閑話 俊介と麗華――俊介が麗華の居る事務所へ遊びに行く❶
閑話「俊介と麗華――俊介が麗華の居る事務所へ遊びに行く❶」。
今回は、俊介が初めて藤宮麗華の所属事務所を訪れる一日を描きました。
これまで俊介は、家族同士の顔合わせやサイン会を通して、いくつかの“麗華の顔”を見てきました。
兄の彼女としての麗華。
家族ぐるみで付き合う、少し年上のお姉さんのような麗華。
そしてサイン会でファンに笑顔を向ける、人気グラビアアイドルとしての麗華。
けれど今回は、そのさらに内側。
普段、麗華が実際に仕事をしている“職場”へ足を踏み入れます。
芸能事務所という、俊介にとってはまったく未知の場所。
スタッフが忙しく動き。
会議室や控室が並び。
壁には所属タレントのポスターや雑誌の表紙が飾られている。
そしてそこには当然、藤宮麗華の大きな宣材写真もあります。
普段は兄の隣で普通に笑っている女性が、職場ではどんなふうに過ごしているのか。
どんな人たちに支えられ、どんな表情でカメラの前へ立つのか。
今回は俊介の視点から、“芸能人として働く藤宮麗華”をより近くで見ていきます。
また、事務所内で主人公との関係を知っているのは社長と担当マネージャーのみ。
だからこそ俊介も、いつも以上に秘密を意識しながら過ごすことになります。
家族としての麗華。
仕事をする藤宮麗華。
その二つが初めて俊介の中で一つにつながっていく、少し特別な一日です。
土曜日の午前十時。
俺――俊介は、都内にある一棟のビルを見上げていた。
「………ここか」
何度確認しても間違いない。
藤宮麗華が所属している芸能事務所。
人気グラビアアイドルである麗華さんが、仕事の打ち合わせや取材、撮影前の準備などで何度も訪れている場所だ。
普通なら、中学三年生の俺が一人で入れるような場所ではない。
そもそも芸能事務所なんて、一般人が「遊びに来ました」と言って自由に入れるところではない。
それなのに今日、俺がここへ来た理由は――。
数日前。
麗華さんから直接、
「俊介君、今度事務所に遊びに来る?」
と誘われたからだった。
最初は冗談だと思った。
けれど違った。
事務所の社長と担当マネージャーにも話を通してあり、正式に許可をもらっているという。
俺と麗華さんの関係については、事務所の社長とマネージャーもすでに知っている。
正確に言えば――。
麗華さんが、俺の兄ちゃんと付き合っていること。
二人がすでに同棲していること。
さらに両家の家族全員がその交際を知っていることまで把握している。
ただし。
世間には秘密。
俺の学校でも秘密。
もちろん麗華さんのファンにも秘密。
俺が以前、麗華さんの写真集発売記念サイン会へ一般のファンとして参加したときも、本当の関係は明かさなかった。
あの日。
俺を見た麗華さんは、
「俊介君!?」
と驚いていた。
今日は逆。
麗華さん自身が俺を事務所へ招いている。
「……サイン会より緊張するな」
俺はスマートフォンを取り出した。
麗華さんへメッセージ。
『着きました』
すぐに既読。
そして。
『今行く!』
返信が早い。
一分もしないうちに、事務所の入口から女性が出てきた。
帽子もマスクもしていない。
仕事中だから当然なのだろう。
藤宮麗華。
俺の兄ちゃんの彼女。
「俊介君!」
麗華さんが手を振る。
「こんにちは」
「こんにちは。早かったね」
「十分前です」
「真面目」
「遅刻するよりいいでしょ」
「それはそう」
麗華さんが笑う。
「じゃあ入ろう」
「本当に大丈夫なんですか?」
「何が?」
「俺が入って」
「大丈夫。ちゃんと許可取ってるから」
「ならいいけど」
麗華さんが少し悪戯っぽく笑う。
「緊張してる?」
「ちょっと」
「サイン会では普通だったのに」
「あれは普通の客として行ったから」
「今日は?」
「芸能事務所ですよ?」
「ふふっ」
麗華さんは笑いながら入口の扉を開けた。
「ようこそ。私の職場へ」
◇◇◇
受付。
中へ入った瞬間、空気が変わった。
綺麗なエントランス。
壁には、所属タレントたちのポスター。
雑誌の表紙。
ドラマや映画の告知。
その中には当然――。
藤宮麗華のポスターもある。
俺は立ち止まった。
「……でか」
「何が?」
麗華さんが振り返る。
俺は壁を指差す。
そこには麗華さんの大きな宣材写真。
「これ」
「ああ」
麗華さんは自分のポスターを見る。
「恥ずかしいからあんまり見ないで」
「自分の事務所なのに?」
「毎回通るたびに自分の顔あるんだよ?」
「芸能人だから仕方ないでしょ」
「俊介君までそれ言う」
「兄ちゃんも言うんですか?」
「言う」
「じゃあ兄弟で同じ」
「そこ似なくていいのに」
受付の女性がこちらに気づく。
「藤宮さん、おはようございます」
「おはようございます」
「そちらが今日のお客様ですか?」
「はい。俊介君です」
俺は軽く頭を下げる。
「こんにちは」
「こんにちは。お話は伺っています」
やっぱり事前に話が通っている。
受付の女性が来客証を渡してくれた。
「館内ではこちらをお願いします」
「ありがとうございます」
首から下げる。
それだけで妙に緊張した。
麗華さんが俺の来客証を見る。
「似合う」
「来客証に似合うとかあるんですか?」
「ある」
「ないでしょ」
「記念に写真撮る?」
「嫌です」
「即答」
「学校で見つかったら説明面倒ですから」
麗華さんの表情が少し真面目になる。
「そうだね」
俺たちには秘密がある。
ただ事務所へ遊びに来た。
それだけなら大きな問題ではないかもしれない。
けれど。
どうして藤宮麗華本人に招かれているのか。
なぜ事務所が俺のことを把握しているのか。
そこまで説明しようとすれば、必ず兄ちゃんとの関係へ近づいてしまう。
「写真撮るなら外には出さないよ」
「それなら一枚くらい」
「撮る?」
「後で」
「分かった」
麗華さんが笑った。
◇◇◇
廊下を歩く。
「ここが会議室」
「はい」
「こっちが打ち合わせでよく使う部屋」
「へえ」
「私はあっちの部屋もよく使う」
「何するんですか?」
「取材前の確認とか、マネージャーさんとの打ち合わせとか」
普通に説明してくれる。
俺は周囲を見回す。
スタッフらしい人たちが何人も行き来している。
パソコンを持って歩く人。
資料を抱えている人。
電話をしている人。
テレビで見る芸能界は華やかだけど。
裏側では、普通の会社みたいにたくさんの人が働いている。
「意外?」
麗華さんが聞く。
「何が?」
「普通でしょ?」
「ちょっと思いました」
「芸能事務所ってもっとキラキラしてると思った?」
「なんとなく」
「仕事する場所だからね」
「確かに」
そのとき。
前から男性が歩いてきた。
麗華さんの担当マネージャーだった。
俺も何度か会ったことがある。
家族同士の事情も知っている人だ。
「藤宮さん」
「お疲れさまです」
そしてマネージャーさんが俺を見る。
「こんにちは、俊介君」
「こんにちは」
「今日は来てくれたんですね」
「はい」
「麗華さん、数日前から楽しみにしてましたよ」
「ちょっと!」
麗華さんがすぐ反応する。
「言わなくていいです!」
マネージャーさんは笑う。
「事実でしょう」
「そうですけど!」
俺は麗華さんを見る。
「そんなに?」
「違うの」
「今、そうですけどって」
「あ」
マネージャーさんがさらに笑う。
「今日は午後の予定まで少し時間がありますから、ゆっくり見学していってください」
「ありがとうございます」
「ただし、撮影中の部屋など立ち入りできない場所もあります」
「分かりました」
「麗華さん」
「はい」
「ちゃんと案内してくださいね」
「もちろんです」
マネージャーさんは仕事へ戻っていった。
俺は隣の麗華さんを見る。
「楽しみにしてたんですね」
「もう忘れて」
「無理」
「俊介君、最近お姉ちゃんのことからかうようになってない?」
「麗音の影響かも」
「麗音……」
麗華さんが額を押さえる。
「妹と俊介君が同じクラスなの、こういうとき困る」
「三年間ずっとですよ」
「知ってる」
「麗音、学校でも結構喋りますよ」
「何を?」
「麗華さんの秘密」
「えっ!?」
麗華さんの顔色が変わる。
俺はすぐ笑った。
「冗談」
「俊介君!」
「学校では何も言ってないです」
「びっくりした!」
「俺と麗音で約束してますから」
「もう……」
麗華さんが胸を押さえる。
「本当にやめて」
「ごめんなさい」
「心臓止まるかと思った」
「大げさ」
「大げさじゃない」
でも最後には麗華さんも笑っていた。
◇◇◇
午前十時半。
麗華さんが普段使っている控室。
「ここ」
「へえ」
「撮影前とか、待ち時間が長いときにいる」
大きな鏡。
テーブル。
椅子。
ハンガーラック。
飲み物。
仕事用の資料。
俺は部屋を見回す。
「ここにいつもいるんですか?」
「いつもじゃないけどね」
麗華さんが椅子に座る。
「座っていいよ」
「はい」
俺も向かい側へ座った。
「どう?」
「どうって?」
「初めての芸能事務所」
「思ったより普通」
「やっぱり?」
「でもスタッフさん多いですね」
「私一人で仕事できるわけじゃないから」
麗華さんがテーブルの上にある資料を手に取る。
「撮影する人がいて、衣装を用意する人がいて、メイクしてくれる人がいて、スケジュール管理してくれる人がいて、記事を書いてくれる人がいて」
「マネージャーさんも」
「そう」
麗華さんが頷く。
「たくさんの人に支えてもらってる」
サイン会のときも思った。
仕事中の麗華さんは少し違う。
家族といるとき。
兄ちゃんといるとき。
俺や麗音と話しているとき。
そのときの麗華さんは普通の二十歳の女性。
でも仕事の話になると、表情が変わる。
「仕事好きなんですね」
俺が言う。
麗華さんが少し驚く。
「分かる?」
「何となく」
「うん」
麗華さんは笑った。
「好きだよ」
「大変じゃないですか?」
「大変なこともある」
「例えば?」
「朝早かったり、帰り遅かったり。同じポーズ何回も撮ったり。体調管理も必要だし」
「サイン会もずっと笑ってましたよね」
「あの日ね」
「何人くらいいたんですか?」
「結構いたよ」
「疲れなかった?」
「疲れた」
麗華さんは素直に答える。
「でも嬉しかった」
「ファンに会えるから?」
「うん」
そして俺を見る。
「俊介君も来てくれたし」
「まだ言うんですか」
「嬉しかったんだもん」
「家でサインもらえたのに?」
「それでも来てくれたでしょ?」
「まあ」
「あのとき初めて、俊介君が私の仕事を見に来てくれたから」
俺は少し照れくさくなる。
「今日は二回目ですね」
「そうだね」
麗華さんが嬉しそうに笑う。
◇◇◇
しばらくして。
控室の扉がノックされた。
「はい」
「藤宮さん、失礼します」
スタッフの女性が入ってくる。
「十一時から簡単な宣材撮影があります」
「あ、はい」
麗華さんが時計を見る。
「もうそんな時間?」
「メイク室の準備ができています」
「分かりました」
スタッフが俺を見る。
「こちらは?」
麗華さんが答える。
「家族ぐるみで付き合いのある子です」
サイン会のときと同じ説明。
これが一番安全なのだろう。
そして嘘でもない。
「今日は見学で?」
「はい」
俺が答える。
「そうなんですね」
スタッフは笑顔で頭を下げる。
「では藤宮さん、お願いします」
「はい」
スタッフが出ていく。
麗華さんが立ち上がる。
「俊介君」
「はい」
「撮影、見てみる?」
「見られるんですか?」
「今日のは簡単な宣材写真だから、スタッフさんに確認すれば大丈夫だと思う」
「見たい」
「即答」
「せっかく来たから」
「じゃあ聞いてみる」
麗華さんは嬉しそうだった。
◇◇◇
午前十一時十五分。
事務所内の小さな撮影スペース。
俺はスタッフの邪魔にならない場所に座っていた。
許可はすぐに下りた。
ただし当然、撮影は禁止。
スマートフォンも鞄の中。
そして。
「お願いします」
撮影場所へ出てきた麗華さんを見た瞬間。
俺は少し驚いた。
さっきまで控室で俺と普通に話していた人と、雰囲気が全然違う。
髪。
メイク。
衣装。
姿勢。
そして表情。
カメラマンが声をかける。
「藤宮さん、最初正面お願いします」
「はい」
カメラが向けられた瞬間。
表情が変わった。
カシャ。
カシャ。
カシャ。
「少し右お願いします」
麗華さんが身体の向きを変える。
「目線こちら」
カシャ。
「いいですね」
カシャ。
俺は黙って見ていた。
――すげえ。
サイン会とはまた違う。
サイン会ではファンと話していた。
今は完全に撮影。
何度も表情を変える。
笑顔。
少し落ち着いた表情。
視線。
姿勢。
スタッフの指示にすぐ応える。
「藤宮さん、次少し笑顔強めで」
「はい」
カシャ。
「いいです」
カシャ。
十分ほど。
本当に短い撮影だった。
「はい、ありがとうございます」
「ありがとうございました」
麗華さんが頭を下げる。
仕事が終わった瞬間。
俺のほうを見る。
そして。
ニコッ。
今度はさっきまでとは違う笑顔。
俺が知っている麗華さんの顔だった。
◇◇◇
控室へ戻る。
「どうだった?」
麗華さんが真っ先に聞いてきた。
「すごかった」
「本当?」
「全然違った」
「何が?」
「さっきまで普通だったのに」
「普通って何」
「控室で喋ってたとき」
「ああ」
「カメラ向けられた瞬間、別人みたい」
麗華さんが笑う。
「仕事だから」
「よくすぐ切り替えられますね」
「慣れかな」
「俺だったら笑えない」
「俊介君、学校の集合写真とか苦手?」
「苦手」
「やっぱり」
「なんで分かるんですか」
「麗音が言ってた」
「麗音!」
麗華さんが笑う。
「『俊介、写真撮ると顔固い』って」
「余計なことを……」
「でも今日記念写真撮るんでしょ?」
「あ」
受付で約束した。
「忘れてた?」
「ちょっと」
「帰る前に撮ろう」
「二人で?」
「うん」
「麗華さんと?」
「他に誰がいるの?」
「それ、俺が持ってて大丈夫ですか?」
「外に出さなければ」
「麗音に見せるのは?」
「麗音なら大丈夫」
「兄ちゃんは?」
「もちろん」
「じゃあ家族だけ」
「そうしよう」
また一つ。
誰にも見せられない写真が増えるらしい。
◇◇◇
正午。
事務所内の休憩スペース。
「お昼どうする?」
麗華さんが聞く。
「何でも」
「その答え一番困る」
「じゃあ麗華さんと同じ」
「もっと困る」
「なんで?」
「私も決めてないから」
二人で笑う。
結局、近くの店からスタッフがまとめて注文する弁当を一緒に頼むことになった。
俺は唐揚げ弁当。
麗華さんは和食系の弁当。
「いただきます」
「いただきます」
向かい合って食べる。
周囲には事務所のスタッフが何人かいる。
だから当然。
兄ちゃんの話はしない。
同棲の話もしない。
麗華さんが普通に聞く。
「学校どう?」
「普通です」
「受験勉強は?」
「……普通」
「今、間があった」
「やってますよ」
「本当に?」
「麗音と同じこと言わないでください」
「麗音も俊介君に言うの?」
「言います」
「同じクラスだから?」
「宿題とか忘れそうになると教えてくれる」
「麗音、意外と面倒見いいんだ」
「意外って」
「家では妹だから」
なるほど。
麗華さんから見れば、麗音はずっと妹。
俺から見れば三年間同じクラスにいる弟の友達。
人によって見え方は違う。
「麗音、家庭教師頑張ってるよ」
麗華さんが言う。
「ああ、兄ちゃん?」
「うん」
「最近聞きました」
「俊介君にも何か言ってる?」
「数学が分かるようになってきたって」
麗華さんが嬉しそうに笑う。
「本当に?」
「この前学校でも言ってましたよ」
「良かった」
「兄ちゃん、ちゃんと教えてるんですね」
「結構ちゃんとしてるみたい」
「意外」
「俊介君まで?」
「兄ちゃんが家庭教師って想像できない」
「私も最初そう思った」
二人で笑った。
そして。
俺はふと思った。
麗華さんの事務所で。
麗華さんと二人で弁当を食べながら。
兄ちゃんが麗音に勉強を教えている話をしている。
本当に変な家族関係だ。
◇◇◇
昼食後。
麗華さんには午後一時から打ち合わせがあった。
「三十分くらいだから待っててもらえる?」
「大丈夫です」
「暇だったらこれ読む?」
麗華さんが何冊か雑誌を持ってくる。
そのうち一冊。
表紙が――。
藤宮麗華。
「自分のじゃないですか」
「最新号」
「宣伝?」
「せっかくだから」
「サイン入ってます?」
「入ってない」
「じゃあいらない」
「俊介君!」
俺は笑う。
「冗談です」
「もう……」
麗華さんは打ち合わせへ向かった。
一人になった俺は、雑誌を開く。
そこには。
『今注目のグラビアアイドル・藤宮麗華』
大きな見出し。
インタビュー。
仕事について。
休日について。
これから挑戦したいこと。
俺は何となく読み進める。
『休日は家で映画を見たり、料理をしたりして過ごすことが多いです』
俺は止まる。
「……本当だ」
この前兄ちゃんの家へ行ったときも、麗華さんは普通に家にいた。
ただ。
当然ながら雑誌には書いていない。
その休日を彼氏である兄ちゃんと一緒に過ごしていることは。
世間の人が知っている藤宮麗華。
俺たち家族が知っている麗華さん。
今日、仕事場を見たことで。
その二つが初めて俺の中でつながった気がした。
◇◇◇
午後一時四十分。
「お待たせ」
麗華さんが戻ってきた。
「早かったですね」
「予定より早く終わった」
そして俺が読んでいる雑誌を見る。
「読んでたんだ」
「暇だったから」
「どう?」
「休日は家で映画見るんですね」
麗華さんが一瞬止まる。
そして小声になる。
「そこ読んだ?」
「はい」
「本当だよ」
「知ってます」
「……だよね」
「兄ちゃんと見てるんでしょ?」
さらに小声。
「そうだけど、ここで言わないの」
「誰も聞いてないですよ」
「それでも」
麗華さんが周囲を確認する。
「俊介君、事務所だと本当に気をつけてね」
「分かってます」
「ここで知ってるの、社長とマネージャーさんだけだから」
「はい」
それは大事なことだった。
事務所にいるからといって。
全員が兄ちゃんとの関係を知っているわけではない。
むしろ知らない人のほうが圧倒的に多い。
「大丈夫です」
俺は言う。
「絶対言いません」
麗華さんが少し安心したように笑った。
「ありがとう」
◇◇◇
午後二時。
今日はここで帰ることになった。
麗華さんにはこのあと別の仕事がある。
「最後に」
麗華さんがスマートフォンを取り出す。
「写真」
「忘れてなかったんですね」
「もちろん」
事務所のロゴが直接写らない場所。
控室の一角。
麗華さんが隣に立つ。
「もっと寄って」
「これくらいでいいです」
「遠い」
「近すぎると兄ちゃんに怒られそう」
「怒らないよ」
「分からないですよ」
「じゃあ普通に」
二人で並ぶ。
麗華さんがスマートフォンを構える。
「俊介君」
「はい」
「顔固い」
「やっぱり?」
「麗音の言った通り」
「だから写真苦手なんです」
「笑って」
「無理」
「じゃあ……」
麗華さんが突然言った。
「俊介君、勉強ちゃんとしないと麗音に負けるよ」
「何で今それ――」
カシャ。
「撮れた!」
「ちょっと!」
麗華さんが写真を見る。
俺も覗く。
俺が思わず笑いかけた瞬間。
その隣で麗華さんも笑っている。
「いいじゃん」
「ずるい」
「自然」
「撮り直し」
「これがいい」
「俺にも送ってください」
「気に入ってるじゃん」
「記念だから」
麗華さんが俺へ写真を送る。
俺はすぐ保存した。
もちろん。
SNSには載せない。
学校でも見せない。
見せるとしても家族だけ。
兄ちゃん。
父さん。
母さん。
麗音。
興毅さん。
美晴さん。
それくらい。
「今日はありがとうございました」
俺が言う。
「こっちこそ来てくれてありがとう」
「面白かったです」
「本当?」
「はい」
「また来る?」
「来ていいなら」
「じゃあ今度、社長にもちゃんと挨拶しようか」
「今日いなかったんですか?」
「午前中外出してたの」
「なるほど」
「今度は社長室も見せてもらえるか聞いてみる」
「そこまでいいですよ」
「せっかくだから」
麗華さんは楽しそうだ。
「あと、別の日ならもう少し長い撮影を見られるかも」
「見てみたい」
「じゃあマネージャーさんに相談しておく」
「お願いします」
麗華さんが笑う。
「決まり」
◇◇◇
事務所の入口。
来客証を受付へ返す。
「ありがとうございました」
受付の女性が言う。
「またお越しください」
「ありがとうございます」
外へ出る。
麗華さんも入口まで見送りに来てくれた。
「一人で帰れる?」
「中三ですよ」
「知ってるけど」
「大丈夫です」
「電車気をつけてね」
「はい」
俺は少し歩いてから振り返る。
麗華さんはまだ入口に立っていた。
「麗華さん」
「何?」
「仕事頑張ってください」
麗華さんが一瞬驚く。
そして。
「うん。ありがとう」
笑った。
さっきカメラの前で見せていた笑顔とは違う。
サイン会でファンに向けていた笑顔とも違う。
俺たち家族に向ける。
いつもの麗華さんの笑顔。
俺は手を振り、その場を離れた。
◇◇◇
帰りの電車。
俺はスマートフォンに保存された今日の写真を見ていた。
事務所で撮った麗華さんとの一枚。
そして思い出す。
カメラを向けられた瞬間、表情を切り替えた麗華さん。
スタッフの指示へすぐに応える姿。
撮影後にきちんと頭を下げる姿。
仕事について話していたときの真剣な表情。
サイン会のときにも思った。
でも今日は、もっと近くで分かった。
――麗華さん、本当に芸能人なんだな。
当たり前のことなのに。
家族ぐるみで付き合うようになってから、少し忘れかけていた。
俺にとって麗華さんは。
兄ちゃんの彼女。
麗音のお姉ちゃん。
母さんの大親友・美晴さんの娘。
興毅さんの娘。
そして。
俺に勉強しろと言ってくる、少し年上のお姉さんみたいな人。
でも。
事務所では違う。
多くのスタッフに支えられながら仕事をする。
人気グラビアアイドル・藤宮麗華。
その両方が。
同じ一人の人なんだ。
◇◇◇
夕方。
家へ帰る。
「ただいま」
母さん――美和子がリビングから出てくる。
「おかえり」
そしてすぐに。
「どうだった?」
「面白かった」
「麗華ちゃんいた?」
「それ目的で行ったんだからいるよ」
「仕事見た?」
「撮影見た」
母さんが驚く。
「本当に?」
「簡単な宣材撮影」
「どうだった?」
俺は少し考える。
「すごかった」
「へえ」
「カメラ向けられた瞬間、全然違った」
母さんが嬉しそうに笑う。
「麗華ちゃん、昔から人前に出ると変わるところあったのよね」
「昔から?」
「美晴から聞いてた」
「母さん何でも知ってるな」
「美晴とは長いから」
小学校から高校までずっと一緒だった大親友。
そりゃ知っていることも多いだろう。
「写真撮った?」
「撮った」
俺はスマートフォンを見せる。
母さんが写真を見る。
「あら、いいじゃない」
「学校では見せないけど」
「それがいいわね」
「兄ちゃんには送っていい?」
「いいんじゃない?」
俺は少し考え。
兄ちゃんへ写真を送った。
メッセージ。
『今日、麗華さんの事務所行ってきた』
しばらくして既読。
『聞いてる』
「早いな」
さらに返信。
『麗華、昨日から楽しみにしてた』
俺は思わず笑った。
マネージャーさんと同じことを言っている。
『マネージャーさんにも言われた』
兄ちゃんから。
『仕事してる麗華どうだった?』
俺は少し考える。
そして。
『格好良かった』
送信。
しばらくして。
『だろ?』
短い返事。
俺は笑った。
なんだか兄ちゃんが自慢しているみたいだった。
そして最後に。
『でも家にいる時と全然違った』
すると。
『家では普通の麗華だから』
その返事を見て。
俺はサイン会の日を思い出した。
あの日も兄ちゃんは言っていた。
『俺にとっては普通の彼女だよ』
たぶん。
兄ちゃんにとってはそれがすべてなんだろう。
人気グラビアアイドルでも。
雑誌の表紙を飾っていても。
大勢のファンがいても。
家へ帰れば。
ただの藤宮麗華。
兄ちゃんの大切な彼女。
そして俺にとっても。
今日から少しだけ見え方が変わった。
兄ちゃんの彼女。
麗音のお姉ちゃん。
それだけではない。
一人のプロとして仕事をしている女性。
藤宮麗華。
俺は今日撮った写真をもう一度見る。
そしてアルバムの非公開フォルダへ保存した。
誰にも見せる必要はない。
今日のことを知っている人たちだけで十分だ。
サイン会とは違った。
家族の顔合わせとも違った。
初めて訪れた、麗華さんの仕事場。
そこで俺が見たのは――。
家では決して見ることのできない。
人気グラビアアイドル・藤宮麗華の、もう一つの顔だった。
閑話「俊介と麗華――俊介が麗華の居る事務所へ遊びに行く❶」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、俊介が麗華に招かれ、初めて彼女の所属事務所へ遊びに行く姿を描きました。
サイン会では“一般のファン”として麗華を見た俊介。
しかし今回は、さらにもう一歩踏み込んで、麗華が実際に働く場所へ入ることになります。
受付。
会議室。
控室。
スタッフが行き交う廊下。
撮影スペース。
俊介が想像していた“華やかな芸能界”とは少し違い、そこにあったのは、多くの人が普通の会社と同じように真剣に仕事をしている現場でした。
そして、その中心で仕事をする麗華。
今回特に印象的だったのが、宣材写真の撮影を見学する場面です。
ほんの少し前まで控室で俊介と普通に話していた麗華が、カメラを向けられた瞬間に表情を切り替える。
スタッフからの指示に応え。
立ち位置を変え。
目線を変え。
笑顔も雰囲気も次々と切り替えていく。
それを目の前で見た俊介は、改めて麗華が“本当にプロの芸能人なのだ”と実感しました。
サイン会でも感じていたこと。
けれど今回は、もっと近い距離でその仕事ぶりを見ることができました。
そして麗華自身も、俊介が事務所へ来てくれたことをとても喜んでいます。
マネージャーから、
「数日前から楽しみにしていましたよ」
と暴露されてしまうほど。
家族として会うのとは違う。
兄の彼女として会うのとも違う。
自分が大切にしている仕事を、俊介に実際に見てもらえることが嬉しかったのだと思います。
また今回、忘れてはいけないのが“秘密”です。
事務所へ来ているからといって、スタッフ全員が麗華と主人公の交際を知っているわけではありません。
むしろ、その事実を知っているのは社長と担当マネージャーだけ。
だから俊介も、
「兄ちゃんと見てるんでしょ?」
と何気なく口にしたあと、麗華から改めて、
「事務所では本当に気をつけてね」
と念を押されます。
俊介も、
「絶対言いません」
と答えました。
これは単なる秘密ではありません。
兄の学校生活。
麗華の芸能活動。
そして二人の同棲生活。
そのすべてを守るための約束です。
そんな中でも、二人は最後に一枚の記念写真を残しました。
誰にも見せる必要のない写真。
SNSへ載せることもない。
学校で友人に見せることもない。
ただ、家族の中だけで残しておく一枚。
それでも俊介にとっては、初めて麗華の職場を訪れた大切な記念になりました。
そして帰宅後。
主人公へ、
「麗華さん、格好良かった」
と送った俊介。
それに対する主人公の、
「だろ?」
という短い返事。
そこには、ほんの少し彼女を誇らしく思う気持ちも込められているように感じます。
けれど同時に主人公は、
「家では普通の麗華だから」
とも答えました。
俊介にとっては、仕事をする藤宮麗華。
ファンに笑顔を向ける藤宮麗華。
兄の彼女である麗華。
どれも同じ一人の人。
今回の事務所訪問によって、俊介の中でその全部が少しずつつながりました。
そして今回の最後には、
「また来る?」
という麗華の言葉もありました。
次は社長への挨拶。
もう少し長い撮影。
あるいは、今回とは違う芸能界の裏側。
俊介がこれからさらに麗華の仕事を知っていく機会は増えていきそうです。
閑話「俊介と麗華――俊介が麗華の居る事務所へ遊びに行く❶」。
兄の彼女としてではなく。
一人のプロとして働く藤宮麗華を、俊介が初めてすぐ近くから知った一日となりました。




