第1話 神の視界と1,000万のゴミ
※ カクヨムに先行配信中
※登場人物、団体はフィクションです。実在馬は名前をお借りしております。
貶める意図などは一切ございません。
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画面の中の芝は、いつだって青かった。
六畳の賃貸に似合わない高スペックのモニターが、深夜の部屋を青白く照らしている。天海駿はキーボードに片肘をついたまま、ウイニングポストの配合画面を眺めていた。
お気に入りの種牡馬はドイツの重血統だ。父系をたどればブランドフォード。現代競馬では「時代遅れ」「鈍足」「使い物にならない」と切り捨てられる血の系譜。スタミナと底力だけは化け物じみているが、今のスピード至上主義のターフでは箸にも棒にもかからない。
だから面白い。
駿はそういう血統が好きだった。誰も見向きもしない配合で、ゲームの中だけはG1を獲り続ける。それで十分だと思っていた。
現実の競馬は、もう何年もまともに見ていない。
どうせ星台の馬が勝つ。ノースフィールドの生産馬がセリで高値をつけて、お抱え騎手が乗って、同じ血が毎週ターフを独占する。血統図が画一化されてから、競馬を見る気がじわじわと失われていった。ゲームのほうがまだ夢がある。
「……よし」
呟いて、決定ボタンを押す。
ブランドフォード系の種牡馬にゴールドシップ系の牝馬を掛け合わせる。気性難×重血統。どこのコンサルが見ても首を横に振る組み合わせだ。でもこれが、駿の美学だった。スタミナと瞬発力の塊が、爆弾みたいな気性を抱えて最後方から突っ込んでくる。そういう馬でしか味わえない、追い込みの快感がある。
さて、この子に何をつけようか。
名前を考えながら、駿はコーヒーに手を伸ばした。
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その瞬間、部屋の空気が変わった。
比喩ではない。文字通り、空気の質が変わった。温度とも湿度とも違う、なにか根本的なものが。
「よーお、久しぶり」
振り返った駿の目に飛び込んできたのは、アロハシャツだった。
南国の花柄。ハイビスカスとヤシの木が散らばった、見ているだけで暑くなる一着。それを着た男が、駿の部屋のど真ん中に立っていた。年齢不詳。顔立ちはどこにでもいそうな中年男性だが、なぜか輪郭がわずかにぼやけている。笑顔だけが妙にくっきりしていた。
「……だれですか」
「神」
即答だった。
駿はコーヒーカップを持ったまま、男を見た。男も駿を見た。沈黙が三秒続いた。
「神?」
「神。いわゆる、神さま。大文字のやつ」
男はそう言って、部屋を見回した。散らかったエナジードリンクの缶と、山積みの競馬雑誌と、モニターに映ったウイニングポストの配合画面を順番に確認して、「うん」と一人で頷いた。
「やっぱりお前だわ。ウイポ廃人の競馬好き。ちょうど探してたんだよね」
「いや待ってください、不法侵入ですよ」
「神に不法侵入は成立しない」
「法律論じゃなくて」
「まあそれはそれとして」
男は構わず喋り続けた。
「最近の競馬、つまんなくない?」
駿は答えなかった。
答えられなかった、と言う方が正確かもしれない。つまらない、という感覚は確かにあった。だから現実の競馬から離れてゲームに逃げていたわけで。でも初対面の不審者にそれを認めるのも癪だった。
「血統が偏りすぎてる」と男は続けた。「同じ系統ばっかり走って、同じ馬主が獲って、毎週おんなじ景色。神さまから見ててもしんどいのに、ファンはよく耐えてると思うよ、ほんと」
「……否定はしないですけど」
「だろ? でさ」
男はモニターを指差した。ウイニングポストの配合画面。ブランドフォード系×ゴールドシップ系の組み合わせが、まだそこに残っていた。
「お前、ゲームでこういうの作るの好きじゃん。マイナー血統で夢見るやつ」
「……まあ」
「リアルでやってよ」
間があった。
「は?」
「だからリアルで。現実の競馬の血統図、書き換えてほしいんだよね。ゲームでやってることをそのまま。誰も見向きもしない血統で、星台が支配してる競馬界をぐちゃぐちゃにしてほしい」
駿はコーヒーカップをゆっくりデスクに置いた。
「正気ですか」
「神だから正気とかない」
「お金は」
「あげる」
「牧場は」
「もうある」
「スタッフは」
「揃えといた」
答えが早すぎる。駿は眉をひそめた。
「……なんでそんな用意がいいんですか」
「だって頼むって決めてたから」 男はあっけらかんと言った。「お前がウイポで何百時間もかけてマイナー血統を研究してるの、ずっと見てたし。適任でしょ。あとチートもつけてあげる」
「チート」
「馬のステータスが見える。ゲームのUIみたいな感じで。スピードとかスタミナとか、特性とか全部。お前が好きな表示形式にしといた」
駿はもう一度、男を見た。
男は笑っていた。悪気のかけらもない、本当に「ちょっとお願いがあるんだけど」くらいのトーンで、世界の血統図を書き換えろと言っていた。
「断ったら?」
「もう手続き終わってるから断れない」
「……は?」
「じゃ、よろしく!」
男は手を振った。
そのまま、いなくなった。扉を開けるでもなく、窓から出るでもなく、ただそこにいた空気が薄くなって、アロハシャツの残像だけが一瞬漂って、消えた。
部屋に残ったのは駿と、エナジードリンクの缶と、ウイニングポストの画面と、さっきまでと何も変わらない深夜の静けさだった。
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変わったのは、翌朝だった。
目が覚めたら、スーツ姿の女性が部屋にいた。
六畳の賃貸には似合わない、背筋の伸びた立ち姿。黒髪をきっちりまとめて、タブレットを両手で持って、駿の目覚めを待っていたような顔をしていた。
「おはようございます、天海さん。如月澪です。本日より専属秘書を務めます」
澪は淀みなく言った。
駿はしばらくその顔を見ていた。
「……あの、うちに来た経緯は」
「天海さんにお声がけいただき、入社いたしました」
「俺が?」
「はい」
そんな記憶は、ない。でも確かめようとすると、なぜかそういう流れだったような気がしてくる。不思議と違和感がない。これが「認識改変」というやつか、と駿は思った。
窓の外を見ると、景色が変わっていた。
東京の住宅街ではない。どこまでも続く牧草地。遠くに馬舎らしき建物。澄んだ空気の匂いが、開いたままの窓から流れ込んでくる。
北海道だ、と直感した。日高の空気だ。
「天海さん」と澪が言った。「本日はセレクトセールがございます。出発のお時間ですが」
「セレクトセール」
「はい。当歳馬のセリです。ご存知でしょうか」
知っている。知りすぎるくらい知っている。
駿はベッドから起き上がった。着替えながら、昨夜のアロハシャツの男を思い出した。リアルでやってよ、と言っていた。手続きは終わってると。
本当にやるのか、と思いながら、同時にどこかでわかっていた。
もうはじまっている。
「澪さん」
「はい」
「セレクトセールって、どんな馬が出るか事前にわかりますか」
澪はタブレットをスワイプして、冊子のデータを開いた。
「カタログでしたら手配してあります。ただ私、競馬のことはまったくわからなくて」
「大丈夫です、俺がわかるから」
駿はカタログのデータを受け取った。指でスクロールしながら、眉をひそめる。
星台の名前が、あちこちにある。落札予想額が億を超える馬がいくつも並んでいる。同じ系統。同じ傾向。画一化された血統図が、紙面からにじみ出てくるようだった。
そして、一頭だけ。
ページの端に追いやられたような一頭が、いた。
父:ドンナーハルト 母:フロストミラージュ(母父:ゴールドシップ)。
牝。芦毛。当歳。
推定価格:800〜1,200万円。
駿はそこで指を止めた。
何かが、来た。
胸の奥で、ゲームのUIが起動する感覚があった。見えない数字が見えた気がした。まだはっきりしない。でも確かに何かが、この一行から滲み出ていた。
「……源さんはいますか」
澪が顔を上げた。
「牧場長の源さんでしたら、車の前でお待ちです」
「行きましょう」
駿はカタログのデータをタブレットごと持って、部屋を出た。
外に出ると、日高の朝が広がっていた。遠くの山並みが、夏の光の中に青く浮かんでいる。
駐車場に、がっしりした体格の男が立っていた。五十代半ばだろうか。日焼けした顔に、深い皺。馬の世界で長年生きてきた人間の顔をしていた。
「天海さん」と男は言った。声が低くて落ち着いている。「源鉄路です。本日はよろしくお願いします」
「源さん、よろしくお願いします」と駿は言って、カタログのデータを差し出した。「この馬、知ってますか」
源鉄路は画面を覗き込んで、一秒で顔をしかめた。
「……ドンナーハルトの産駒に、ゴルシの娘ですか」
「そうです」
「やめた方がいい」
即答だった。澪がそっとメモを取った。
「現代の日本競馬でブランドフォード系が通用すると思いますか。スピードが話にならない。しかもゴールドシップの血が入ったら気性はどうなるか。調教すらまともにできない可能性がある。星台の専門家が誰も手を出していないのには理由があります」
「でも」と駿は言った。
にこにこしていた。
源鉄路が何かを言いかけて、止まった。駿の顔を見た。この人は何を笑っているんだろう、という顔をした。
「面白そうじゃないですか」
源鉄路はしばらく駿を見てから、深く息を吐いた。
「……はぁ」
助手席のドアを開けながら、澪は「ゴールドシップ……気性難……」とタブレットにメモしていた。
車は動き出した。セリ会場へ向けて。
助手席の窓から、日高の牧草地が流れていく。どこまでも続く緑の中を、何頭かの馬が走っていた。
駿はカタログのデータを見ながら、もう一度その一頭のページを開いた。
まだはっきりとは見えない。でも確かに、何かがある。
ゲームで何百時間も磨いてきた感覚が、静かに言っていた。
――この馬だ、と。




