第14話 2歳女王 【2028年12月・阪神競馬場】
調整ルームのテレビは、音を消しても映像だけ流れる。
神宮豊はベッドに座って、古いレースを見ていた。自分が乗っている。若い頃の自分が。画面の中の馬は軽い。脚が速い。あの頃は全部できる気がしていた。
凱旋門に三度行った。三度届かなかった。
最後に挑んだのは十年前で、その後は毎年「まだやれる」と言い続けた。言い続けながら、気づいたらその言葉の意味が変わっていた。「まだやれる」が「まだあきらめていない」じゃなくて「まだ終わってない」になっていた。それはたぶん、違う。
テレビを消した。
暗くなった部屋で、フルークのことを考えた。
ゲートに入る前のあの目。静かすぎる目。あの馬は知っている——何を、とは言えないけど。競馬を長くやっていると、たまにそういう馬に出会う。自分が何をすべきかを知っている馬に。
明日のレースを、頭の中で一度走った。
眠れそうだった。
ーーーー
パドックは十二月でも人が多い。G1だから当然だけど、それだけじゃないと澪は思った。ヴァイスフルークの名前が広まっている。スタンドのあちこちから「あの芦毛」という声が聞こえる。新馬戦の時の「あの安馬か」とは全然違う温度だ。あの時から半年ちょっとしか経っていないのに。
フルークが入ってきた。
首を振っている。いつもの。でも今日の目が違う。なんか静かすぎる。新馬戦の前も静かだったけど、今日はもっと——なんというか、決まってる感じがする。うまく言えないけど。
シュテルンリヒトが入ってきた瞬間、やっぱりスタンドの空気が変わった。きれいな馬だ。何度見てもそう思う。アルテミスSで負けた後も頭に残り続けた馬だ。この馬に勝つことの意味がわかるから、余計に緊張する。
今日はもう一頭、星台の馬がいる。1番カレンシュテルン。鉄路が昨日「包囲網を作ってくる可能性がある」と言っていた。包囲網。その言葉が今日ずっと頭にある。
ルミエールが出てきた。場がわずかに静まる。この人が出てくるといつもそうなる。神宮豊と目が合った。一瞬だけ。今日の方が、なんかその一瞬が長い気がした。気のせいかもしれないけど。
神宮がフルークに跨がって、駿を見た。何も言わなかった。頷いた。駿も頷いた。
「さあ、馬主席へ」と矢崎が言った。声がいつもより低かった。
ーーーー
観客席の一角に白河統馬がいた。
澪が気づいて駿の袖を引いた。コートを着て、笑顔で、パドックを見ている。パーティで会った時と同じ笑顔だ。あの時も怖かった。今日はもっと怖い。なんでかはわからない。でもあの人がここにいる意味がわかる気がして、わかりたくない気もして、澪はとりあえずタブレットを開いた。
駿は白河を見てから、コースの方を向いた。特に何も言わなかった。
ーーーー
18頭がゲートに収まっていく。
5番が入った。今日もすんなりと。神宮はゲートの中でフルークの首筋に一度だけ触れた。フルークは動かなかった。
発走。
ハイペースだと最初の200メートルでわかった。カレンシュテルンが飛び出した。星台のサブだ。ペースを作りに行っている。前が速すぎる。これは差し馬に向く展開のはずだ——でも澪は18頭という数字が頭から離れなかった。直線で壁ができたら。外に出せなかったら。
場野哲の実況が積み上がっていく。
「スタート、各馬一斉に。1番カレンシュテルン逃げる、ハイペース、かなり速い流れ——3番シュテルンリヒト、中団外め、ルミエール騎手、折り合いをつけながら——5番ヴァイスフルーク、後方、最後方、神宮豊、動かない——」
駿はペットボトルを持ったまま、コースだけを見ていた。表情が変わらない。この人がこの顔をしている時は、たぶん全部見えている。澪はそれだけを信じることにした。
向こう正面。3コーナー。
シュテルンリヒトが動いた。早めの仕掛け。ルミエールらしい計算通りの動きで、4コーナーで先頭に並びかけた。直線を向いた時には先頭だった。
「シュテルンリヒト先頭、ルミエール、先頭、残り400——さあ、どこから来るか、ヴァイスフルーク——」
来ない。
外が塞がっている。カレンシュテルンが外に張っている。包囲網だ。神宮が外に出ようとして——出られない。残り300m。まだ来ない。やべぇ、と澪は思った。終わった、と思った。
その瞬間だった。
神宮が——内に切った。
「内から——内から来た!!」
誰も予想していなかった。最後方から、18頭の内側を、一頭また一頭と交わしていく。普通の馬ならできない。この馬だからできる。上がりが違いすぎる。
「とらえた、とらえた——」
シュテルンリヒトの頭が並んだ。
「とらえました!!」
ゴール板。
場野哲が一拍だけ間を置いた。
そして静かに、しかし確かな熱を持って言った。
「——ドンナーハルトよ、見ているか。お前の血が、ここまで来たぞ。ヴァイスフルーク!!」
スタンドが、割れた。
ーーーー
ウイナーズサークルへの通路を歩きながら、澪は気づいたら泣いていた。
なんで泣いてるんだろう。1000万円のゴミと言われた馬が、G1を勝った。それだけのことだ。でも「それだけのこと」って言える気が全然しない。この馬と2年以上一緒にいた。柵を壊すたびに補修費を計上して、坂路のタイムに大和が固まるたびに横で見ていて、鉄路の「はぁ」の意味がわかるようになって、駿の「なんとなく」を信じることを覚えた。そういう2年間が全部詰まってる。だから泣いてるんだと思う。たぶん。
矢崎が「ハハッ!」と笑った。でも目が赤かった。
「天海さん! やりましたよ!」
「ですね」と駿は言った。いつもの顔だった。にこにこしていた。でもその目は、澪が今まで見た中で一番穏やかだった。
ーーーー
神宮がフルークから降りた。
手綱を厩務員に渡して、馬の首筋に手を当てた。フルークは動かなかった。静かに立っていた。さっきまであれだけのレースをしていたのに、もうこんなに落ち着いている。納得してる顔だ。走るのが自分の仕事だってわかってる馬の顔だ。
神宮は何も言わなかった。
ただ、一度だけ、馬の首を叩いた。
それだけだった。
ーーーー
ウイナーズサークルの外で、ルミエールが引き揚げようとした時、神宮とすれ違った。
ルミエールが小さな声で言った。
「……強い馬だ」
フランス語訛りのまま。それだけ言って前を向いた。
神宮は何も言わなかった。でも少しだけ、口元が動いた。
ーーーー
エデンのスタッフルームで、鉄路がテレビの前に座っていた。
大和はレースが終わってからずっとノートパソコンを見ている。タイムを確認して、ラップを確認して、また確認している。この人はこういう時いつもそうだ。感情をデータに変換しようとする。
「上がり」と鉄路が言った。
「……31.8」
沈黙があった。鉄路はコーヒーを一口飲んだ。
「新馬戦より速い」
「はい」と大和は言った。「本番の方が速い馬です、この馬は」
窓の外に日高の冬が来ていた。
「これで」と大和が言った。「終わりじゃないですね」
「始まりです」と鉄路は言った。
二人とも、それ以上何も言わなかった。でもその沈黙は暗くなかった。
ーーーー
観客席の隅で、白河統馬はレースを最後まで見ていた。
ゴールの瞬間、穏やかな笑顔が一度だけ消えた。ほんの一瞬。それから戻った。
隣の部下が白河の言葉を待っていた。
白河は静かに言った。
「……面白いですね」
それだけ言って、立ち上がった。




