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血統の創造主 〜神の眼を持つ元廃人が、産廃血統で世界を塗り替える〜  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
誰も歩かなかった道

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19/23

第18話 春を待つ 【2029年3月】



 栗東の朝はまだ冷えていた。


 三月の二週目。陽射しは伸びているのに馬房の前に立つと吐く息がうっすら白い。矢崎厩舎の事務所の壁には先週のレーシングプログラムが貼ったままになっていた。


 チューリップ賞・1着 ヴァイスフルーク


 駿はその印刷物を眺めながら缶コーヒーを飲んでいた。眺めるというか、なんか笑ってしまう。フルーク、強かったな。本気出してないのに着差一馬身。本気出したらどうなるんだろう。桜花賞でわかる。楽しみだなぁと本当に思う。


 横では澪がタブレットを開いて何かを片っ端から処理していた。


「天海さん」


「はい」


「テレビ局、また三件来てます」


「断っていいですか」


「もう私の判断で断ってます」


 駿はにこっと笑った。澪はちらりとこちらを見て、すぐに画面に戻った。


 もう私の判断で動いていいって、いつから許されてたんだっけ。去年の夏ぐらいからこの人は何も指示を出してこない。気がついたら全部「お任せします」になっていて最初は正直怖かった。でも今はなんか、ぷりぷりしながら断る作業がちょっとだけ楽しくなってきている。私はこの牧場に毒されているんだと思う。元外資系コンサルが競馬マスコミの取材を片っ端から断って喜んでいる。キャリアの棚卸しをする勇気がない。


「天海さん」


「はい」


「全国紙のスポーツ欄これだけは出た方がいいと思います」


「澪さんが決めていいですよ」


「だから出ましょうって言ってるんです」


「じゃあ出ます」


 タブレットに返信を打ち込みながら澪は小さく息を吐いた。何でこの人と話してると毎回私が折れてる構図になるんだろう。折れてるっていうか、もはや私が仕切ってるんだけどなんか負けた感じがする。この感覚、誰かに説明できる気がしない。


ーーーー


 チューリップ賞のことはほとんど語ることがない。


 阪神の芝1600m外回り。桜花賞と同じコース、同じ距離。1番人気は当然のようにヴァイスフルーク。単勝1.4倍。誰も荒らさない人気だった。


 神宮豊への矢崎の指示はレース前夜の打ち合わせで一つだけ決まっていた。


「本気は出させない」


「わかりました」と神宮は頷いた。「桜花賞のための確認ですね」


「そう。矢崎先生の読み通りに乗ります」


「ハハッ、頼みましたよ」


 神宮はパドックで首を縦に振り、ゲートに入り、出して、中団に置いた。直線で外に出して最後の200メートルで前を捕まえた。それだけだった。


 着差、1馬身と少し。上がり、33秒台の前半。


 ファンは沸いた。でも沸き方が違った。「強い」じゃなくて「これでもまだ本気じゃないらしい」という沸き方だった。テレビの中継カメラが捉えた神宮の顔はゴール後も微笑んでいなかった。手綱を引きながらただ前を見ていた。


 矢崎の事後コメントは短かった。


「桜花賞に向けて、いい確認ができました」


 それだけ。


ーーーー


「桜花賞、勝てます」


 矢崎はそう言い切った。駿と澪と神宮を前にして、笑いながらだったが目は真剣だった。


「あの馬はまだ伸びてる」


「はい」と駿は答えた。


 そりゃそうだ。フルークのパラメータは全部見えてる。でも矢崎さんがあの目で確認してくれることが、なんか嬉しい。チートじゃなくて人の目で見てくれている人がいる。それが心強い。


「神宮さん、どう見ました」


 神宮は腕を組んだまま少し考えてから口を開いた。


「フルークが自分でペースを作れるようになってきた」


「ほう」


「前は引っ張られて行ってた。今は自分で決めて行ってる。前と全然違います」


 矢崎は「ハハッ」と笑った。


「神宮さんにそう言わせる馬、何頭目ですか」


「……数えてないですけど」


「数えといてください。後で自慢になりますよ」


 神宮は答えなかった。ただ少しだけ口元が緩んだ。


 駿は缶コーヒーを置いた。【神の相馬眼】でフルークを確認する。スピードSS スタミナS 瞬発力SS いつも通り だが でも一つだけ動いているパラメータがあった。


 気性


 以前は赤に近かった針が今は穏やかな橙色になっている。怒っていない。退屈してもいない。何かを待っているような色だった。


 桜花賞を待ってるのかな。そりゃそうか。俺も待ってるよ。駿はフルークに向かって心の中だけで言った。もうちょっとだから。


ーーーー


 矢崎が馬房の見回りに立ち、澪が「コーヒー淹れ直してきます」と出ていった。たぶん気を利かせた。この人は有能だ、と駿は思う。いつもそう思う。


 事務所に駿と神宮の二人だけが残った。


 神宮はすぐには口を開かなかった。窓の外を見ていた。栗東の三月。葉を落とした樹の枝が空に黒い線を引いている。


「……桜花賞、どう見てますか」


「勝ちます。神宮さんなら」


「そりゃありがたいですけど」


 神宮は少し笑ってからまた黙った。それから言った。


「……その先は」


 駿は答えなかった。窓の外を見て、それからにこっと笑った。それだけだった。


 神宮は腕を組んだまましばらく駿の横顔を見ていた。そして小さく頷いた。


「ああ」


 それきり何も言わなかった。


 伝わってしまった。たぶんそうだ。駿はそれを確認するように神宮の横顔を見た。神宮は窓の外を見たまま何も言わない。この人は馬の声を聞くように人の口にしないことを聞き取ってしまう。セリフにしなくていい。それでいいと思った。


ーーーー


 日高はもっと寒かった。


 鉄路は車を走らせていた。エデンから甲斐田牧場まで車で四十分。道は真っ直ぐで対向車もなく道端の雪はまだ溶けていない。三月だというのに北の春は来ない。


 助手席に空の保温箱があった。甲斐田の奥さんが入院してから鉄路は週に何度かこうして煮物を運ぶようになっていた。今日は引き取りに行く方だ。容器を返して、ナハトムジークを見て帰る。


 牧場に着くと甲斐田が外に出て待っていた。背筋は相変わらず真っ直ぐで七十をいくつも越えているとは思えない。


「源五郎さん」


「おお。来たか、鉄路」


「奥さん、どうですか」


「来週には戻る。たいしたことなかった」


「そうですか」


「心配かけたな」


「いえ」


 鉄路は保温箱を渡した。甲斐田は「すまんな」とだけ言って受け取った。そういう人だ。多くを言わない。礼も最小限。でも目が言っている。ちゃんと受け取った、と。


 二人で厩舎の方へ歩いた。途中空き馬房が三つ並んでいた。去年の秋まで馬がいたところだ。今は誰もいない。鉄路はそれを横目で見て何も言わなかった。甲斐田も言わなかった。


「ナハトムジーク、いい腹してるぞ」


「もうすぐですか」


「あと二週間か三週間か。婆さんが戻ってくる前には生まれるな」


 甲斐田は奥さんのことを婆さんと呼ぶ。本人の前でもそう呼ぶ。奥さんは怒らない。四十年以上の夫婦の呼び方というのはそういうものらしい。鉄路には想像もできないが。


「お前のところに送るのは離乳してからだったな」


「はい。秋口になります」


「それまでうちで面倒見るから安心しろ」


「お願いします」


 馬房の前に着いた。ナハトムジークは静かに立っていた。腹が大きく膨らんでいる。青鹿毛の体に午後の薄い陽が当たって艶を出していた。


 鉄路はしばらくその姿を眺めていた。


 天海さんがこの馬を買うと決めた夜のことを思い出す。エデンの事務所で、鉄路が甲斐田の話をした。牧場が終わりに近いこと。ナハトムジークをどうにかしてやりたいこと。頼む相手を間違えたかもしれないと思いながら話していた。


 駿はにこにこしたまま聞いていて、最後に言った。


「買います」


 それだけだった。計算している顔じゃなかった。損得を考えている顔でもなかった。ただ、当たり前のことを言っている顔だった。


 あの顔が、鉄路にはまだよくわからない。


「お前、天海さんに、いい報告ができそうか」


「ええ」


「あの人どう思ってる。お前の見立てで」


 鉄路は少し考えた。


「天海さんは、たぶん損得で動いてないです」


「そうか」


「だからナハトムジークの仔がどうなろうと、たぶんそれでいい。そういう人です」


 甲斐田は笑った。低い、しわがれた笑いだった。


「そりゃお前が選んだ人だ。間違いないだろう」


「……はい」


 鉄路は何も付け加えなかった。


 ナハトムジークが馬房の中で一度首を振った。腹の中の何かに応えるような動きだった。


ーーーー


 エデンに戻ると事務所で大和がパソコンの画面を睨んでいた。


「源さんお疲れ様です」


「ただいま。ナハトムジーク、あと二、三週間だそうです」


「そうですか」


 大和は画面に視線を戻した。チューリップ賞のレース映像が映っている。


「……何回見てるんですか」


「八回目です」


「研究熱心ですね」


「いえ」と大和は言った。「あの上がり、本気じゃないですよね」


 鉄路は黙って上着を脱いだ。


「33秒台前半で勝って本気じゃないって普通おかしいんですよ」と大和は続けた。ちょっと早口になっている。「他の馬の上がりはみんな34秒台後半です。あのラスト1ハロンだけ抜き出して計測したら10.7か10.8。これ桜花賞で本気で行かせたらレコード更新の可能性があって、いやレコードどころか日本の芝マイルで出たことのない数字が――」


「大和さん」


「はい」


「息継いでください」


 大和はハッとして口を閉じた。マフラーを握って一呼吸。


「……失礼しました」


「桜花賞、どうなると思いますか」と鉄路は聞いた。


「データ的には勝てない理由がないですね」


「そうですか」


「源さんは」


「勝つでしょう」


「根拠は」


「天海さんがそう言ってるので」


 大和は少し間を置いた。


「……それ根拠になります?」


「私の中では」


 大和は何も言わなかった。少しだけ笑った気がした。画面の中でフルークが直線を駆けている。33秒台の上がりで、それでも本気じゃない。


 窓の外で雪解け水が流れる音がした。


 桜はまだ咲いていない。



ーーーー


あとがき


ナハトムジークはドイツ語で 夜の音楽という意味だそうです。


夜の静寂の中で演奏される、穏やかで美しい音楽を指す場合に使われるそうですが...

あれ?この仔って気性難ぎみだったのでは??青鹿だからかな

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