第13話 白河との接触 【2028年秋・阪神JF直前】
馬主の集まりというのは、競馬場とは別の空気がある。
レースの熱がない。馬がいない。でも競馬の話しかしない人たちが、仕立ての良いスーツを着て、シャンパングラスを持って立っている。澪は元コンサルなのでこういう場は得意なはずだった。でも競馬業界のこういう場はまだ慣れない。お金持ちの種類が、なんか違う気がする。うまく言えないけど。
「天海さん、お名刺だけ先に」と澪は言った。
「はい」
駿はポケットから名刺を出した。ヴァイスフルークのシルエットが入ったやつだ。いつの間にそんなの作ってたんですか、と澪は思ったが今更だった。
会場に入って十五分もしないうちに、何人かに声をかけられた。アルテミスSの話だ。おめでとうございます、面白い馬ですね、次はJFですか。駿はにこにこしながら全員に同じ温度で返していた。この人はこういう場が苦にならない。どころか楽しんでいる。それだけは二年でよくわかった。
澪がシャンパンを一口飲んだ時、気配が変わった。
変わった、という表現が正確かどうかわからない。でも澪はコンサル時代に似たような感覚を何度か経験したことがあった。部屋の中で一番偉い人間が動いた瞬間に、周囲の空気が微妙に変化する。あれと同じだ。
白髪交じりの男が、こちらへ歩いてきていた。
仕立ての良いスーツ。笑顔が絶えない。穏やかな目をしている。でもその穏やかさが、なんか怖い。怖いというより——この人は全部見えている、という感じ。
澪の隣に来た時、駿がその男を見た。一瞬だけ、表情が変わった。
「天海さん、ですよね」男は言った。「白河と申します。星台グループの者です」
澪の頭の中で何かがカチッとなった。
白河統馬。星台グループ総帥。この業界で逆らったら干される、あの。
「ああ、白河さん」駿は言った。「お会いできて光栄です」
「いえいえ。こちらこそ」白河は微笑んだ。「素晴らしいですね、天海さん。アルテミスS、拝見しておりました」
「ありがとうございます」
「ドンナーハルトの産駒であそこまで走るとは」白河は続けた。穏やかに、丁寧に。「ブランドフォード系ですね。懐かしい血統だ。最近の日本ではほとんど見かけない。それをあえて選ぶとは、なかなか面白い目をお持ちだ」
「血統より馬を見るので」と駿は言った。
白河の笑顔が、わずかに深くなった。
「なるほど。それは……面白い考え方ですね」
褒めている。でも澪には「面白い考え方ですね」が褒め言葉に聞こえなかった。何か別のものが混じっている。元コンサルの嗅覚が「これは危ない」と言っている。根拠はないがでもなんとなくわかる。
「シュテルンリヒトは良い馬です」と白河は続けた。「ルミエールも絶賛しておりましたよ。ヴァイスフルークは珍しい脚を持つ馬だ、と」
「光栄です」
「次はJFでしょうか」
「そのつもりでいます」
「そうですか」白河はシャンパングラスを一口傾けた。「楽しみにしています。本当に」
その「本当に」が、どういう意味なのかが澪にはわからなかった。楽しみにしているのは本当だと思う。ただその楽しみ方が、自分たちが想像するものと同じかどうかは確信が持てなかった。
白河が「では、また」と言って離れていった。自然に、他の馬主たちの輪の中へ入っていく。まるで最初からそちらにいたかのように。
澪はシャンパングラスを持ったまま、少しだけ固まっていた。
ーーーー
会場を出て、タクシーを待つ間。
「天海さん」
「はい」
「あの人、怖くなかったですか」
駿はしばらく考えてから言った。
「怖かったですね」
澪は思わず駿を見た。この人が「怖かった」と言うのは初めて聞いた気がする。
「わかってたんですか」
「なんとなく」駿は夜の空を見上げた。「ああいう人が来るのは、こっちが正しいことをやってる証拠だと思ってるので」
澪はそれをタブレットに打ち込もうとして、やめた。打ち込んでもしょうがない気がした。
「……JF、絶対勝ちましょうね」
「そのつもりですよ」と駿は言った。にこっとしたいつもの顔だった。
ーーーー
矢崎厩舎に顔を出したのは、パーティの翌週だった。
矢崎がフルークの馬房の前に立っていた。腕を組んで、静かに馬を見ている。駿たちが来ても振り返らなかった。
しばらくして、矢崎が言った。
「JFに出しましょう」
「お願いします」と駿は言った。
「シュテルンリヒトも出ます。ルミエール継続で」
「知ってます」
矢崎がハハッと笑った。「知ってるんですか」
「なんとなく」
「そうですか」矢崎はフルークを見たまま言った。「神宮さんに連絡します。あの人は——もう決まってると思いますけど」
澪がタブレットに「JF確定」と打ち込んだ。それから「シュテルンリヒトも出る」と打ち込んだ。それから消した。これはもう頭に入っている。
駿がフルークの馬房を覗いた。
フルークが駿を見た。静かな目でありいつもの目、そして納得した顔。
「フルーク」と駿は言った。声に出したのは珍しかった。「12月に走るよ」
フルークは何も言わなかった。でも首を一度だけ振った。わかってる、というような。
矢崎が「ハハッ」と笑った。「馬と話しますか、天海さん」
「話せたらいいなと思って」
「返事はありましたか」
「あったと思います」
矢崎は笑うのをやめて、もう一度フルークを見た。馬を見る顔になった。
「……仕上げます」と矢崎は言った。「必ず」
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同じ夜、エデンで鉄路と大和がいた。
大和がノートパソコンを開いたまま、テーブルの前に座っている。鉄路がコーヒーを飲みながら、窓の外を見ている。どちらも何も言わなかった。
しばらくして大和が口を開いた。
「JFの想定出走馬のデータを出しました」
「フルークは」
「ただフルゲートの18頭立てになると思います。フルークの脚質は最後方からの追い込みで、18頭の中から差し切るには——」
「わかってます」
大和は少し止まった。鉄路が「わかってます」と言うのは珍しかった。
「星台が本気で動いてくるでしょうね」と大和は言った。
「そうですね」
「シュテルンリヒトだけじゃない可能性もある」
「それも考えています」
沈黙があった。でもその沈黙は暗くなかった。覚悟が決まった人間の間にある、静かな沈黙だった。
鉄路が窓の外を見ながら言った。
「この牧場に来てよかったと思っています」
大和は何も言わなかった。でもノートパソコンを閉じた。
日高の夜が、静かに深まっていった。




