正義 信念 幸せ 41
太陽は赤みを帯び、時刻は昨日アッシュと出会った時に迫っていた。リーナはあの件の後、ずっと訓練場に籠り、弓を引いていた。しかし、的を当てるために引いているというよりは、余計な思考をしないために打っていると言った感じだ。
「姿勢がおろそかになっているよ。と言っても、その原因は私にあるんだろうね」
訓練場の入り口からアッシュが微かな笑みを覗かせ、入り口から入ってくる。リーナはアッシュに山ほど聞きたいことがあったが、始めに聞くことは決めていた。
「アッシュさん、あなたはあの女性を見てどうして助けなかったんですか?」
ニョルデゴートが女性を痛めつけていた時に、アッシュは女性を助けようとしなかった。それは、ニョルデゴートに呼ばれてから出てきたことが、何よりの証明になっていた。
「私が止めなかったら、あの人は大怪我をしていてもおかしくありませんでした。何か理由があるなら、教えてください」
リーナはアッシュがニョルデゴートのように、短絡的な人物ではないことはニョルデゴートとの会話で分かっている。だが、そのアッシュは女性を助けなかった。この二つの事実がリーナに困惑を生んだ。
「……私はあれが最善だと判断したからだ」
アッシュの表情から笑顔がなくなり、真剣な眼差しでリーナを見つめ返した。
「理由になっていません。何をどうしたら、女性を助けないなんて判断が最善になるんですか!」
リーナは期待していた言葉と全く異なる回答に、思わず口調を荒げてしまった。
「君も少し落ち着いてくれ。そんなに熱くなっていては───」
「私は落ち着いています。あの貴族と一緒にしないでください」
「ニョルデゴートと一緒にしたわけではないよ」
アッシュは一息ついて、訓練場のベンチに腰を掛けた。
ベンチに座ったアッシュはリーナを手招きする。リーナはそれに応じ、アッシュと少し距離を置いてベンチに座った。
「…君にとって、幸せとは何か聞いてもいいかい?」
アッシュからの唐突な質問にリーナは少し戸惑うが、自分にとっての幸せを考える。
「…みんなが笑って過ごしていること、です」
「みんなとは誰のことだい?」
アッシュはリーナの答えを分かっていたかのように、間を付けずに聞いてきた。
「私の家族や友達、知り合ったすべての人です」
連続の問いにリーナは自信をもって答える。この答えはリーナの理想でもあるから。
「知り合った全て…。なら、君が見えないところで苦しんでいる人は幸せじゃなくても、良いのかい?今回の女性が君の見えないところで、泣いていても君はどうでもいい、と言うのかい?」
アッシュのそれはリーナに聞いてるのではなく、自分に問いかけているかのような声だった。
「見えないところなんて、どうしようも…」
見えないところにいる人が、幸せか不幸せかなんて分からない。そんな答えのない問いにリーナは解を曇らせた。
「そう、どうしようもないんだよ。誰かの犠牲で誰かが幸せになる。すべての人を永久的に幸せにすることなんてできない。それなら、私は見える範囲の人だけでも、救おうと考えたんだ」
「…なら、どうして女性を?」
アッシュの述べた人を救いたいという内容はリーナと酷似していた。ならば、不幸せになる寸前の女性をどうして助けなかったのか、疑問は更に強くなっていく。
「…あそこで彼女を救っても、仕方なかったからさ」
その言葉を聞き、リーナは耳まで熱くなるのを感じ、気付けばアッシュの顔にめがけ平手打ちが飛んでいた。
「仕方なかった、ってなんですか!あなたは結局、自分の身がかわいいだけの人じゃないですか!」
救えるはずのものを救わず、主人の機嫌を取り、自分の身を守ろうとした。リーナにはそう思えた。
「救いたいって言うなら、ちゃんと動いてくださいよ!」
「あそこで、割って入っても意味がないんだよ!」
迫るリーナに対し、アッシュは立ち上がり声を張り上げた。しかし、すぐに冷静に戻ると
「彼女をあそこで助けても、屋敷に帰ればさらにひどい仕打ちが待っている。ならば、あの場は大人しく殴られているのが、彼女にとっても最善だったんだ」
「でも、だからって…」
リーナはアッシュの真意を聞き、頭にまで登っていた怒りが静かに消えていた。
アッシュの言うことはおそらく、いや確実に正しいだろう。それどころか、あの場でアッシュが出た場合にはアッシュまで、ひどい仕打ちに会ってもおかしくはない。
リーナが何と発そうか迷っていると、アッシュの口が静かに開いた。
「…もちろん、ニョルデゴートの勝手を許すつもりはない。だから、君に助けを求めたいんだ」
「…え?」
つい先ほどまで、言い合っていた相手の口から耳にする言葉ではない、不意の言葉にリーナの思考が止まる。
「ニョルデゴートの屋敷での決闘、それに君が勝ってくれればニョルデゴートの地位は揺らぎ、多少は奴隷への扱いもマシになるだろう」
アッシュはわざわざ、ニョルデゴートに決闘の打診をしていた。それには、こんな目的があったのだと、リーナは理解した。
「でも、それだけで…」
使用人が負けた程度で冒険者に負けた程度で、ニョルデゴートが奴隷に対する態度を改めるとは思えなかった。
「それも想定している。だが、騎士の私が君に負ければ他の貴族からの評価は地に落ちる。そうなれば、政府がギルドに介入しこの国での奴隷制度を改定できるかも知れないのだ」
「奴隷制度を改定…?」
聞きなれない言葉にリーナは首を傾げる。
「奴隷を開放、はできないだろうが不当な労働や暴力を許容しない社会が生まれるということだ」
「……なるほど」
リーナはアッシュが想像以上に大きな考えを持っていることを知り、驚嘆する。それが実現すれば、奴隷は少なくとも今よりは幸せになれるということだ。
「この計画に手を貸してくれないか?」
アッシュは手をリーナの前に出し、リーナに協力を申し出た。
「…その考えは間違っているとは思いません」
「と、いうことは?」
「協力はします。ですが、全てが終わった後にあの女性に謝ってください」
リーナは立ち上がり、アッシュの手を握らずに見つめた。その視線から逃げずにアッシュは
「約束しよう。全てがうまくいったときには真っ先に頭を下げに行こう」
リーナはアッシュの目を見て、言葉を聞いて、それに嘘がないと判断した。
「…さっきは叩いてしまって、すみませんでした」
リーナは腰を折り、先ほどの平手打ちの謝罪をした。それを見たアッシュは、表情をやわらげて
「気にしないでくれ。君にはその権利があったんだ」
そう言って、アッシュは再びリーナに手を差し出した。リーナはその手を見つめると
「…まだ、握手はできません」
そう言い残し、リーナは訓練場を出て行った。後に残されたアッシュは開いたままの右手を胸の前で閉じると
「これも、結局は犠牲を払っての…。犠牲は昼間の彼女か、冒険者の彼女か、ニョルデゴートか、あるいは…」
アッシュは独り言を言った後に、リーナに決闘の内容や計画の内容を伝えるのを忘れていたことに気付いた。
「冒険者なら、ギルドに手紙でも渡しておけば受け取ってくれるかな?」
アッシュは手紙をギルドに書くことを忘れないようにして、訓練場を出て行った。




