第17話 雪の夜の話 【2029年1月下旬〜2月上旬】
一月の終わりに、チューリップ賞の登録を済ませた。
矢崎さんから連絡が来て、澪が丁寧に返信して、駿はその横でエナジードリンクを飲みながらフルークの調教映像を見ていた。栗東の坂路で撮った動画で、画質はそんなに良くないけど、走り方はよくわかる。フルークはあいかわらず最後の一押しがえげつない。かかりぐせも大分落ち着いてきたと矢崎さんが言っていた。
「天海さん、チューリップ賞の輸送手配、確認お願いします」
「はい」
はいと言ったけど、画面から目を離さなかった。澪がため息をついた音がした。気づいてたけど、もう少しだけ見たかった。
コーナーを曲がって直線に入ったところで、澪がタブレットを駿の顔の前に持ってきた。
「天海さん」
「はい、見ます」
書類を確認しながら、まだ少し頭の中でフルークが走っていた。この馬は本当に、直線に入ってからが別の生き物になる。ダービーの直線で、あの脚が来たら。
想像してにやにやしていたら、澪に「何ですか、その顔」と言われた。
「いや、ダービーのこと考えてました」
「まだチューリップ賞も走ってませんよ」
「順番に考えたら夢がないじゃないですか」
澪は何も言わなかった。たぶん心の中で色々言っていた。
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源さんが「今夜、ちょっと出てきます」と言ったのは、夕方だった。
珍しいな、とは思った。源さんが夜に出かけることなんて、ほとんどない。でも特に聞かなかった。聞いても「知り合いに会ってきます」くらいしか返ってこないだろうなという感じがしたから。
源さんにはそういう空気がある。話したくないことは最初からそういう顔をしている。
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日高の夜は、本州の感覚と少し違う。
暗い、というより、静かだ。街灯の数が違う。車も少ない。空が広い分、余計に静まり返って聞こえる。
鉄路が甲斐田と飲むのは、三年ぶりだったと思う。正確に覚えていないが、エデンに来る前だから、少なくともそのくらいにはなる。
小料理屋の暖簾をくぐったら、甲斐田はもう来ていた。カウンターの端に座って、燗酒を一人で飲んでいた。
「遅かったな」
「すみません」
「謝らんでいい。俺が早かっただけだ」
鉄路は隣に座った。女将さんに燗酒を頼んだ。甲斐田は相変わらず、ほとんど変わっていなかった。白い毛が増えたくらいで、背筋は真っ直ぐだし、目の据わり方も昔のままだ。この人はたぶん、八十になってもこのままだろうと思う。
「エデン・スタッドってところにいるんだろ。最近、噂を聞く」
「噂、ですか」
「馬がおかしいって。速すぎるって」
速すぎるというのは、まあ、正確な表現だと思った。おかしいというのも、正確だ。鉄路は燗酒が来たので一口飲んだ。
「変な馬主が来まして」
「変な、ね」
「ええ」
「悪い変な、じゃないんだろ」
「……まあ」
甲斐田は少し笑った。声には出さない笑い方だ。昔からこうだった。
「どんな馬主だ」
どんな、と聞かれて、鉄路はすぐに答えが出なかった。変、という以外に言葉を探していたけど、うまく見つからなかった。
「……私が、はぁ、と言うばかりの人です」
「お前が、はぁ、と言うのか」
「毎日言ってます」
甲斐田はまた声なしに笑った。今度は少し長かった。
話がはずむというよりも、お互いにゆっくりと飲んでいた。甲斐田の牧場の話、日高の最近の様子。鉄路が星台にいた頃に一緒に働いた人間が今どうしているか。どうでもいい話の積み重ねで、それが心地よかった。こういう飲み方ができる人間が、鉄路にはあまりいない。
三杯目を頼んだあたりで、甲斐田が静かに言った。
「フルークって馬だろ。噂の」
「はい」
「牝馬か」
「ええ。芦毛の」
「来年のクラシックに出るのか」
ここで、鉄路の口が少し緩んだ。
緩んだ、という感覚はその瞬間にあった。でも止まらなかった。甲斐田の前だと、昔からこうなる。この人は何も急かさないし、何も責めない。だから必要以上のことを話してしまう。
「桜花賞に出ます」
「ほう」
「それで」
一拍、置いた。
「オークスは行かない予定です」
甲斐田の手が止まった。猪口を持ったまま、止まった。
「オークスを飛ばすのか」
「……ダービーに行くつもりだそうで」
言ってから、しまったと思った。
別に秘密という話ではないけど、まだ外に出ていい話じゃない。矢崎さんにも一部しか伝えていない。神宮さんにもまだだ。澪が聞いたらたぶん「源さん!」と言う。
ただ、甲斐田はそういう話を外に持ち出す人間じゃない。それはわかっている。三十年近く知っている人間だ。
甲斐田はしばらく黙っていた。
燗酒を一口飲んで、カウンターの木目のどこかを見ていた。何を考えているのか、鉄路にはわからなかった。でも何かを考えているのは、その目の動かなさでわかった。
「……ウオッカと、同じ道か」
ぽつりと言った。
鉄路は何も言わなかった。そうです、と言うべきかもしれないけど、言葉が出なかった。甲斐田がその名前を出したことの重さを、少し測っていた。
この人は、ウオッカの現役時代を日高で見ていた世代だ。あの牝馬がダービーに勝った年、競馬場じゃなくて牧場のテレビで見たと、昔聞いたことがある。
甲斐田はもう一口飲んで、それからゆっくりと鉄路の方を向いた。
「鉄路、聞いてくれ」
声のトーンが変わった。さっきまでと同じ低さだけど、何かが違う。
「うちな、年内で畳むことになった」
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鉄路は黙って聞いた。
甲斐田が静かに話した。後継者がいないこと。借金の整理がついたこと。土地の話はもうほぼ決まっていること。
一つ一つは知っていた話もあった。噂で聞いていたこともある。でも当人の口から順番に聞くと、重さが違った。
「最後に一頭、繁殖牝馬が残ってる」
「……はい」
「ディープの仔だ。あまり走らなかった。気性が難しくてな。産駒もまだ何も出てない」
「種付けは」
「タニノフランケルだ」
鉄路は少し間を置いた。
タニノフランケル。ウオッカの仔。日本に残った唯一の牡馬。種付け料は三十万で、産駒はそこそこ走ってはいるが、まだ何も大物は出ていない。業界では「情けで繋いでいる血統」という見方がほとんどだ。
「ウオッカの血だ」と甲斐田は言った。「あの走りを、俺は忘れたくなかった」
それだけだった。説明も言い訳もない。ただそれだけだった。
「産駒にどれも成績が出なくてな。周りからは、まあ言われるよ。情けで種付けしてるだけだろって」
「……そうですか」
「そうだろうな、とも思う。ただ」
甲斐田は猪口を置いた。
「今お前の話を聞いて、思ったんだ」
鉄路は甲斐田の顔を見た。
「牝馬でダービーに行こうとしている馬主がいる。ウオッカと同じ道を行こうとしている。そこにこの仔を、託せないかと」
静かだった。
小料理屋の中のどこかで、大根を煮る音がしていた。カウンターの端で、見知らぬ男が一人で飲んでいた。窓の外に、雪が降り始めていた。
鉄路は返事をするのに、少し時間がかかった。
自分が判断していい話ではない。でも甲斐田の目を見ていたら、持ち帰ります、とだけ言った。
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翌朝、エデンの事務所に戻った。
澪がコーヒーを飲みながら書類を見ていて、駿はソファでエナジードリンクを飲んでいた。いつも通りだ。何も変わっていない。
鉄路は入り口のところで少し止まった。
自分から何かを頼みに行く、というのが、どうもうまくない。頼む立場にないとか、そういう話じゃなくて、単純に慣れていない。星台にいた頃も、エデンに来てからも、基本的に鉄路は「言われたことをやる」か「止めに入る」かのどちらかだった。自分から頼む、というのは、ほとんどやったことがない。
駿が顔を上げた。
「源さん、おはようございます」
「……天海さん、少しいいですか」
駿の目が、少し変わった。
いつもはにこにこしているのが、今は少し違う顔をしている。鉄路が「少しいいですか」と言ったことに、何かを感じ取ったんだろう。この人はそういうところだけ、妙に鋭い。
「はい」
澪も手を止めた。
鉄路は昨夜の話を、短くまとめて話した。甲斐田牧場のこと。倒産が決まっていること。残った繁殖牝馬のこと。タニノフランケルの種付けのこと。そして甲斐田が言った言葉を、ほぼそのまま伝えた。
ウオッカの血を、忘れたくなかった、と。
駿は最後まで黙って聞いていた。エナジードリンクを途中で置いて、膝の上で手を組んで、鉄路の話を聞いていた。
「私の昔の知り合いです」と鉄路は言った。「無理は言いません。判断は天海さんにお任せします」
駿はしばらく何も言わなかった。
窓の外で、雪がまだ降っていた。昨夜から続いている。
「行きましょう」
それだけだった。考え込む様子もなく、迷う顔もなく、ただそれだけ言った。
鉄路は何も言えなかった。
澪が後ろから「天海さん、行き先は?」と聞いた。
「日高です。ちょっと、馬を見に」
「……了解です」澪はタブレットを持ち直した。「防寒、しっかりしてください」
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甲斐田牧場は、思ったより小さかった。
駿にとって牧場の規模感はエデンが基準になっているから、比べること自体が間違いなのかもしれない。でも、それを差し引いても、静かだった。建物が古い。厩舎の木が、雪の重さで少し傾いている。人の気配が少ない。
甲斐田源五郎は、厩舎の前で待っていた。
背が高い老人だった。白髪で、防寒着の上からでも背筋が真っ直ぐなのがわかる。駿を見て、一礼した。
「天海さん、でよろしいですか」
「はい、天海です。初めまして」
駿がにこっとした。甲斐田は駿の顔を一瞬だけ見てから、鉄路の方を見た。鉄路は何も言わなかった。甲斐田は何かを確かめるみたいな目をしていたけど、それ以上何も聞かなかった。
厩舎に入った。
暖かかった。外の雪と切り離されたみたいに、中は静かで暖かかった。馬房が並んでいて、その一番奥に、青鹿毛の繁殖牝馬がいた。
大きい馬だった。体格がいい。ただ目に、少し警戒の色がある。駿たちが入ってきた瞬間、耳が動いた。
駿は近づきすぎなかった。少し離れたところから、ただ見た。
神の相馬眼が、静かに開いた。
ステータスが見えた。スタミナが高い。瞬発力もある。気性のところに、難のマークが出ている。でも他の数値は、条件馬どまりとは思えない。むしろ。
お腹の仔は、見えない。
完全に見えない。どんな仔なのか、強いのか弱いのか、駿には何もわからない。父馬のタニノフランケルの競走成績は知っている。Frankelの血が何を産むかも、ある程度知っている。でもこの配合が何を産むかは、産まれてみないとわからない。
初めての感覚だった。
フルークの時は、見えた。ステータスが見えたから、買った。でも今は、半分しか見えない。残りの半分は、賭けだ。
それでも、なぜか。
「甲斐田さん」と駿は言った。
「はい」
「血統表、見せてもらえますか」
古いコピー用紙が出てきた。手書きの部分もあった。駿は受け取って、眺めた。父タニノフランケル。母父ディープインパクト。Frankelの血がある。ウオッカの血がある。日本で最も強かった馬の血と、世界で最も強いと言われた馬の血が、この一枚の紙の上に並んでいる。
お腹の中で、それが混ざっている。
何が産まれるか、わからない。でも。
「いいですね」
駿は血統表を返した。「お願いします」
甲斐田が深く頭を下げた。
鉄路は前を向いたまま、何も言わなかった。
それから駿は、立ち上がる前に一つだけ付け加えた。
「甲斐田さん、ひとつお願いがあります」
「はい」
「この母馬、産むまで、こちらで見ていただけませんか。預託料はお支払いします」
甲斐田が顔を上げた。
今度は頭を下げる前に、少しだけ駿の顔を見た。何かを言おうとして、言葉が出ていない顔だった。
「私たちより、あなたの方がよくわかるでしょう」
駿はそれだけ言った。
甲斐田は、ゆっくりと頭を下げた。今度は深く、長く。
鉄路は、やっぱり前を向いたままだった。でも、耳が少し赤かった。雪で冷えているのか、それとも違うのかは、わからない。
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帰りの車内で、雪が強くなっていた。
フロントガラスに雪が当たる音だけがしていた。鉄路が運転して、駿が助手席にいた。澪は今日は来ていない。エデンで留守番だ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
言う必要がなかった。
鉄路は前を向いたまま、ハンドルを握っていた。道路に雪が積もり始めていて、少しだけゆっくり走っていた。
「……ありがとうございます」
前を向いたまま、鉄路が言った。
駿は窓の外を見ていた。雪の中を、時々対向車が来て、過ぎていった。
「お礼を言われることじゃないですよ」
駿は窓の外を見たまま言った。
「源さんから頼まれたら断れないです」
鉄路は何も言わなかった。
少し間があってから、駿がぽつりと言った。
「それに、面白い配合だと思います」
鉄路は返事をしなかった。でも、ハンドルを握る手が、少しだけ変わった気がした。
ラジオを誰かがつけた記憶はないのに、いつの間にか小さく競馬のニュースが流れていた。来週の重賞の予想だった。アナウンサーが淡々と人気馬の名前を読み上げていた。フルークの名前は出てこなかった。ダービーの話も、当然出てこなかった。
世間は何も知らない。
雪の中を車が走った。
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あとがき
ここまで読んでいただきありがとうございます。
タニノフランケルって30万の種付料なのにウォッカの血を後世に残したいという
有志の方々の思いからシンジゲートという仕組みで種牡馬として残ったんですよね。
もしかして30万という格安なのも血を長く残すための有志の方々の思いなのかもしれませんね。
ほんと競馬ってギャンブルの側面よりもブラッドスポーツとしての側面の美しさがやばいですよね。
ここでお願いです。最新話までよんでいただいてまだ☆をつけてないよーて方いましたらぜひ。
しゃーねぇな!レビュー付きでつけてやるよって方いましたら是非ご評価お願いします!
カクヨムの凱旋門を皆さんのお力で見せてください!




