ギャンッ」
悲鳴。だが、まだ生きている。
起き上がろうと、後肢が土を掻いた。
そこへ、俺は膝を落とした。
背骨の付け根――四足動物が最も脆く、そして体重を支えるために必ず力が集中する一点。
鈍い音がした。
獣の動きが、止まった。
***
立ち上がり、息を整える。
――百二十。上がってはいる。だが、想定の範囲内だ。
初めて見る生き物だった。初めて見る世界だった。使ったのは、ただの体術と、三十三年分の判断だけ。
ギフトは、まだ一度も使っていない。
「――それも」
俺は、静かに笑った。
「――想定内だ」
***
その時だった。
風の中に、別の匂いが混じった。
獣の体臭。それも――一頭分ではない。
振り返る。
草原の、緩やかな起伏の向こう。
草が揺れていた。
左に三つ。右に四つ。正面に、それ以上。
赤黒い背が、次々と、草の海から浮かび上がってくる。
数えて十四。いや、まだ増えている。
――囲まれた。
***
冷静に考えるほど、答えははっきりしていた。
さっきの一頭は、体術で仕留められた。跳躍の軌道が読めて、着地の隙が突けたからだ。
一対一なら、それでいい。
だが十数頭が同時に来れば、躱した先に必ず別の個体がいる。一頭を仕留めている間に、三頭が背後を取る。
想定録の該当項目は、ある。「複数の捕食者に包囲された場合」。
その結論も、覚えている。
――逃げろ。
人間の脚力では、群れとは戦えない。木に登るか、高所に逃げるか、火を使うか。正面から戦うという選択肢は、そこにはなかった。
俺は、ゆっくりと息を吸った。
――だが、ここは地球じゃない。
***
先頭の一頭が、前肢で地面を掻いた。
その動きに合わせるように、他の個体も低く身構えた。統率されている。単独で襲ってきたさっきの一頭とは、明らかに質が違う。
唸り声が、あちこちから重なった。低く、腹に響く音。
包囲が、じりじりと狭まってくる。十五メートル。十二メートル。
俺は動かなかった。
十メートル。八メートル。
先頭が、後肢に体重を乗せた。
――今だ。
***
地を蹴った。
ただし――前でも、後ろでもない。
真上に。
体が、浮いた。
風が下から吹き上げてくる。草原が、足の下で遠ざかっていく。
飛んでいた。
翼もなく、支えもなく、ただ自分の意志だけで。
――三十三年間、何百回も思い描いた景色だ。
眼下では、群れが混乱していた。獲物が消えた地点で何頭かが衝突し、もつれ合っている。見上げる個体もいたが、その目には明らかな困惑があった。
空から来る捕食者を、こいつらは知らない。
高度、およそ二十メートル。
俺は、右手を、下へ向けた。
***
掌に、熱が集まる。
炎だった。
橙色の、拳大の塊。触れれば焼ける、という直感的な理解が、指先から伝わってくる。
――このまま撃ち下ろせば、一頭は焼ける。だが群れは散る。
散った獣は草原に伏せる。草丈は膝上。上空からでも見失う。そして、こちらの体力が尽きるのを待つだろう。
――なら、散らせない。
視線を巡らせる。
群れの足元に広がる、乾いた黄金色の草。雨の降っていない土地。
風は、西から東へ。途切れなく流れている。
群れは、その東側にいる。
答えは、一瞬で出た。
***
俺は、群れではなく――その西側の、誰もいない草地へ、炎を撃ち込んだ。
乾いた草が、爆ぜるように燃え上がった。
一拍おいて、風が炎を押した。
橙色の線が、地を這うように東へ走り出す。乾いた草を舐め、煙を上げ、みるみる幅を広げながら、群れへと迫っていった。
「――ギャゥッ!?」
悲鳴が、下から上がった。
群れが、散った。だが、西へは逃げられない。炎の壁が、そこにある。
北と南は――既に撃ち込んでいた。二発、三発。同じ要領で、乾いた草を焼き、風に任せる。
燃え広がる炎が、コの字を描いた。
残された逃げ道は、東だけ。
***
俺は、滑るように高度を下げた。
炎に追われた群れが、一方向へ殺到してくる。
狭い。密集している。互いにぶつかり、押し合い、身動きが取れなくなっている。
両手に、炎を集めた。
さっきより、ずっと大きく。
放たれた二つの塊が、密集した群れの中心で弾けた。
熱波が、草を薙ぎ倒しながら広がっていく。
悲鳴。焦げた匂い。もつれ合いながら倒れていく赤黒い体。
それでも、数頭が炎を抜けて走り出た。
俺は、地に降り立った。
抜けてきたのは三頭。もう包囲ではない。
――これなら、さっきと同じだ。
一頭目。跳躍の軌道を読み、半歩横へ。着地の背に掌を打ち込む。
二頭目。振り向きざま、顎を下から蹴り上げる。
三頭目は、既に牙を剥いていた。
避けきれない。
俺は、右腕を前に出した。
炎が、腕を包む。
噛みついた顎が、そのまま焼けた。
獣が跳び退がる。その喉元へ、炎を纏った手刀を叩き込んだ。
音もなく、赤黒い体が地に落ちた。
***
静かになった。
燃え残った草が、あちこちで小さく煙を上げている。風が、その煙を東へ流していった。
呼吸を整える。心拍数を確かめる。百六十。
右腕を見る。炎を纏っていた部分に、火傷はなかった。
――そうか。自分の炎では、焼けないのか。
一つ、記録が増えた。
空を見上げる。
さっきまで、あそこにいた。
――飛べた。
三十三年間、何千回と思い描いた。布団の中で、電車の中で、誰にも言えずに。
その全部が、今日、本当になった。
俺は、口元を緩めた。
嬉しくないわけがない。
***
焼け跡を歩きながら、角を集めた。
黒く炭化した草を踏むと、ぱきぱきと乾いた音がした。煤の匂いが鼻につく。
全部で十七本。革の切れ端で束ねて、腰に下げた。
最初に倒した一頭のところへ戻ると、首元に小さな革袋が下がっていた。中には、硬貨が数枚。
――獣が、金を持っていた。
この獣は、誰かを襲った。その誰かが、金を持っていた。つまり――この草原には、人が通る。
そして、こういう獣が人の通り道に出るなら。
――狩る仕組みが、必ずある。
害獣を駆除して、対価を得る。地球でも、同じことをしていた。統治機構がある社会なら、必ず似た仕組みを作る。
俺は、腰の角束に触れた。
――これは、たぶん、金になる。
***
顔を上げる。
風は、相変わらず西から東へ。
水の流れる方向と、太陽の高度。二つを手がかりに、大まかな地形を頭に描いた。
水は、生活の匂いを運ぶ。人が住むなら、水辺の近くだ。
俺は、歩き出した。
背後で、焼け跡の煙が、まだ細く立ち上っていた。
お読みいただきありがとうございます。
一頭目は、ギフトを使わずに仕留めました。使ったのは体術と、三十三年分の判断だけ。
ですが、群れが相手ではそうはいきません。想定録の結論は「逃げろ」——それを覆したのが、あの日の四十秒で選び取った力でした。
初めて空を飛ぶ場面を、少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。




