第1話「準備は終わっている」
「異世界転生したら最強でした」——そんな話ではありません。
三十三年間、あらゆる「もしも」を考え尽くした男の話です。
毒への対処、四百十二通り。
不意打ちを受けた場合の初動、千二百五十通り。
武器を持たない状態で刃物を向けられた時の対応、八十八通り。
全部、頭の中にある。
俺は三十三年間、そればかり考えてきた。
***
友達が漫画やアニメの話で盛り上がっている横で、俺はいつも別のことを考えていた。
もしも、この教室にゾンビが入ってきたら。窓は二階、飛び降りれば足首をやる。椅子で窓ガラスを割って、カーテンを裂いて、二本繋げば足りる。掃除用具入れのモップは、柄を折れば即席の槍になる。
大地震が来たら。無人島に流されたら。誘拐されたら。
誰も聞いていないのに、頭の中では常にシミュレーションが続いていた。
変人だと言われた。「そんなこと考えて何になるんだ」と、何度も言われた。
分かってる。分かってるけど、やめられなかった。
そして俺は――そのリストの中に、一つだけ、誰にも言えなかった項目を持っていた。
もしも、異世界に、転生してしまったら。
***
日曜の夕方。
俺は丘の上の公園に立っていた。
この街で一番高い場所だ。眼下には赤い屋根と灰色のビルが入り混じって広がり、その切れ目を縫うように県道が走っている。夕方五時を過ぎて、帰宅する車のヘッドライトが、ぽつぽつと数珠のように繋がり始めていた。
風が、西から吹いていた。
公園の縁に植えられた桜は、もうとっくに葉桜になっている。分厚く茂った葉が、風を受けてざわりと鳴った。足元には去年の落ち葉がまだ乾いたまま残っていて、踏むたびに小さく砕けた。
オレンジ色に染まった空が、街全体を静かに包んでいる。西の空だけが燃えるように明るく、東側はもう藍色に沈み始めていた。その境目の、どちらでもない紫色の帯を、俺はしばらく眺めていた。
軽くストレッチを始める。
肩甲骨を回し、股関節をほぐし、ふくらはぎを伸ばす。配信で毎日教えていることを、自分の体でも忠実に実践する。三十三歳になった今も、この体は裏切らない。
三十歳までの俺は、お世辞にも上手くいっているとは言えなかった。仕事で失敗が続き、焦りと苛立ちが積み重なって、気づけば大切な人との関係まで壊しかけていた。
このままじゃ本当にダメになる。そう実感して、変わろうと決めた。
顔も出さずに、健康習慣の発信を始めた。ストレッチ、筋トレ、腸活。誰にでもできる小さな積み重ねを、毎日配信し続けた。最初は誰も見ていなかった。それでも続けた。
少しずつ、確かに人生は上向き始めていた。
――ようやく、報われる。
深呼吸をひとつ。今日も一日、悪くなかった。
そう思った、次の瞬間だった。
***
――ゴォン。
頭の奥で、鐘が鳴った。
空気を震わせる音ではない。もっと内側、脳の奥のほうで直接鳴り響くような、そんな感覚だった。
俺は動きを止めた。
周りを見渡す。散歩中の老人も、遠くを走る車も、何も変わらない。この音が聞こえているのは、俺だけらしい。
――ゴォン。
二度目の音とともに、視界の端が歪み始めた。
街の灯が、水面に映った像のように揺らぐ。桜の葉のざわめきが、急に遠くなる。
まさか。
頭の中で、三十三年分の「もしも」が一斉に立ち上がった。
何百回、何千回とシミュレートしてきた、あの項目。誰にも言えなかった、あの一つ。
――ゴォン。
三度目の音で、膝から力が抜けた。
地面に倒れ込みながらも、不思議と恐怖はなかった。むしろ、どこか懐かしいような、待ち望んでいたような感覚さえある。
意識が、遠くなっていく。
これが本当に「もしも」の答えだとしたら。
悪くない。
――さあ、来い。
そう小さく呟いた瞬間、視界は完全に暗転した。
***
ふわり、と体が浮くような感覚があった。
いや、体ではない。魂だ。肉体という重い殻から、中身だけがすっと引き剥がされていく。そんな感覚。
目を開けると、そこは真っ白な空間だった。上も下も、右も左もない。ただ光だけがある場所。
沈黙が、重かった。
やがて、その静寂を破るように、声が響いた。
「――時間がない」
姿は見えない。だが、それが「神」と呼ばれる存在だということだけは、なぜか疑いようもなく理解できた。
「お前の魂は、この場では四十秒しか保たない。魔力濃度が高すぎる」
四十秒。
頭の中で、瞬時に計算が始まる。
慌てはしない。慌てないことも、三十三年間の想定のうちだ。
「まず十秒で説明する。お前をこれから、異なる世界へ転移させる」
――一つ。
「次の十秒で説明する。転移に際し、お前にはギフトを与える」
――二つ。
「そして十秒で説明する。転移先では、好きに生きろ。誰も縛らない」
――三つ。
「残りは十秒だ。――お前の望む力を、想像しろ」
四つ目の十秒が、始まった。
迷っている暇はない。だが、迷う必要もなかった。
三十三年間、俺はこの瞬間のためだけに生きてきたと言ってもいい。
超人的な筋力。翼を使わず、自分の意志だけで空を飛ぶ力。炎を自在に操る力。危機を察知する直感。どんな傷も浅いうちに癒える頑丈さ。
頭の中でイメージを結晶させていく。一秒ごとに、その輪郭がはっきりしていく。
だが、ただ思い描くだけでは足りない。
三十三年間、俺はずっと考えてきた。都合の良い力には、必ず相応の代償がいる。制約のない力は、きっと薄っぺらい。
――一度きりでいい。その代わり、限界を超えた力をくれ。
二度と使えなくていい。この身から二度と解除されなくていい。その分だけ、可能な限りの上限を引き出せ。
「――時間だ」
神の声が、静かに響いた。
「その想像、確かに受け取った。一度きり、解除不能――お前自身が望んだ制約だ。その分だけ、上限は外している。名は――ウィクトーリア・アマト・クーラム。〝勝利は準備を愛する〟」
体の奥から、何かが満ちていく感覚があった。
熱くはない。むしろ、ずっと昔からそこにあったものが、ようやく本来の形を取り戻したような、そんな感覚。
「行け。お前の望んだ世界へ」
視界が白く染まっていく。
最後に、頭の中でひとつだけ呟いた。
――大丈夫だ。ここまでも、ここから先も。
全部、想定内だ。
光が弾け、意識は闇の中へと吸い込まれていく。
――どこか、光の届かない場所で、何かが小さく嗤った。
まるで、その〝想定外〟の存在すら、初めから知っていたかのように。
第一話をお読みいただきありがとうございます。
三十三年分の備えが、いよいよ意味を持ち始めます。
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