第5話 暴君の血、矢崎厩舎へ 【2028年春・入厩】
矢崎芳正に電話したのは、駿だった。
澪が「私がかけます」と言ったのに、「大丈夫です、俺がかけます」と言って、エナジードリンクを片手にかけた。鉄路は止めようとしたが間に合わなかった。
三分後、駿が戻ってきた。
「矢崎先生、引き受けてくれるって」
「……どういう話し方したんですか」と澪が言った。
「普通に。この馬を見ていただけませんか、って」
「それだけですか」
「あとウイポの話を少し」
鉄路は深く息を吐いた。矢崎芳正といえば、業界では知らない人間がいない。重賞を何十勝も挙げてきた、関西の名伯楽だ。そんな人間がアポなしの電話一本で動くわけが――
「来週、栗東に連れてきてくださいって言ってました」
動いた。
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栗東トレーニングセンターの朝は、独特の空気がある。
まだ薄暗い中からスタッフが動き始めて、馬の息と藁の匂いが混じった冷たい空気が厩舎の間を流れている。日高の牧場とは違う密度だ。ここで生きている人間と馬の数が、全然違う。
澪はそれを感じながら、タブレットをぎゅっと抱えた。
矢崎厩舎の前に、でかい男が立っていた。
でかい、というのが正直な第一印象だった。身長というより、存在の密度がでかい。日に焼けた顔に、豪快な笑顔。この人が笑うと、周りの空気が少し明るくなる気がした。
「天海さんですか! いやあ、お若いですねえ、ハハッ」
矢崎芳正は駿の顔を見て、そう言った。失礼だとは微塵も思っていない顔だったが、声のトーンは明るくて温かい。
「矢崎先生、よろしくお願いします」
「こちらこそ。源さんも来られましたか。お久しぶりですねえ」
「ご無沙汰しています」と鉄路は言った。
「星台を辞められたと聞いた時は驚きましたよ。それでこちらに」
「ご縁がありまして」
「そうですか、そうですか。ハハッ」
矢崎は笑って、それからヴァイスフルークの方を向いた。
輸送されてきたフルークが、厩舎の前に引き出されていた。三村が引き手を持って、相変わらず振り回されている。新しい場所に来ても、フルークのテンションは変わらない。きょろきょろするでもなく、怖がるでもなく、ただ「ここはどういうところだ」と品定めしているような目をしていた。
矢崎の笑顔が、すっと消えた。
馬を見る顔になった。
しばらく何も言わなかった。フルークの頭から脚の先まで、ゆっくりと視線を動かした。フルークは矢崎を見返した。どちらも動かない。
「……ドンナーハルトの産駒ですか」と矢崎はつぶやいた。
「はい」
「母父ゴルシ」
「そうです」
「ハハッ」
笑った。でもさっきとは笑い方が違った。
「面白い馬を連れてきてくださいましたね、天海さん。こういう馬、嫌いじゃないですよ」
鉄路は少しだけ、肩の力が抜けた。
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厩務員の反応は、正直だった。
矢崎厩舎のベテラン厩務員、橋本という男が、フルークの馬房の前で腕を組んで言った。
「先生、この馬、目がやばくないですか」
「やばいな」と矢崎は言った。
「怒ってるんですか」
「怒ってるんじゃない」と駿が横から言った。「急いでるんです」
橋本は駿を見た。馬主を見る目だったのが、少し変わった。
「……急いでる」
「走りたくて仕方ない。でもまだその時じゃないってわかってる。だからああいう顔してる」
橋本はもう一度フルークを見た。フルークは馬房の中で、やはりどこか遠くを見ていた。
「なんか」と橋本は言った。「わかる気がします、それ」
矢崎がハハッと笑った。
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帰り際、駿は矢崎に声をかけた。
「先生、一つご相談があるんですが」
「なんでしょう」
「騎手なんですけど……神宮豊さんはどうでしょうか」
矢崎は一瞬だけ止まった。
「神宮さんを」
「はい。この馬に合うのは神宮さんじゃないかと思って。もちろん先生のご判断が優先ですが」
矢崎はフルークの馬房の方を見た。それから駿を見た。それから、また笑った。今度は静かな笑い方だった。
「この馬を見て、神宮さんを希望されますか」
「勘なんですけど」
「ハハッ」矢崎は少し考えてから言った。「声をかけてみましょう。乗るかどうかはご本人が決めることですが」
「ありがとうございます」
「しかし天海さん、面白い方ですねえ」矢崎は笑いながら言った。「ウイポが趣味で、ドンナーハルトの産駒を1,000万で買って、神宮さんを希望される。なかなかそうはなりませんよ」
「そうですかね」
「そうですよ」
矢崎は笑いながら厩舎に戻っていった。
澪はその背中を見送りながら、タブレットに打ち込んだ。
「矢崎先生……豪快……でも馬を見る目が変わる……」
「何メモしてるんですか」と鉄路が言った。
「なんとなく」
栗東の朝の空気の中で、フルークがひと嘶きした。新しい厩舎に、少し慣れてきたのかもしれなかった。




