第6話 神宮豊、栗東へ 【2028年春・初騎乗】
神宮豊は、思っていたより小さかった。
澪はそう思って、すぐに失礼だと思い直した。でも実際そうだった。GI百二十勝以上。日本競馬史上最多勝。そんな肩書きを持つ人間が目の前に立っているのに、笑うと目元に皺が寄る、どこにでもいそうなおっちゃんだった。
「矢崎先生にご紹介いただいて。神宮です」
柔らかい声だった。威圧感がない。駿に向かって頭を下げる姿も、自然体だ。
「天海です。来ていただいてありがとうございます」
「いえいえ。面白い馬がいるって聞いたら、見に来ないわけにはいかないですよ」
神宮は笑った。それからフルークの方を向いた。
馬房の前に引き出されたフルークを、矢崎厩舎の厩務員が引き手を持って抑えている。フルークは新しい人間が来ても特に興味がない顔をしていた。どこか遠くを見ている、いつもの顔だ。
神宮が、フルークの前に立った。目を細めた。
フルークはしばらく神宮を無視していた。でも少しして、鼻をひくひくさせた。それから神宮の方を向いて、じっと見た。
品定めしてるのはどっちだ、と澪は思った。
「……気が強いですね」と神宮は言った。
「ゴルシの孫なんで」と駿が言った。
「なるほど」
神宮はフルークの首に手を当てた。フルークは嫌がらなかった。
「乗ってみていいですか」と神宮は矢崎を見た。
「もちろんです。それが目的ですから」と矢崎は言った。ハハッと笑って、厩務員に目配せした。
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調教コースに出た神宮を、駿と澪は柵の外から見ていた。
神宮がフルークに跨がった瞬間、フルークの耳が動いた。前を向いた。さっきまでのぼんやりした顔じゃない。何かのスイッチが入った顔だった。
澪はそれをなんとなく感じた。あの馬、今ちょっと違う。うまく言葉にはならないけど。
神宮がゆっくり歩かせた。フルークは素直についていく。速歩、駈歩と上げていって、坂路に向かった。
坂路の入り口に差し掛かった瞬間だった。
フルークが、弾けた。
神宮が合図を出したわけじゃない。坂路を見た瞬間、フルークが勝手にギアを上げた。走りたくて仕方なかったんだ、とその背中が言っていた。神宮は慌てず、ただそこに乗っていた。流れに逆らわず、でも振り落とされずに。
「……速い」と澪が小さく言った。
「そうですね」と駿は言った。
「あの人、すごいですね。あんな馬に乗っても全然慌てない」
「神宮さんだから」
それだけだった。
坂路の上まで駆け上がって、神宮がゆっくり馬を止めた。引き返してくる。矢崎が腕を組んで、その姿を静かに見ていた。
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神宮が馬から降りた。
フルークの首を軽く叩いて、しばらくそこに手を置いていた。
「どうでしたか」と駿が聞いた。
神宮はすぐに答えなかった。
「……ちょっと待って」
もう少しフルークを見ていた。フルークは相変わらず遠くを見ている。でも息が少し荒い。走ったのが楽しかったみたいな、そういう荒さだった。
「速いとかじゃなくて」と神宮はようやく言った。「なんていうか……」
言葉を探している。レジェンドがそういう顔をするのを、澪は初めて見た。
「ギアが違う」
「ギアが」
「うん。こっちがどうこうじゃなくて、この馬が走りたい時に走る。それに乗っかるだけでいい。こんな感覚、久しぶりだな」
「乗ります」と神宮は矢崎を見た。
「よろしくお願いします」と矢崎が言った。「いい馬ですよ、これは」
「ですね」
駿はにこにこしながらそれを聞いていた。まるで最初からそうなると思っていたみたいに。
澪はそれを横目で見て、まあそうか、と思った。この人が「大丈夫ですよ」と言う時は、大体大丈夫なのだ。二年以上かけてようやくそれがわかってきた。
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その夜、神宮は一人でホテルの部屋にいた。
テレビをつけていたが、見ていなかった。
頭の中にあるのは、さっきの坂路の感覚だった。フルークの背中。あのギアの切り替わり。坂を坂とも思わずに駆け上がっていく脚。ドンナーハルトの血だ。重さと瞬発力が、あんな形で出るとは思わなかった。
久しぶりだ、と思った。
こういう馬に乗った時の感覚。自分が馬を動かすんじゃなくて、馬の力に乗っかっていく感覚。最後にこれを感じたのはいつだっただろう。
窓の外、栗東の夜が広がっていた。
神宮は長い間、その景色を見ていた。
ずっと持ち続けていた夢がある。凱旋門賞。あの舞台で、日本の馬で、世界を相手に走ること。何度か近いところまで行った。でも届かなかった。年齢を重ねるにつれ、夢というより思い出に変わっていった。もう無理かもしれない、と思い始めていた。
フルークの背中を思い出した。
あのギア。あの加速。まだ2歳になったばかりで、これだ。
神宮は小さく笑った。自分でも気づかないくらい、小さく。
まだわからない。ゲート試験も通っていない。新馬戦も走っていない。先のことなんて何もわからない。でも久しぶりに、思った。
もしかしたら、俺の夢の……。
そこまで考えて、やめた。
口に出すのは、まだ早い。グラスに残っていた水を飲んで、テレビを消した。
明日も朝が早い。




