第19話 桜の下で 【2029年4月・桜花賞】
四月の朝は、桜の匂いがする。
栗東のトレセン、矢崎厩舎の前。駿はフルークの馬房の前に立って、なんかもうにこにこしていた。今日だ。今日がその日だ。2026年の夏にあのセリ会場で「1,000万」と言ってから、ずっとこの日のために走ってきた。新馬戦も、アルテミスSも、JFも、チューリップ賞も、全部今日のための助走だったと思うと、なんか感慨深いな、とフラットに思う。
フルークはそんな駿のことなどお構いなしに、飼葉桶をがつがつやっていた。食欲あるじゃないか。それでいい。
「天海さん」
澪が隣に来た。タブレットを抱えている。いつも通りだ。
「今日のオッズ、出ました。単勝1.6倍です」
「1番人気?」
「そうです」
駿は「へえ」と言った。JFを勝ってチューリップ賞も勝って、それで1.6倍か。もっと低くてもいいと思うけど、競馬ファンはちゃんとシュテルンリヒトを警戒してるんだな。賢い。いやルミエールが乗るんだから警戒するのは正しい。2.0倍ぐらいが適正かもしれない。
「天海さん、何考えてるんですか。なんかにやにやしてますよ」
「オッズの話してました」
「してないです。一人で考えてました」
澪はタブレットに何かを打ち込んで、また駿を見た。
「緊張してないんですか」
「してます」
「してないでしょ」
「してますよ。ちょっと」
してない。してないけど、したほうがいいのかな、と思って少し考えた。でもフルークの数値はいつも通りSSだし、神宮さんが乗るし、矢崎さんが仕上げてくれてるし、心配する要素がない。むしろ今日が楽しみで仕方ない。これ言ったら澪に何か言われる気がするので黙っておく。
スマホが震えた。
鉄路からだった。
画面を開いた瞬間、写真が飛び込んできた。
青かった。
本当に、真っ青だった。生まれたての仔馬が、甲斐田牧場の厩舎の中で立とうとしている。足がまだ定まらなくて、ふらふらしている。でも顔つきはもう、なんか、すごい。
テキストが一行添えてあった。
「生まれました。牡。青毛です」
駿はしばらく写真を眺めた。チートで見えなかった仔馬。初めての、確信なき購入。どんな馬になるのかまだ何もわからない。それがなんか、すごくいい。
澪がのぞき込んできた。
「何ですか、それ」
「内緒です」
「え、なんですか」
「今日はフルークの日なので」
澪はむっとした顔をしたが、それ以上は聞かなかった。この人は時々そういうことを言う。言い出したら引かないのを知っているから。三年近く付き合って、そういうところだけは読めるようになった。それが嬉しいのか悔しいのかわからない。
ーーーー
神宮豊がパドックに来た時、フルークはちょうど三周目を回っていた。
四月の阪神。桜の花びらが風に乗ってパドックに入ってくる。芦毛の体に、薄いピンクの花びらが一枚落ちた。それがなんか絵になりすぎていて、駿は思わず笑った。
「今日のフルーク、どう見ます?」
神宮は少し目を細めてフルークを追った。
「……落ち着いてる」
「ですね」
「いい意味で、です。弾けそうで弾けてない。ちゃんとためてる」
駿はフルークを見た。気性パラメータが、朝からずっと変わっている。橙色だったのが、もっと深い、燃えるような色になってきた。あの馬は今、全部を使う準備をしている。直線に入った瞬間に弾ける。それがわかる。理屈じゃなくて、ただわかる。
神宮さんもたぶん同じものを感じてる。だから今日は前に出した。最後方じゃなく、中団に置く。フルークが今日だけ持っているこの色を、ちゃんと使い切るために。
「神宮さん」
「はい」
「よろしくお願いします」
神宮はフルークから目を離さないまま、静かに頷いた。
「任せてください」
それだけだった。でも、それで十分だった。
ーーーー
5階の馬主エリアからは、阪神の直線が全部見えた。
桜花賞。フルゲート18頭。四月の良馬場。
澪が双眼鏡を覗いていた。駿は肉眼で見ていた。双眼鏡がなくても全部見える。そういうことじゃない気もするけど、まあいい。
ゲートが開いた。
「各馬一斉にスタートしました。先手を取ったのはレガシーブライト、ハナを切って行きます。2番手にカゼノシラベ、シュテルンリヒトは4番手の外、ルミエール騎手、折り合いをつけています。そして――ヴァイスフルーク、今日は中団に構えました。神宮豊騎手、少し前目に位置取りましたね、いつもと違う形です」
場野哲の声が、スタンドに落ち着いて響く。この人の実況、好きだな、と駿は思う。焦らない。情報を積み上げる。馬が走っている絵が、声だけでちゃんと見える。
3コーナー。ペースが少し落ちた。各馬が仕掛けのタイミングを計っている。
「3コーナー、シュテルンリヒトが外に出して進出を開始しました。ルミエール騎手、仕掛けは早い。4コーナーを回って――さあ、ここからです」
澪が双眼鏡を握り直す音がした。
「天海さん、フルークどこですか」
「中団の外。もうすぐ動きます」
「なんでわかるんですか」
「なんとなく」
なんとなく、は嘘だ。でも本当のことは言えない。
フルークの色が、さっきから変わっている。橙色だったのが、もっと深い、燃えるような色になってきた。あの馬は今、全部を使う準備をしている。直線に入った瞬間に弾ける。それがわかる。理屈じゃなくて、ただわかる。
神宮さんもたぶん同じものを感じてる。だから前に出した。最後方じゃなく、中団に置いた。フルークが今日だけ持っているこの色を、ちゃんと使い切るために。
直線に入った。
「先頭はシュテルンリヒト! ルミエール騎手、完璧な手応えで先頭に立ちました。残り400。さあ――ヴァイスフルーク、動いた! 中団から真っ直ぐ来る! 神宮豊、仕掛けた!」
来た。
駿の目に、芦毛の馬体が映った。ごちゃごちゃしていない。詰まってもいない。中団から一頭だけ、まるで最初からそこに道があったみたいに、真っ直ぐ前を向いて加速している。JFとも新馬戦とも違う。もっとシンプルだ。邪魔なものを避けるんじゃなく、邪魔なものが最初からないみたいに走っている。
「外に出た! ヴァイスフルーク、シュテルンリヒトに並びかけた! 並んだ! さあ――」
スタンドが一瞬だけ息を呑んだ。
その一瞬に、場野哲が声を絞った。
「――とらえた、とらえた、とらえました!」
ゴール板を過ぎた。
場野哲が、静かに言った。
「桜の季節に、また咲いた。ヴァイスフルーク!!」
スタンドが割れた。
澪が双眼鏡を下ろした。下ろして、そのまま何も言わなかった。駿はそれを横目で見た。泣いてないけど、ぎりぎりの顔をしている。
駿はスマホを出した。鉄路に一言だけ送った。
「勝ちました」
ーーーー
ウイナーズサークルは、桜の木の近くにあった。
神宮がフルークから降りてきた。いつも通り、静かな顔をしていた。矢崎が歩み寄って、神宮の肩を叩いた。
「ハハッ! 完璧でしたよ、神宮さん!」
「矢崎先生の仕上げが良かったです」
「二人で褒め合っても仕方ない。フルークが強かっただけです」
三人で笑った。澪がその横でタブレットを抱えたままぼーっとしていた。なんかまだふわふわしてるな、と駿は思った。かわいい。いや、言ったら怒られるので黙っておく。
フルークは、ウイナーズサークルの中で首を上げていた。暴れてない。ただ、堂々としている。ここが自分の場所だ、と思ってるみたいな顔をしていた。そうだよ、と心の中で言った。ここはお前の場所だ。
矢崎が駿の隣に来た。
「次はオークスですね、天海さん」
駿はにこっとした。
「矢崎さん、オークスは回避します」
矢崎が止まった。笑顔のまま、一瞬だけ止まった。
「……そうですか」
「はい」
少し間があった。桜の花びらが一枚、二人の間に落ちた。
「ダービー、お願いできますか」
矢崎はしばらく駿を見た。それからゆっくり、深く笑った。「ハハッ」じゃない。もっと静かな笑い方だった。
「……わかりました」
神宮は少し離れたところでフルークの頭を撫でていた。聞こえていたはずだ。でも何も言わなかった。ただ、フルークの耳の付け根を、一度だけ、ゆっくりと撫でた。
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エデンの事務所では、テレビの前に鉄路と大和が並んでいた。
レース映像が終わった後の静寂の中で、大和がストップウォッチを握ったまま動かなかった。
「……上がり、32.8」
「ええ」
「本気じゃないですよね、これ」
「たぶんそうですね」
大和はストップウォッチを置いた。それから少し間を置いて言った。
「源さん、さっきの連絡はなんでしたか?」
「ああ」鉄路はスマホを出した。「今朝、甲斐田さんのところで生まれました」
大和が顔を上げた。
「……牡ですか」
「青毛の牡です」
大和は少しの間、鉄路のスマホの写真を見た。青毛の仔馬がふらふらしながら立とうとしている写真。それを見て、何か言おうとして、やめた。
「……忙しくなりますね」
「そうですね」
窓の外で、日高の桜がゆっくり揺れていた。
東では今日、芦毛の牝馬が桜の季節に勝った。
北では今日、青毛の牡が生まれた。
鉄路は窓の外を見ながら、それだけのことを、静かに考えていた。




