第2話 2026年8月・セレクトセール会場
セレクトセールの会場は、金の匂いがした。
正確には、金を持っている人間の匂いだ。上質なスーツ。控えめな香水。静かな声で交わされる、数億単位の会話。ノースフィールドが苫小牧に構える特設会場の中に、競馬界の「本物」たちが一堂に集まっていた。
そしてその空気の中心に、星台グループがいた。
名札もいらない。スタッフの動き方が違う。関係者の視線の向き方が違う。会場のどこにいても、星台の人間の周囲だけ、重力が少し強いような感覚があった。
「すごいですね」と澪が小声で言った。タブレットを胸に抱えて、会場をぐるりと見回している。「オークション会場みたいな雰囲気ですけど、もっと……なんというか」
「品がある?」
「品があるのに、怖い感じがします」
正直な感想だと駿は思った。
セリは午前から始まっていた。星台ゆかりの馬が出るたびに、場内の空気が締まる。億を超える数字がアナウンスされるたびに、澪がタブレットに何かを打ち込む。それを横目に、駿はカタログのページをめくり続けた。
源鉄路は駿の少し後ろに立って、腕を組んで会場を見ていた。星台の関係者と目が合うたびに、ほんの少し視線が揺れる。かつての職場だ。知った顔もいるだろう。それについて駿は何も聞かなかった。
ーーーー
問題の馬の番が来たのは、午後も半ばを過ぎた頃だった。
場内のざわめきが、一段落ちた。
正確には「落ちた」というより、ざわめきの質が変わった。関心から無関心へ。熱量から空白へ。スタッフが当歳馬を引いて登場した瞬間、会場の半分がスマートフォンに目を落とした。
芦毛の牝馬だった。
まだ当歳だから体はこぢんまりしている。でも脚の骨格は悪くない、と駿の目には映った。毛色はくすんだ白に近い芦毛で、まだ子馬らしい幼さが抜けていない。大人しく引かれているようで、ときどき首を振って引き手を困らせている。
「フロストミラージュの2026ですね」と源鉄路が低い声で言った。「ドンナーハルトの産駒です」
「知ってますか、ドンナーハルト」
「知っています」 一拍置いてから、続けた。「ブランドフォード系の種牡馬です。ドイツで走っていた馬で、スタミナは本物でしたが現代の日本競馬には合わない。セリに出てきても、まず値がつかない」
アナウンスが入った。
『フロストミラージュの2026、推定価格800万から1,200万円。開始価格を500万円とさせていただきます』
会場が、動かなかった。
500万円。本来の開始価格からすでに下方修正されている。それでも手が上がらない。競り子が視線を走らせるが、誰も反応しない。星台の関係者は最初から見ていない。他の馬主たちも、手元のカタログに目を戻している。
「……100万でも要らないって顔してますね、みんな」と澪が言った。声に棘はない。ただ見たままを言った。
源鉄路が頷いた。
「ゴールドシップの牝系というのが致命的です。気性の問題で調教にならなかった馬が多い。ドンナーハルトの重さとゴルシの爆発力が合わさったら、どうなるか。誰も試したくないんです」
「なるほど」と駿は言った。
その瞬間だった。
視界が、変わった。
芦毛の牝馬を見つめた瞬間、空中に数字が浮かんだ。ゲームのUIそのままの、半透明のウィンドウ。駿の目にだけ見える、神が用意した景色。
【スピード:SS】
【スタミナ:S】
【瞬発力:SS】
【距離適性:1600m〜2500m】
【特性:大舞台・男勝り】
駿は一度、目を閉じた。もう一度開けた。数字は消えていない。
SS。
ゲームで何百時間も配合を研究してきた。SSというのがどういう数値か、骨の髄まで知っている。現実でそれが出るとしたら、どういうことか。
「天海さん」と源鉄路が言った。「やめましょう。競走馬として成立しない可能性が高い」
「源さん」
「はい」
「この馬、走ったら絶対に面白いですよ」
源鉄路が口を開きかけて、止まった。
澪はタブレットから目を上げて、駿の横顔を見た。何かを言いかけて、やめた。この人はいつもこういう顔をするのだろうか、とまだ出会って半日の澪は思った。まったく迷いのない、子どもみたいな目をしていた。
競り子がもう一度、視線を走らせた。
「500万円、いかがでしょうか。500万円から――」
「1,000万」
駿は手を上げた。
会場が、静止した。
物理的に音が止まったわけではない。でも確かに、何かが止まった。
競り子が固まった。隣の馬主が振り返った。星台の関係者が、初めてこちらを見た。
「……1,000万円、ご提示いただきました」
競り子の声が、わずかに上ずった。
他に手は上がらなかった。
上がるはずがない。500万でも誰も要らないと判断した馬に、いきなり倍の値をつけた人間がいる。追いかける理由がない。それ以前に、何が起きたか理解が追いついていない。
「1,000万円、よろしいですか」
「はい」
「……落札、天海様」
澪が小さく息を吸った。隣で源鉄路が、深く、深く、息を吐いた。
「はぁ……」
芦毛の牝馬は、引き手の手綱を引っ張りながら、それでも大人しく立っていた。大きな目が、会場をぼんやりと眺めている。自分が今どういう状況に置かれているか、当然わかっていない。
駿にはわかっていた。
ゲームで何度も見た景色が、現実になった。誰も見向きもしない血統が、誰も気づいていない才能が、ここにいる。
「名前、もう決めてあるんですよ」と駿は言った。
源鉄路が振り向いた。
「ヴァイスフルーク。ドイツ語で、白い飛翔」
源鉄路はしばらく駿を見てから、また芦毛の牝馬を見た。それからもう一度、駿を見た。
「……飛ぶとでも思っているんですか」
「思ってます」
「根拠は」
「勘です」
「…………はぁ」
澪は「ヴァイスフルーク……白い飛翔……」とタブレットに打ち込みながら、この仕事は思っていたより大変かもしれないと、静かに覚悟を決めた。
ドイツ語ってかっこいいですね。




