第1話「準備は終わっている」
「異世界転生したら最強でした」——そんな話ではない。
ゾンビ、地震、無人島——33年間、あらゆる”もしも”を考え尽くした男が、たまたま異世界に転移しただけの話だ。
準備は、もう終わっている。
「準備は終わっている」
もしも、ゾンビが出たら。
もしも、大地震が来たら。
もしも、無人島に流されたら。
もしも、誘拐されたら。
もしも、未知のウイルスが蔓延したら。
もしも、エイリアンが襲来したら。
もしも――異世界に、転生してしまったら。
俺は33年間、そればかり考えてきた。
子供の頃からそうだった。友達が漫画やアニメの話で盛り上がっている横で、俺はいつも「もしも自分がその世界にいたら」を本気で考えていた。武器の作り方。生き延びるための知識。心を折らない方法。誰も聞いていないのに、頭の中では常にシミュレーションが続いていた。
周りからは変人と言われた。「そんなこと考えて何になるんだ」と、何度も言われた。分かってる。分かってるけど、やめられなかった。
30歳になるまで、俺の人生はお世辞にも上手くいっているとは言えなかった。仕事では大きな失敗が続き、行き詰まっていた。焦りと苛立ちが積み重なって、気づけば大切な人との関係まで壊しかけていた。「だから言ったのに」――抑えていたはずの言葉を、一番言ってはいけない相手にぶつけてしまった夜のことを、今でも覚えている。
このままじゃ、本当にダメになる。
そう実感したのが、30歳の夏だった。
そこから、変わろうと決めた。本業を続けながら、健康習慣を発信する副業も始めた。ストレッチ、筋トレ、腸活――誰にでもできる小さな積み重ねを、顔も出さずに配信し続けた。最初は誰も見ていなかった。それでも続けた。
少しずつだけど、確かに人生は上向き始めていた。フォロワーが増え、信頼できる仲間もできた。33年間積み重ねてきた「もしも」への想定と、30歳から積み重ねてきた現実での努力。そのふたつが、ようやく重なり始めた気がしていた。
――ようやく、報われる。
そう思った矢先だった。
頭の奥で、鐘が鳴った。
* * *
日曜の夕方、いつものウォーキングルートを歩き終えた俺は、丘の上の公園にたどり着いた。
オレンジ色に染まった空が、街全体を静かに包んでいる。ベンチに腰かける人、犬を散歩させる人、走り去っていく子供たち。何の変哲もない、いつもの光景だった。
軽くストレッチを始める。肩甲骨を回し、股関節をほぐし、ふくらはぎを伸ばす。配信で毎日教えていることを、自分の体でも忠実に実践する。33歳になった今も、この体は裏切らない。無駄な脂肪はなく、関節も柔らかい。年齢のわりに、と言われることも多くなった。
深呼吸をひとつ。今日も一日、悪くなかった。
そう思った、次の瞬間だった。
――ゴォン。
頭の奥で、鐘が鳴った。
空気を震わせるような音ではない。もっと内側、脳の奥のほうで直接鳴り響くような、そんな感覚だった。
俺は動きを止めた。周りを見渡す。誰も反応していない。犬は変わらず尻尾を振っているし、子供たちは変わらず走り回っている。この音が聞こえているのは、俺だけらしい。
――ゴォン。
二度目の音とともに、視界の端が歪み始めた。景色が、水面に映った像のように揺らぐ。
まさか。
頭の中で、33年分の「もしも」が一斉に立ち上がる。これは、あの「もしも」のひとつじゃないのか。何百回、何千回とシミュレートしてきた、あの可能性。
――ゴォン。
三度目の音で、膝から力が抜けた。地面に倒れ込みながらも、不思議と恐怖はなかった。むしろ、どこか懐かしいような、待ち望んでいたような感覚さえある。
意識が、遠くなっていく。
これが本当に「もしも」の答えだとしたら。
悪くない。
むしろ、ずっと待っていた気さえする。
33年間思い描いてきた無数の可能性のうち、これもまた、そのひとつに過ぎない。
――さあ、来い。
そう小さく呟いた瞬間、視界は完全に暗転した。
* * *
## 天界にて
――ふわり、と体が浮くような感覚があった。
いや、体ではない。魂だ。肉体という重い殻から、中身だけがすっと引き剥がされていく。そんな感覚。
想定録No.4「魂が肉体から分離する場合の感覚について」。
頭の奥で、勝手にファイルが開く。33年間、幾度となく思い描いてきた「もしも」のひとつが、今まさに現実になっている。だからだろうか、恐怖よりも先に、奇妙な納得感のほうが強かった。
――ああ、こんな感じなのか。
目を開けると、そこは真っ白な空間だった。上も下も、右も左もない。ただ光だけがある場所。
「――時間がない」
声が響いた。姿は見えない。だが、それが「神」と呼ばれる存在だということだけは、なぜか疑いようもなく理解できた。
「お前の魂は、この場では四十秒しか保たない。魔力濃度が高すぎる」
四十秒。
頭の中で、瞬時に計算が始まる。想定録の中にも、こんな短い制限時間についての項目はなかった。だが慌てはしない。慌てないことも、33年間の想定のうちだ。
「まず十秒で説明する。お前をこれから、異なる世界へ転移させる」
――一つ。
「次の十秒で説明する。転移に際し、お前にはギフトを与える」
――二つ。
「そして十秒で説明する。転移先では、好きに生きろ。誰も縛らない」
――三つ。
「残りは十秒だ。――お前の望む力を、想像しろ」
四つ目の十秒が、始まった。
迷っている暇はない。だが、迷う必要もなかった。33年間、俺はこの瞬間のためだけに生きてきたと言ってもいい。
超人的な筋力。翼を使わず、自分の意志だけで空を飛ぶ力。炎を自在に操る力。危機を察知する直感。どんな傷も浅いうちに癒える頑丈さ。
――これが欲しいと、ずっと思い描いてきた「理想の自分」の姿。
頭の中でイメージを結晶させていく。一秒ごとに、その輪郭がはっきりしていく。焦る必要はない。想像することには、誰よりも慣れている。
だが、ただ思い描くだけでは足りない。33年間、俺はずっと考えてきた。都合の良い力には、必ず相応の代償がいる。制約のない力は、きっと薄っぺらい。
――一度きりでいい。その代わり、限界を超えた力をくれ。
二度と使えなくていい。この身から二度と解除されなくていい。その分だけ、可能な限りの上限を引き出せ。
それが、俺が33年間の想定の果てにたどり着いた、たったひとつの願い方だった。
「――時間だ」
神の声が、静かに響いた。
「その想像、確かに受け取った。一度きり、解除不能――お前自身が望んだ制約だ。その分だけ、上限は外している。名は――ウィクトーリア・アマト・クーラム。〝勝利は準備を愛する〟」
体の奥から、何かが満ちていく感覚があった。熱くはない。むしろ、ずっと昔からそこにあったものが、ようやく本来の形を取り戻したような、そんな感覚。
――知っている。都合の良い話には、必ず代償がいる。それを差し出したのは、他でもない俺自身だ。
「行け。お前の望んだ世界へ」
視界が白く染まっていく。
最後に、頭の中でひとつだけ呟いた。
――大丈夫だ。ここまでも、ここから先も。全部、想定内だ。
光が弾け、意識は闇の中へと吸い込まれいく…
――どこか、光の届かない場所で、何かが小さく嗤った。
まるで、その”想定外”の存在すら、初めから知っていたかのように。
…
第一話をお読みいただきありがとうございます。
「もし、この男の33年間の想定が、本当にすべて現実になったら?」
その答えは第二話から始まります。




