39話 結婚かあ
――人間は未来へプレゼントされるために生きている。
これは、過去の母からのメッセージだ――
「僕が生まれる前のビデオレター?」
誰もいない実家のリビングのテレビが、ひとりでに動いていた。
映像には、お腹を大きくした母が椅子に座りカメラを睨みつけ、その脇で幼稚園時代の姉がお昼寝している。
「ああ、自動再生される設定になっていることに、気づかなかったんだ」
なるほど合点がいった。
じゃあ、消しといてあげようと、僕はテレビのリモコンを持った。
『人間は生きるために生きている? または、死ぬために生きている? はんっ、笑わせる。この私は、決してそうは思わない。人間は未来へプレゼントするために生きているのだ』
つい、その手が止まった。
若い母から放たれる引きのある言葉に、思わず立ち止まったのだ。
なんとなく、これは今見てはダメだと頭の片隅では分かっていた。だが、好奇心には逆らえなかった。
「実家に置いてあるちょっとした忘れ物を取りに来ただけで、もうこの家には用はないんだけど……もうちょい、もう少しだけ見てみようかな」
これは僕が悪いんじゃない。つけっぱなしにしていた誰かが悪いんだ。
……うん、言い訳完了っと。
『それが遺伝子研究の第一人者であるこの私が導き出した結論。遺伝子は悠久の時を生きる。人という一個体が命を散らそうと、遺伝子は死なないのだ』
若い頃の母も、相変わらず偉そうで、思わず口角が上がる。
椅子に腰かけて足を組み、口を開く様子も、くわっと見開かれた力強い目も、とても魅力的だ。
『この私としても、未来へのプレゼントのために、子をなすべきと思案した。そして生まれたのが、今呑気にお昼寝している“のこ”だ。遺伝子相性を幾重にも吟味して産んだ子だ。すくすくと優秀に育つこと、間違いないだろう』
母の話は小難しくて、詳細まではよく分からない。
理解できたのは、子を産むことを「未来へのプレゼント」と言っていることくらいだ。
『そして今、この私のお腹の中にいるのが、第二子だ。この子は少し特殊な子だ。なぜならば、この私の用意した精子が、計算外の動きをしたからだ』
その話は、何度も母から聞かされた。
受精するはずの精子が何故か動きを止め、のろのろと泳ぐ僕になるはずの精子の到着を待っていたって話だな。
『その事実に、私はこう思案した。もしや、これが“人間の進化の瞬間”なのでは? と。そう思わずにはいられなかった』
母は興奮気味に語る。
……人間の進化? 正直、母ほど頭の良くない僕には、母の考えは理解できない。
『……コホン。失礼。少し興奮してしまった。仕切り直しだ。 ……理論上はこの子は女として生まれてくる予定だった。ただ、一つの精子が全てをひっくり返したのだ』
……ほう。これは初めて聞いたな。
僕って何かが違えば、女の子だったんだ。
『この私は、男を産むつもりなどさらさらなかった。面倒だからだ。この私は、女が男に気を使って生きる社会に、心底辟易しているからな』
まあ、うん。そうだね。気持ちは分かるよ。
実際に母って僕以外の男には、結構厳しいもん。
『ただまあ……そうだな』
ここで母は少しの逡巡を見せた。
『正直に言おう。この私は、とてもワクワクしている。この奇跡の子を産むことに、この私は大きく心躍っているのだ』
目をくわっと見開き、その大きな瞳がきらめいた。
「ふふっ、嬉しいな。でも、奇跡の子っていうのは、言い過ぎだよ。僕なんて、ただの失敗作なんだから」
僕は少しだけ笑う。
昔の母と対話するように、自然と言葉に出していた。
望まれずに生まれたわけではないという事実が、とにかく嬉しかった。
『男を産むつもりなどない? はんっ、笑わせる。過去の自分に、ただ覚悟がなかっただけだ。故にすることは一つ。覚悟をすればいいだけ。たったそれだけだ』
「自嘲するときでさえ、お母さんはかっこいいね」
『簡単な話だ。私は王を産む。そしてその遺伝子を、未来にプレゼントする。その覚悟を固く心に決めた。これがこの私の選択であり覚悟だ』
「王って……お母さんはちょっと大げさだよ」
『遺伝子は過去からのプレゼントだ。それを継承していくことが、人間のつとめだ。人間はまだまだ途中の存在。完璧では決してない。故に――人間は生まれた時点で成功なのだ』
「そっか。こんな僕でも、生きているだけで成功なんだ」
『何度でも言おう。人間は未来へプレゼントするために生きている。決してその命を消費するために生まれてきたのではない。人間は生まれた時点で成功なのだ!』
「うん。まだその言葉の本質は深く理解できていないけど、心に刻むよ」
『ただ生きていればいい。生産性などなくていい。醜くてもいい。頭が悪くとも、要領が悪くとも、時には暴力に走ったとしても、犯罪を犯したとて、この私が全て許そう。それが、この私の示す覚悟だ』
「いやいや。ちゃんと悪いことをしたら、叱ってほしいな。でもね、親の愛を知らなかった僕には、その気持ち自体はすっごく嬉しかったんだ」
『お前は間違っていない。そのままでいい。陳腐な言葉だが、やまない雨はないのだ。迷うな。恥じるな。お前は王だ。前の見えない道を進むのは、さぞ怖かろう。だが、迷うな。母であるこの私は、ひたすらお前を信じて生きていく』
「ほんと、心の底からお母さんは僕のこと、信じてくれたもんね。これが有言実行ってやつか。かっこいいなあ……」
『もしその道が間違っていたとて、この私も信じてついていこう。例え茨の道であろうと、二人で切り開く。失敗したっていい。諦めたっていい。悠久の時を生きる遺伝子にとって、失敗という経験は最高のプレゼントなのだ』
「ふふっ、お母さんはちょっと長い目で人間を見過ぎだよ」
『……そうだな。よし、今閃いた。お前の名前は悠久だ。“悠々自適に、永遠に”。そして、叶うことならば、悠久の時を生きてほしい。それだけが、この私の願いだ。未来の悠久がそのような人生を送ることができているのか……過去の私は楽しみにしている』
「無茶言わないで。永遠には無理だよ。でも、他はどうだろう? 僕は過去のお母さんを満足させる子に育っただろうか?」
『だが、こうも思う。この子は確かに特別だ。ただし、特別を強いるつもりはない。この気持ちは、この私の心にしまっておこうとも』
「そっか、僕が気負わないように気を使ってくれたんだ。お母さんは優しいね」
『さて、未来の息子の結婚式のために、映像を撮っておけと言われたのでやってみたが……この程度でいいだろう。では、未来の悠久。結婚おめでとう。お前は誰よりも幸せになれ。分かったな?』
「…………」
そこで、映像は終わる。ループ再生され、最初から巻き戻った。
「……ふう」
一つ、小さくため息が漏れた。
「結婚かあ……」
盛大にやるために、裏で色々用意してるんだなあ……
「あれ? なんでだろう」
なぜだかは分からない。
けれど、僕の二つの瞳に、うっすらと水の膜が張られていた。




