【番外編】冬の凍える風と共に
たった一本の蝋燭の炎を挟んで二人の少女が忙しそうに働く様子を、硝子窓がぼんやりと映し出している。
窓の縁には白いものがうっすらと積もり、ときおり吹く強い風がそれを散らしていく。
「今夜は寒いから、パン生地を窯の前に置いておかないと、朝までに発酵が間に合わないかも」
エルナが捏ねあがった生地に濡れ布巾をかけながら、窓の外に目を向けたとき。
「えっ?」
冬でも窯の熱で暖かい工房内に、突然、冷たい風が入り込んできた。
不思議に思って振り向くと、さっきまで作業台の向かい側でパン生地を捏ねていたはずのマヌエラが、目の前に立ちはだかっている。
彼女の背中は緊張に強張り、その右手には細いナイフが握られていた。
エルナは何事かと肩をすくめる。
しかしすぐに、マヌエラの肩から力が抜けた。
「なんだ、あんたか。どんな恐ろしい敵が押し入ってきたのかと思ったよ」
彼女が心底ほっとした様子でナイフを下ろすと、エルナにもその肩越しに若い男の姿が見えた。
薄暗い夜の工房内でより暗い色に見えるダークブロンドと、黒の長い外套の肩に、白いものが付いている。
彼が冬風と共に現れたはずの裏口は、音もなく元通り閉じられていた。
凄腕の護衛であるマヌエラすら、冬の冷気が入り込まなければ、すぐには侵入に気づかなかっただろう。
そこに立っていたのはそんな男だった。
「フォルカー?」
フリッツと同じ顔だが、表情と独特な雰囲気ですぐ分かる。
彼はフリッツの中に存在する、十五歳の殺し屋の人格だ。
彼に会うのは、フリッツが恐ろしい毒を飲んだあの日以来だ。
といっても、床の上に倒れていたエルナには、その気配と惨劇の物音しか聞こえなかったのだが。
「もう、終わったんだろ?」
マヌエラが意味ありげに聞いたが、彼は完全な無反応だった。
いつものような舌打ちすらなく、ただそこに立っていた。
そういえば今日は、大逆罪に問われた元摂政のカルヴィーン卿と、元皇国軍大隊長エアハルトの処刑が執り行われる予定の日だった。
しかし彼らは三日前、厳重な警備をかいくぐった何者かによって、殺害された。
暗殺者の手がかりは全く残されていなかったが、フォルカーを知るごく一部の者たちは、これが彼の仕業であることを確信していた。
「これで、良かったのです。本当は、私自身もこの結末を望んでいました」
事件の翌朝、知らせを聞いて愕然とするフリッツを、頬に新しい青あざを作った側近のゲラルトが慰めたという。
「あの……お茶でも、飲む? いただいた紅茶があるけど」
フォルカーとはまともな会話が成り立たないことを知っているから、エルナも突然訪ねてきた彼と、どう接していいのか困ってしまう。
雪が舞うほどの寒い夜だから、せめて温かい飲み物をと思いすすめてみる。
しかし、やはり無反応だった。
「フォルカー、何の用なんだよ?」
しびれを切らしたマヌエラが問うと、彼はようやく口を開いた。
「マヌエラ、お前、ちょっとあっちに行ってろ」
「は? あたしはエルナの護衛なんだけど?」
「俺がいれば、お前は必要ない」
「だけど……」
マヌエラは困った顔でエルナを見た。
彼女にとってフォルカーは、命の恩人なのだという。
殺し屋としての腕前も彼の方が数段上だ。
だから彼女はフォルカーには逆らいづらいのだ。
彼はフリッツの中にいる別の人格だから、自分に危害を加えることはありえない。
かなり扱いに困る相手だが、わざわざ訪ねてきたのにはそれなりの理由があるのだろう。
「彼だったら大丈夫よ。マヌエラ、自分の部屋に行ってて」
「分かった。じゃあ、店の上にいるから」
マヌエラはそう言うと、夜だというのに蝋燭も持たずに、店舗へと続く扉を開けて出て行った。
続いて階段を上る音が聞こえてくる。
彼女も物音を立てずに動くことができるが、あえて音を立てたのは、自分が確実に工房を離れたという証拠を示しつつも、近くに控えているのだという牽制をしているのだろう。
「えと……お茶、いる?」
さっき返事がもらえなかったからもう一度たずねると、今度ははっきりと舌打ちされた。
しかし、何も話さない。
こちらを見ることすらない。
「何かあったの?」
無反応な相手に困り果てていると、向こうの小さなテーブルの上の、布巾がかけられた皿が目に入った。
今日はフリッツが来なかったから、取り置いてあった林檎のパンがそのまま残っていた。
「そうだ、これ」
テーブルから皿を取ってくると、フォルカーの目の前にぐいと突き出す。
「前に、わたしのこと、甘い匂いがするって言っていたでしょ? これが、その正体。林檎のパンよ。昼間に焼いたものだからちょっと固くなってるけど、良かったら食べてみて」
フォルカーは皿に乗せられた、二種類の林檎のパンを横目でちらりと見ると、しぶしぶといった様子で、楕円形をした色の悪い方のパンを手に取った。
そして、一口。
「どう? 美味しい?」
彼は返事をくれなかったが、最初の一口を飲み込んだとたん、残りをがつがつと口にする。
ああ、美味しいんだ。
言葉で感想をくれなくても、腹ペコの少年ががっつく様子に嬉しくなる。
「今食べたそのパンはね、フリッツが一番好きなパンなのよ」
エルナが声を弾ませてそう言うと、もう一つのパンに伸ばそうとした彼の手がピクリと止まった。
かつん。
壁にかけてあるフライパンに何か硬いものがぶつかる音とともに、作業台の中央に置かれた蝋燭の炎がふっと消えた。
「きゃ……」
突然、視界を奪われ、エルナは反射的に悲鳴を上げかけた。
が、できなかった。
背後から自由を奪われ、口もきつく塞がれ、手にしていたパン皿がごとりと床に落ちた。
「んーっ……んんんっ……」
何が起こったのか分からず、暗闇の中で必死にもがく。
「騒ぐな」
「んんっ! んー! んー」
エルナの肩に、背後から拘束する男の顎が乗った。
「暴れるなよ。頼むから」
耳元で聞こえたフリッツと同じ声に、はっとする。
ついさっきまでフォルカーと一緒にいたのに、驚きと恐怖のあまりそのことが頭から飛んでいた。
「頼む、エルナ。怖がらないでくれ」
間違いない。
少し彼らしくない言葉だが、フォルカーだ。
エルナは反抗する意思がないことを相手に知らせるために、がちがちに強張っていた身体から力を抜いた。
「落ち着いたか」
口を塞がれていて返事ができないから、こくこくと頷く。
「もう、騒がないか?」
念を押す言葉にさらに頷くと、ようやく彼の腕が緩み、口を覆っていた手も外された。
けれど、彼の腕は身体に回されたままだったから、そこから動くことはできなかった。
肩に乗っていた顎は一瞬離れたが、大きなため息が聞こえた後、脱力したように肩に顔が伏せられた。
「もう、大丈夫。騒がないから放して」
けれども、彼の腕が解放してくれることはなかった。
「ねぇ、フォルカー」
暗闇にも目が慣れてきて、工房の隅の煮炊き用の窯から漏れる炎の灯りで、周囲が薄ぼんやりと見えるようになってきた。
恐怖感はもうなかったが、自分を抱きしるような格好のまま全く動こうとしないフォルカーに戸惑う。
なぜ、こんなことになっているのか分からない。
ふと香る、フリッツと同じ香水の香りにいたたまれなくなる。
「ねぇ、どうしたの? 放して」
けれど、相変わらず返事はない。
雪とともに窓を叩く、風の音だけが聞こえる。
ずいぶんたってから、彼がようやく口を開いた。
「俺はこれから旅に出る」
肩に顔を伏せたまま、くぐもった微かな声で伝えられた思いがけない言葉。
「旅に?」
驚いたエルナは思わず聞き返したが、それに対する反応はない。
「でも……」
そんなこと、できるはずがない。
彼はフリッツの中にいる別の人格だ。
今、背後から抱きしめている身体もフリッツのものなのだ。
彼一人、どうやって旅に出るというのだろう。
けれど、否定してはいけない気がして「どこへ?」と聞いてみる。
「……さぁ」
「戻ってくる……よね?」
「…………」
「フォルカー?」
「パン、うまかった」
その言葉とともに彼の腕がふいに外れた。
彼の気配も薄闇に解けるように同時に消えた。
「えっ! フォルカー!」
慌てて振り返ると、ひゅうと冬の風が顔に当たった。
「待って!」
しかし、彼の姿はもうそこにはなかった。
エルナの目に、音もなく閉まる裏口の扉が映った。
鉛色に垂れ込めた厚い雲の一点が、淡いクリーム色に染まっている。
そろそろ夜が明けるのか。
ぼんやりとそう思った時、身体にぶるりと震えが走った。
「あ……れ?」
気づけば、執務室の大きな窓から外の景色を眺めていた。
夜、ベッドに入ったところまでが自分の最後の記憶。
あれからどれだけ時間が経っているのか、どうやってこの部屋へ来たのかは知らない。
遠くに見える木々の枝は、ほんの少し白をまとっている。
今はどんよりと曇っているだけだが、夜中に少し雪が降ったようだ。
「どうりで寒いはずだ」
肩をすくめて腕をさすると、見覚えのない外套を身につけていた。
闇に紛れることを目的としたような、何の装飾もない漆黒の外套。
その内側に身につけていた衣服もすべて黒だった。
「え? ……まさか、フォルカー?」
彼がいた形跡に驚く。
フォルカーは復讐のためだけに存在した人格だから、本懐を遂げた後は、存在意義をなくして消えてしまうだろうというのが、侍医の見解だったのだ。
決して顔を合わせることはないが、彼とはもう十年の付き合いになる。
彼がいなければ、今のように不自由なく動ける身体も、命すらもなかっただろう。
だから、消えてほしくなかった。
「まだ、いたんだな」
彼がまだ自分の中に存在することに安堵して胸に手を置くと、その奥底が微かに疼いた気がした。
窓の外に目をやると、少し薄くなった雲の向こうに太陽の形が丸く透けて見え、辺りは幾分明るくなっていた。
「エルナはもう、忙しくパンを焼いているんだろうな」
なぜか林檎のパンの香りが自分にまとわりついている気がして、無性に彼女に会いたくなった。




