第16話 桜とその先の景色 【2029年1月・エデン・スタッド】
1月のエデンは冷蔵庫の中みたいで、大和健太はヒーターに足を限界まで近づけながらノートパソコンの画面を眺めていた。海外帰りの自分がなんで日高で雪見てんだろ、というのは毎年1月になると思うことで、今年もちゃんと思った。去年も思った。来年も思うと思う。
画面には矢崎厩舎から共有されたタイム表が出ていた。フルークの坂路タイム、1月分。3歳になって最初の計測値。
見た瞬間に、なんかおかしいと感じた。感じたから見間違いかと思って目を離してから戻ったけど、おかしいのは変わらなかった。念のためノートを開いて手書きで計算した。デジタルの数字を手で書き直すと、たまに誤魔化せていた違和感が誤魔化せなくなる。今もそうなった。2歳時のピーク値と並べて、季節変動の誤差を引いて、引いてもまだ速い。
「大和さん、どうしました」と鉄路が言った。
「2歳時より、速いです」
言ったあとに声が思ったより低かったことに気づいた。テンションが上がってる時の自分は早口になる。逆に「あ、これはダメだ」って思う数字に直面した時は、こうやって声が低くなる。馬の世界に来てから知った自分の癖で、海外にいた時にはなかった。
「3歳の1月で2歳のピークを超えるって、そもそも理論上は」
言いかけてやめた。説明しても意味がない。鉄路さんはこういう数字をデータじゃなくて感覚で読む人で、今の俺の感覚も「データ的にあり得ない」と言っている。データと感覚が同じ結論を出す時に、データの方が間違っている可能性はもうない。
「はぁ」と鉄路が言った。
最近この「はぁ」のバリエーションがわかってきた気がする。今のは「あー、まあ、そういう馬だよな」の「はぁ」だ。呆れじゃなくて、30年やってる人間の、ある種の受容。自分はまだ受容できない。ヒーターに足を寄せた。
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澪は事務所のドアを開けて、冷気が顔に当たった瞬間に「寒い」と声に出してしまった。後ろから駿が入ってくる。エナジードリンクを片手に。年明けて初出社なんだから「あけましておめでとうございます」くらい言うのかと思ったら、まず壁のカレンダーを見ている。なんでカレンダー。挨拶は。
「鉄路さん、大和さん、あけましておめでとうございます」と澪が代わりに言った。「今年もよろしくお願いします」
「ああ、よろしくお願いします」と鉄路。
「お疲れさまです」と大和。
誰の挨拶が一番新年に向いていないかを当てるクイズみたいになっていた。
駿は壁のカレンダーをまだ見ていた。2029年。フルークが3歳になる年で、クラシックの年だ。澪もやっとそういう競馬の時間感覚がわかるようになってきた。馬って4月に生まれて1月に年齢が上がるんですよと最初に聞いた時、この世の常識を一つ失ったような気持ちになったのを覚えている。
駿がペンを取った。
3月のところに丸をつけた。チューリップ賞だろう、たぶん。澪もこの程度は最近わかる。4月に丸。桜花賞。一冠目。これも当然わかる。
そして5月のところへペンが動いて——
飛ばした。
オークスのところを、見えていないみたいに飛ばして、もう少し下に小さく丸をつけた。
そこは。
澪はカレンダーをまじまじと見た。
日本ダービーって書いてある。
えっ。いや、ちょっと待って。オークスじゃないの。牝馬の、なんか大事なやつじゃないの。ダービーって牡馬の、一番格式のある、あのダービーでしょ。牝馬が出ちゃいけないわけじゃないって前にどこかで読んだ気もするけど、でも普通出ないでしょ。何十年かに一頭の話でしょ。この人は今何のカレンダーを見ているんだろう。
澪は深呼吸をした。
「天海さん」
「はい」
「カレンダー、間違ってませんか」
「間違ってないですよ」
駿はにこっとした。2年半近く見てきた「にこっ」の中で、今日のは少し種類が違った。何が違うのかは言葉にできないけど、たぶんこれは「もう決めてる」の顔だ。
澪は鉄路を見た。鉄路もこっちを見ていた。鉄路の目が「君、これ、わかってるよね」と言っていた。澪の目が「わかってます、でも信じたくないです」と返した。大和はノートパソコンの画面を向いたままで気づいていなかった。
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鉄路はコーヒーをひと口飲んで、カウンター越しにカレンダーを見た。
駿がペンを置いて、エナジードリンクの蓋を開けようとしている。寒い日にあれを飲むという神経がわからないが、この人のわからないことを数え始めると終わらないので、もう気にしないことにしている。
飛ばしたのだ。
5月のオークスを、駿は見ていないように飛ばした。あれは「忘れた」じゃない。30年馬の世界にいると、決断している馬主のペンの動きと、迷っている馬主のペンの動きの違いが感覚でわかる。今日の駿の動きには迷いが一切なかった。ということは日本ダービーに丸をつけたのも、迷いのない決断だということだ。
牝馬で東京2400m。日本ダービー。
ウオッカという馬の名前が即座に浮かんだ。2007年。あの馬がダービーを勝った年、鉄路はまだノースフィールドにいた。事務所のテレビでレースを見て、先輩の一人がゴール後に「ありえない」と言ってコーヒーをこぼした。あの「ありえない」の意味を、今なら余計によくわかる。
無理だ、と言いたかった。でも口に出せなかった。この人の「やる」は現実になる、というのを2年半見てきた体がそれを止めた。
「天海さん」と鉄路は言った。
「はい」
「桜花賞は、出すんですね」
「もちろんです。せっかく牝馬で生まれてきたんで、桜の花は見せてあげたい」
桜の花を見せてあげたい、という言い方が気になった。フルークのために出す、という温度で言っている。この人はいつもそうで、馬主というより馬と並走している人間みたいな言い方をする。
「で、その後は」
駿が一瞬だけ、にこっとした。
「ダービー、行きます」
鉄路はコーヒーをもう一口飲んだ。「はぁ」は出なかった。それくらい想定外だった。予感はあった。でも実際に言葉にされると、予感と言葉の間には思ったより大きな溝がある。
大和がパソコンから顔を上げた。「え、今なんて」
「ダービーって、あのダービーですか」と澪が言った。
「あのダービーです」
「牝馬で」
「牝馬で」
大和の手からマウスが落ちた。本人は気づいていなかった。机の端でマウスが揺れていた。
鉄路はそれを見ていた。データの人間がデータの限界を超えた瞬間の顔、というものがあるとしたら、今の大和の顔がそれだった。
「天海さん、ちょっとだけ確認してもいいですか」と澪が深呼吸をしてから言った。
「どうぞ」
「ダービーって、牡馬のレースですよね」
「牝馬も出られますよ」
「出られるけど、出る馬はほとんどいないですよね」
「ほとんどはいないですけど、過去にいなかったわけじゃないです」
「過去にいたって、いつですか」
駿が少し考えた。
「2007年です」
澪は何も言わなかった。私が小学生の頃の話が即答で出てきた、ということは、この人はずっとこの馬のためにそこまで考えていたんだと澪は思った。タブレットに「ダービー」とメモした。何のメモかよくわからないまま、保存した。
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矢崎芳正は栗東のデスクで電話を取って、「天海オーナーから」というイントロを聞いた瞬間になんとなく姿勢を正した。背筋が悪いとよく言われるのに、この人の電話を受ける時だけ勝手に伸びる。なんでだろ、ハハッ。
「桜花賞、エントリーお願いします」
「了解です。トライアルはチューリップ賞でいきましょうか」
「お任せします」
「フルークの状態は今いいですよ。年が明けてからまた一段上がってきてます」
その瞬間、駿が一拍置いた。
30年トレセンにいると電話の向こうの一拍の種類がわかる。今のは「お願いがあります」の一拍だ。
「矢崎さん」
「はい」
「桜花賞の後のローテーションなんですけど、オークスはたぶん使わないです」
矢崎はデスクの上の競馬カレンダーを見た。5月。オークス。そのすぐ下に、日本ダービー。
なるほど。
なるほどなるほどなるほど。
腹の奥の方から笑いが出てきた。普段の「ハハッ」じゃなくて、もっと低いところから出てくる笑いで、こういう笑いが出るのは久しぶりだった。
「……天海さん」
「はい」
「その先に何があるんですか」
「桜花賞を勝ってから、ご相談させてください」
矢崎はカレンダーをもう一度見た。同じ月に並んでいる。牝馬の頂点と、牡馬の頂点が。3週間しか離れていなくて、距離は同じ2400mで、普通の発想じゃ絶対に出てこない選択肢だった。でもこの馬主の「普通の発想じゃないこと」は、今まで全部現実になってきた。1000万のだれも見向きもしなかった牝馬。2歳女王。神宮を呼んだこと。全部。
「楽しみにしてます」
「ありがとうございます」
「桜花賞、絶対勝たせます」
電話を切ってから、矢崎はしばらくデスクで動かなかった。オークスを蹴ってダービー。牝馬で。部屋の隅にいた助手が「先生、何ニヤニヤしてるんですか」と言ってきた。
「お前にはまだ言えない」
「えー」
ハハッ、と声が出た。今度はいつもの「ハハッ」だった。
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鉄路は事務所の電気を消して、駐車場で車のキーを握ったまましばらく動かなかった。
日高の夜は静かで、冬の空気が乾いていて、星が思ったより近くに見える。こういう夜は時々、自分がなんでこの牧場にいるのかを考える。星台を出て、行き場がなくて、天海という人間に拾われて、エデンに来た。あの時は正直、これが最後の仕事になるかもしれないと思っていた。
ウオッカのことをまた考えた。
2007年、事務所のテレビでレースを見た時の、先輩のコーヒーをこぼした顔を思い出した。ありえない、と言った声を思い出した。あの「ありえない」を、22年ぶりにもう一度、しかも自分の牧場の馬で見られるかもしれない。
手のひらが、寒いはずなのに少しだけ熱かった。
「はぁ」と鉄路は声に出した。
今日一日で一番ちゃんとした「はぁ」だった。




