第16話 夢見た空へ
ガルドナーに秘密を明かしてから初めての依頼。今回は、ずっと隠してきた力を初めて誰かの前で使う話です。
ガルドナーから魔力コントロールの型を教わった翌朝。気づけば、窓の外はすでに白み始めていた。
結跏趺坐を組んだまま、ジェクスは一晩中、指先の熱を意のままに動かす感覚を追い続けていた。想定録に新しく刻まれた手順を、何度も何度も反復する。途中から夜が明けたことにも気づかないくらい、没頭していた。
「――もう朝か」
固まった足を伸ばしながら立ち上がる。指先には、昨夜よりわずかに強い熱の輪郭が残っていた。まだ自在にとは言えないが、確かな手応えがある。
軽く身支度を整え、ジェクスはギルドへ向かった。
***
「――速達だ。北の山間部の集落で、土砂崩れの前兆がある。避難勧告を、今日中に届けてほしい」
ガルドナーが差し出した依頼書には、緊急を示す赤い印が押されていた。
「馬でも二日はかかる距離だ。だが、お前なら」
言葉を濁したガルドナーの目に、含みがあった。
もう隠す必要はない。ジェクスは小さく頷いた。
「――分かりました。飛んで行きます」
その一言に、ガルドナーはわずかに目を見開いてから、ふっと口の端を上げた。
「初めて聞くな、その言い方」
「初めて言いましたから」
***
ギルドの裏手、人目のない訓練場でジェクスは軽く息を吐いた。
この世界でギフトを手にしてから、誰にも見せたことのない力を、今日はガルドナーの前で使う。
(――いや、正確には違う。誰にも見せなかったんじゃない。誰にも見せる機会が、今までなかっただけだ)
ジェクスはただ、飛ぶことを意識した。
それだけでよかった。ガルドナーから教わったばかりの一点集中の型は、まだこの動作には関係がない。飛行はギフトそのものの力であり、あの十秒間で、すでに完成されていた能力だった。
ふわり、と地面から足が離れた。
「……おお」
ガルドナーが短く声を漏らした。歴戦の男でさえ、素直に驚きを見せる光景だった。
「――ほう。本当に、魔力なしで飛ぶとはな」ガルドナーは、腕を組みながら、感心したように呟いた。「ギフト持ちも、たまに見かけるが……大体は、大して使えねえギフトばかりでな。ここまで実用的なのは、正直、初めて見る」
高度が、みるみる上がっていく。地面がぐんぐん遠ざかり、ギルドの建物が、あっという間に、玩具のように小さくなっていった。
***
ジェクスは、目を閉じた。
(――こんな日が来るとは、あの時は思ってなかったな)
脳裏に、天界での記憶がよぎる。四十秒しかない魂の時間。三十秒を説明に使われ、残された十秒で「望む力を想像しろ」と告げられたあの瞬間。
超人的な筋力。翼を使わず、自分の意志だけで空を飛ぶ力。手のひらの上で踊る、意のままの炎。
――あの十秒間で、よくもまああれだけの像を結べたものだ。今のジェクスは、当時の自分に、そう思うことがある。
だが、答えはとうに出ていた。
あれは、十秒で「作った」ものではない。
三十三年間、来る日も来る日も、寝る前に、通勤中に、誰にも見せない頭の中だけで、同じ理想の自分を何百回、何千回と描き続けてきた。筋肉の付き方、跳躍の角度、炎の揺らめき方まで、細部の細部に至るまで、飽きるほど繰り返し思い描いてきた「完成予想図」があった。
――あの十秒は、創造の時間じゃない。再生の時間だったんだ。
すでに出来上がっている設計図を、ただ像として結ばせるだけ。だから迷わなかった。迷う余地など、そもそも三十三年前に使い切っていた。
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ジェクスは、ゆっくりと、目を開けた。
その瞬間、視界いっぱいに、街の全景が広がっていた。
石畳の街並みが、遠く下に広がっている。屋根の色は、赤茶けたものから、鈍く光る金属製のものまで、様々だった。街を貫くように、水路が銀色の線を描いている。
東区の一角から、太く黒い煙が一本立ち上っていた。鍛冶場だ。あの日、城壁の外から見上げた煙を、今は上から見下ろしている。
遠く、地平線の彼方には、これまで見たこともない山々の稜線が、朝日を受けて薄紫色に染まっていた。
風が、頬を強く打つ。冷たく、それでいて、どこまでも澄んでいる空気。耳元では、風が唸るような音を立てて流れていく。
(――これが、空か)
分析よりも先に、少年のような高揚が、体の芯から突き上げてきた。
想像の中では数えきれないほど飛んだ空だ。だが、実際に肌で感じる風の冷たさも、眼下に広がる景色の遠近感も、鼻先を掠める雲の湿り気も――想定録のどの項目にも記録されていない、まったく新しい手触りだった。
***
試しに、速度を上げてみる。
その瞬間、体の表面をなぞるように、ごく薄い炎の膜が張られた。
――そうか。速さに応じて、出るのか。
風に乗って飛んでくる小さな虫が、膜に触れた途端、音もなく消える。空気の摩擦も、飛来する塵も、すべてこの膜が受け止めていた。
景色が、瞬く間に、後方へと流れ去っていく。まるで、体そのものが、風になったかのような感覚だった。
「――っ、はは」
思わず、声が漏れた。誰に見せるでもない、心の底からの笑みだった。
(――夢に見た通りだ。……いや、夢見た以上、かもしれないな)
雲の切れ間を抜け、さらに高度を上げる。眼下に広がる街は、もう指先ほどの大きさにまで小さくなっていた。
***
山間部への到着は、馬なら二日の距離を、半刻もかからなかった。
集落の広場に降り立つと、住民たちがどよめいた。空から人が降ってきたのだから、当然の反応だった。
「王都からの緊急伝令です。裏山に土砂崩れの前兆――今夜中に避難を」
伝令の内容を伝え終えたところで、集落の外れから悲鳴が上がった。
***
駆けつけると、斜面が崩れかけていた。
土砂に片足を取られた老人が、身動きできずにいる。
だが、問題はそこではなかった。
崩れた土の隙間から、赤い光が漏れている。
――脈打っている。
一定の間隔で、強く、弱く。だがその間隔が、見ている間にも短くなっていた。
「――あれは」
「魔石だ!」村人の一人が叫んだ。「裏山にゃ昔から埋まってる。土が崩れて、空気に触れると――」
最後まで聞く必要はなかった。
光が、一段と強くなった。
空気が、びりびりと震える。魔力が飽和し、暴走の直前まで来ている。
――時間がない。
***
想定録が、猛烈な速度で展開された。
該当項目――「化学物質の暴走的反応を、現場で抑える場合」。
地球での想定だ。油火災。金属火災。反応性の高い物質。
共通する解法は、一つ。
――外から冷やすな。包んで、断て。
酸素を断てば燃焼は止まる。同じ理屈が通るなら。
「――下がってください」
ジェクスは手のひらを差し出した。
三十三年間、思い描くことしかできなかった炎。この世界でギフトを手にしてから初めて、誰かの目の前で使う。
手のひらに小さな炎が灯り、意識するままに形を変えていく。
球体に。そして、薄く、広く。
――包め。
炎が、魔石を覆う膜になった。
***
赤い光が、暴れた。
膜を内側から押し返そうとする圧力が、掌を通して伝わってくる。焼けるような感覚。だが、離すわけにはいかない。
「――っ、ぐ」
膜が、薄くなる。破られる。
そう思った瞬間、ジェクスは反対の手も差し出した。
両手で、包み直す。
――まだだ。
押し返す。押さえ込む。溢れようとする魔力を、外へ逃がさず、内側で使い切らせる。
どれほどの時間が経ったか。
やがて――脈動が、ゆっくりと弱まっていった。
光が、萎むように小さくなり、そして消えた。
***
「……あ、ああ」
老人が、震える声を漏らした。
ジェクスは膜を解き、そのまま片手で老人を抱え上げ、崩れる寸前の斜面から引き離した。
背後で、土砂が音を立てて滑り落ちていく。
安全な場所まで運び終えて、ようやく息を吐いた。
掌を見る。薄く火傷の痕が残っていたが、見る間に塞がっていった。
「……あんた、何者だ」
老人が呆然と呟いた。
ジェクスは短く笑って答えた。
「通りすがりの、伝令屋です」
***
村人たちの避難誘導を終える頃には、日はすっかり傾いていた。
ジェクスは老人と集落の人々に見送られ、再び空へと舞い上がった。
***
帰り道、再び空を飛びながら、ジェクスは静かに思考を巡らせていた。
夕暮れに染まる空は、行きに見た朝の景色とは、また違う美しさを見せていた。オレンジと紫が混ざり合う空を切り裂くようにして、ジェクスは、街への帰路を辿っていく。
隠す必要のあった力を、今日、初めて誰かのために使った。
ガルドナーの前で。名も知らぬ老人の前で。
それだけのことが、想定録のどの項目にも当てはまらないくらい、胸の奥を温かくした。
(――あの十秒、俺はちゃんと、正しいものを選んでいたらしい)
夕暮れの空を飛びながら、ジェクスは小さく笑った。
***
ギルドに戻り、報告のため執務室に顔を出すと、来客用の椅子に、フードを目深に被った冒険者が腰掛けていた。
手には、見たこともない形の探知具が置かれている。
「――お、噂の帰還者か」
ガルドナーが顎で示す。
「暴走しかけの魔石の話、たった今こいつから聞いたところだ。……本来なら専門家を向かわせるはずだった案件だ。それを、お前が一人で片付けちまったらしいな」
「専門家、ですか」
「ああ、名乗ってなかったな」
フードの下から覗いた口元が、ニヤリと笑った。
「魔石ハンター、って呼ばれてる。まあ、そのままの意味だ」
ずっと語られるだけだった「飛行」と「炎」、ようやく本編で使わせることができました。ギフト誕生の瞬間を振り返りつつ、次はいよいよ剣を手にした本格的な始動です。




