第3話 エデン・スタッドの芦毛 【2026年秋〜冬・当歳期】
八月のセリから、ひと月も経っていなかった。
輸送馬運車が止まると、エデン・スタッドのスタッフ数人が箱の前に集まった。扉が開いた瞬間、中から首が突き出てきた。芦毛の、まだ幼さの残る顔。大きな目が、初めて見る牧場の景色をぐるりと舐めるように眺めた。
そして引き手を、思い切り引っ張った。
「うわっ」と三村が声を上げた。担当厩務員として今日から世話をする男で、体格は良いのに、あっさり振り回されていた。「この子、力ありますね……」
「そうですね」と源鉄路は言った。腕を組んで、一歩引いたところから見ている。
駿は柵の外に立って、ヴァイスフルークを眺めていた。
視界の端に、数字が浮かんでいる。
【スピード:SS】【スタミナ:S】【瞬発力:SS】
ゲームでこの数値を見たら、迷わず買う。現実でも、迷わなかった。ただ今は数字より、この芦毛の当歳馬が放つ気配の方が気になっていた。怒っているわけではない。怖がっているわけでもない。ただ、持て余している。自分の中にあるものを、どこに向ければいいかわからないでいる。
その感じが、好きだった。
「天海さん」と隣で大和健太が言った。海外から戻ってまだ日が浅い、エデンの育成主任だ。「馬体の数値、計測していいですか」
「どうぞ」
大和はメジャーを取り出して、慣れた手つきで各部位を測り始めた。数字をタブレットに入力しながら、眉をひそめる。また入力して、また眉をひそめる。
「……おかしいですね」
「何がですか」
「管囲と繋ぎの比率が」大和は手を止めた。「この馬、骨格だけ見ると明らかに中長距離向きなんですが、筋肉の付き方が……いや、当歳でこれは」
独り言のように言いかけて、ハッとして口を閉じた。
「……失礼しました。データとして記録しておきます」
鉄路はその様子を見てから、ヴァイスフルークに視線を戻した。
三村がようやく引き手を落ち着かせて、馬房へ誘導しようとしている。フルークは最初の三歩を拒否して、それから気が向いたのか、すたすたと歩き始めた。自分で決めた、という感じの歩き方だった。
鉄路の胸の奥で、何かが静かに警鐘を鳴らした。
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秋が深まるにつれ、ヴァイスフルークは元気になっていった。
元気というより、有り余っていく、という方が正確かもしれない。放牧地を走り回り、三村を振り回し、隣の馬房の馬に向かって何かを主張するように嘶く。食欲は旺盛で、体の成長は早い。ただその成長の速度が、鉄路には少し怖かった。
才能がある馬ほど、気性の問題が大きい。
それはこの三十年で、嫌というほど見てきた。
「天海さん」
ある夕暮れ、駿が放牧地の柵にもたれてフルークを眺めているところに、鉄路は声をかけた。
「はい」
「この馬の気性、どう見ていますか」
駿はしばらく答えなかった。フルークが放牧地の端まで走って、ぴたりと止まって、また戻ってくるのを見ていた。
「退屈してるんだと思います」
「退屈」
「走り足りない。体の中に余ってるものがあって、どこにぶつければいいかわかってない。だからああやって、自分で走って、自分で止まって、を繰り返してる」
鉄路は少し考えてから言った。
「才能と気性は別物です、天海さん。走れる馬が、競走馬として機能するとは限らない」
「わかってます」と駿は言った。
まったく心配していない顔でニコニコとフルークを見ていた。
ーーーー
冬になった。
日高の冬は、空が低い。牧草地は枯れて、朝の気温は零下に近い。それでもヴァイスフルークは元気で、三村は毎朝「おはようございます」と言いながら馬房に入り、毎朝何かしらの洗礼を受けていた。
ある夜、事務所で書類を片付けていた澪が、放牧地の方角を窓越しに眺めて言った。
「あの馬、なんというか……怖いですね」
駿がコーヒーカップを持ったまま振り返った。
「怖い?」
「なんか、怒ってるみたいで。いつも」
「怒ってるんじゃないですよ」と駿は言った。「ただ、急いでるんだと思います」
「急いでる」
「早く走りたくて仕方ない。でもまだその時じゃない。それがわかってて、だからあんな顔してる」
澪はしばらく窓の外を見てから、タブレットに何かを打ち込んだ。
「……『急いでいる』とメモしました」
「それはメモしなくていいです」
駿は笑って、コーヒーを飲んだ。
窓の外、冬の放牧地の端に、芦毛の影がひとつ、じっと立っていた。




