閑話 主人公と麗音――麗音の家庭教師❷
閑話「主人公と麗音――麗音の家庭教師❷」。
前回から始まった、主人公による麗音の家庭教師。
中学三年生で高校受験を控える麗音にとって、数学や英語はまだ不安の残る科目です。
そして教える主人公自身も、高校三年生。
つまり今回は、家庭教師と生徒でありながら、同時に“受験生同士”でもある二人の勉強時間となります。
前回は、苦手だった関数を一つずつ確認しながら進め、最後には麗音自身が問題を解けるようになりました。
今回はその復習から始まり、英語の長文、理科などにも挑戦。
一方で、勉強を続けているうちに麗音の中にある、
「第一志望に合格できるのかな」
という本音も少しずつ見えてきます。
普段は明るく、俊介とも普通に学校生活を送っている麗音。
けれど中学三年生という時期だからこそ、進路への不安がないわけではありません。
そんな麗音へ、主人公はどんな言葉をかけるのでしょうか。
そして勉強の合間には、今回も姉・麗華についての話が飛び出します。
麗音から見た主人公。
主人公から見た麗華。
まだ本当の家族ではないけれど、少しずつ藤宮家の中へ溶け込んでいく主人公。
二回目となる家庭教師の時間では、勉強だけではない、二人の距離の変化にも注目です。
翌週の土曜日。
午後一時半。
俺は前回と同じように、ノートと筆記用具、それから自分用の参考書を鞄に入れて藤宮家へ向かっていた。
今日も目的は麗華ではない。
麗華の妹――藤宮麗音の家庭教師だ。
前回。
最初は関数の問題で完全に止まっていた麗音だったが、途中式を一つずつ書き、分からないところを確認しながら進めていくと、最後には自分一人で問題を解けるようになっていた。
英語も同じ。
知らない単語をすぐ人に聞くのではなく、辞書で調べ、自分で訳してみる。
それだけでも理解の仕方はかなり変わった。
そして帰り際。
美晴さんから、
『次もお願いしていい?』
と言われ。
麗音からも、
『次もお願いします』
と言われた。
だから今日は二回目。
一回目よりは、俺自身も少し気が楽だった。
とはいえ。
俺も高校三年生。
自分の勉強もある。
そのため今日は、自分の参考書も持ってきた。
麗音が一人で問題を解いている時間に、俺も自分の勉強をする。
それなら互いに無駄がない。
「……家庭教師っていうより、自習仲間みたいになりそうだな」
そんなことを思いながら、俺は藤宮家のインターホンを押した。
◇◇◇
「はーい」
扉を開けたのは、今回も麗音だった。
「こんにちは」
「こんにちは」
麗音は俺の鞄を見る。
「今日、多くない?」
「俺の勉強道具も持ってきた」
「自分も勉強するの?」
「するよ」
「家庭教師なのに?」
「俺も受験生だからな」
「そっか」
麗音が少し笑う。
「じゃあ今日は二人で受験勉強?」
「そんな感じ」
「なんか変」
「何が?」
「私、お姉ちゃんの彼氏と受験勉強してるんだよ?」
「それ毎回言うのやめてくれ」
「でも事実」
「事実でも言わなくていい」
麗音が楽しそうに笑う。
そこへ美晴さんがリビングから出てきた。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「今日もありがとう」
「いえ」
「麗音、ちゃんと昨日までの復習した?」
その瞬間。
麗音の表情が少し固まる。
「……しました」
美晴さんが目を細める。
「その間は何?」
「したよ」
「本当に?」
「本当」
俺が麗音を見る。
「確認するぞ」
「え?」
「前回やった関数」
「いきなり?」
「復習したなら大丈夫だろ」
「……たぶん」
「たぶん?」
美晴さんが笑う。
「よろしくお願いします」
「お母さん!」
「じゃあ私は邪魔しないようにしてるから」
美晴さんはそう言ってリビングへ戻っていった。
麗音が小さくため息をつく。
「厳しい」
「受験生だから仕方ない」
「みんな同じこと言う」
「俊介も言われてると思うぞ」
「俊介は宿題提出日の前日に焦るタイプ」
「やっぱり?」
「三年間見てるから分かる」
「弟の学校生活、俺より詳しいじゃん」
「同じクラスだもん」
「それも三年間」
「うん」
少し考えると本当に不思議な関係だ。
俺の弟と麗華の妹。
俺と麗華が付き合うより前から、二人は三年間ずっと同じ教室で過ごしている。
母親同士の縁。
父親同士の縁。
弟と妹の縁。
そして俺と麗華。
どこまでつながっているんだ、この二家族は。
「じゃあ始める?」
麗音が言う。
「ああ」
「今日は何から?」
「まず前回の復習」
麗音の顔が少し嫌そうになる。
「本当にやるんだ」
「当然」
「先生厳しい」
「先生じゃない」
「家庭教師」
「それなら合ってる」
こうして二回目の家庭教師が始まった。
◇◇◇
最初は数学。
前回やった関数の問題を、俺が少し数字だけ変えてノートに書いた。
「これ解いてみて」
麗音が問題を見る。
「似てる」
「前回のやつを少し変えただけ」
「じゃあできるかも」
「俺は何も言わないから」
「分からなくなったら?」
「一回自分で考える」
「そのあと?」
「質問」
「分かった」
麗音がシャープペンシルを持つ。
俺はその間、自分の英語の参考書を開いた。
数分。
麗音は黙って解いている。
俺も自分の問題を進める。
静かな時間。
こうしてみると、本当に家庭教師というより自習に近い。
しばらくして。
「……できた」
麗音が言った。
「見せて」
ノートを見る。
途中式もしっかり書いてある。
「ここまでは合ってる」
「ここまでは?」
「最後」
俺は答えの部分を指差す。
「符号」
「あっ」
麗音がすぐ気づく。
「マイナス」
「そう」
「またこれ」
「だから途中式大事だろ」
「途中式は合ってるのに」
「最後の計算で間違えただけ」
「悔しい」
「じゃあ直して」
麗音がすぐ書き直す。
「これで?」
「正解」
「やった」
「前回よりかなりいい」
「本当?」
「うん」
麗音が少し嬉しそうに笑った。
「復習したから」
「さっき怪しかったけどな」
「ちゃんとしたよ」
「じゃあ信じる」
「最初から信じてよ」
「結果見てから」
「ひどい家庭教師」
そう言いながらも、麗音は楽しそうだった。
◇◇◇
一時間ほど経った頃。
数学から英語へ移る。
今日は長文読解。
「これ苦手」
麗音が問題集を見ながら言う。
「どこが?」
「文章長いと読む気なくなる」
「それは分かる」
「分かるんだ」
「俺も昔そうだった」
「今は?」
「慣れた」
「どうやって?」
「最初から全部完璧に訳そうとしない」
麗音が俺を見る。
「どういうこと?」
「まず誰が何してるかだけ見る」
「主語と動詞?」
「そう」
俺は英文の一文を指差す。
「ここ、誰?」
「He」
「何した?」
「went」
「どこへ?」
「to the library」
「じゃあまず『彼は図書館へ行った』でいい」
「そのあと細かいところ?」
「そう」
「なるほど」
麗音は納得したように頷く。
「学校だと全部日本語にしなさいって言われるから」
「問題によるけど、読むだけなら大まかに流れつかめばいい」
「高校でも使う?」
「使う」
「受験でも?」
「使う」
「じゃあ覚える」
麗音はノートへ簡単にメモする。
俺は少し笑った。
「真面目だな」
「受験生だから」
「さっきまで文章長いと読む気なくなるって言ってたけど」
「今はやる気出た」
「単純」
「分かりやすいって言って」
「はいはい」
麗音が英文を読み始める。
数分後。
「ここ分からない」
「どこ?」
「このwhich」
「ああ、それは――」
俺が説明し始める。
そのとき。
麗音のスマートフォンが震えた。
「誰?」
「俊介」
「また?」
「今日は何だろ」
画面を見る。
麗音が笑う。
「『英語の長文の宿題、何ページまで?』」
俺は思わずため息をついた。
「俊介……」
「教えてあげる?」
「頼む」
「お兄ちゃんから言われたって書こうかな」
「やめろ」
「なんで?」
「俺が家庭教師してるの、学校で変に話すなよ」
「俊介しか知らないよ」
「それならいいけど」
麗音が返信する。
数秒後。
またメッセージ。
「何て?」
「『助かった』」
「またそれだけ?」
「うん」
「本当に必要なことだけだな」
「俊介らしいでしょ?」
「弟だけど、学校での俊介はよく知らないからな」
「意外と普通だよ」
「前も聞いた」
「だって本当に普通」
「じゃあ麗音は?」
「私?」
「学校だとどんな感じ?」
麗音は少し考える。
「普通」
「同じじゃん」
二人で笑った。
◇◇◇
午後三時。
休憩。
今日は美晴さんが紅茶と小さなケーキを持ってきてくれた。
「お疲れさま」
「ありがとうございます」
「どう? 二回目」
美晴さんが麗音を見る。
「前より分かる」
「本当?」
「うん」
「良かったじゃない」
「でも符号間違えた」
「それは気をつけなさい」
「はい」
美晴さんは俺を見る。
「教えるの大変じゃない?」
「大丈夫です」
「自分の勉強もあるのに」
「麗音が解いてる間、俺もやってますから」
「そうなの?」
「はい」
「じゃあ本当に一緒に受験勉強ね」
麗音がケーキを食べながら言う。
「お母さん」
「何?」
「この人結構ちゃんと教えてくれる」
「この人って言わない」
俺が言う。
「じゃあ何て呼ぶ?」
「普通でいい」
美晴さんが笑う。
「もうお兄ちゃんでいいんじゃない?」
俺と麗音が同時に美晴さんを見る。
「お母さん!」
「まだ違います!」
今度は俺と麗音の声が重なる。
美晴さんがさらに笑う。
「二人とも息ぴったりね」
「そういう意味じゃないです」
「分かってるわよ」
麗音が顔を少し赤くする。
「お姉ちゃんとまだ結婚してないから」
「麗音!」
「だって事実」
美晴さんは楽しそうだった。
「将来は分からないけどね」
俺は紅茶を飲みながら、完全に居心地が悪くなる。
「美晴さんまで……」
「冗談よ」
本当に冗談なのか。
最近、両家の母親たちが俺と麗華の将来を面白がっている気がする。
◇◇◇
美晴さんが部屋を出たあと。
麗音が俺を見る。
「ごめんね」
「何が?」
「お母さん」
「いつものことだろ」
「お姉ちゃんの話になると、最近ああなんだよね」
「うちの母さんも似たような感じ」
「美和子さん?」
「麗華がお嫁さんなら安心とか普通に言う」
「うちも言ってる」
「やっぱり?」
「この前、お母さんと美和子さんで電話してた」
「何話してた?」
「聞こえたのは……」
麗音が思い出す。
「『もし本当に結婚したら親戚ね』って」
俺は額を押さえた。
「早すぎる」
「お姉ちゃんも同じこと言ってた」
「麗華も聞いたの?」
「うん」
「何て?」
「顔真っ赤にしてた」
想像できる。
「麗音はどう思う?」
俺は何となく聞いた。
「何が?」
「俺と麗華」
麗音は少し驚いた。
「急に聞くね」
「前回麗音から聞いただろ」
「仕返し?」
「違う」
麗音は少し考える。
そして。
「いいと思う」
と答えた。
「そんな即答?」
「うん」
「理由は?」
麗音はケーキの最後の一口を食べてから言った。
「お姉ちゃん、楽しそうだから」
またそれだった。
「そんなに変わった?」
「変わったというか」
麗音は言葉を選ぶ。
「仕事で疲れて帰ってきても、前より明るい」
「そうなんだ」
「あとスマホ見る回数増えた」
「それは俺かも」
「ほぼ絶対そう」
「家でも会ってるのに?」
「会ってても連絡するんでしょ?」
「まあ」
「それに」
麗音が少し笑う。
「お姉ちゃん、この前言ってた」
「何を?」
「『家に帰るのが楽しみ』って」
俺は少し黙った。
「それ、俺がいるから?」
「たぶん」
「本人に聞いた?」
「聞いてないけど、他にある?」
「ないかも」
麗音は笑った。
「だから、いいと思う」
俺は何となく照れくさくなった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「でも結婚はまだ分からないからな」
「分かってる」
「俺もまだ高校生だし」
「でもお姉ちゃんのこと大事?」
真っ直ぐ聞かれる。
俺は少し考えた。
でも答えは決まっていた。
「大事」
麗音が頷く。
「じゃあいい」
前回と同じ答え。
「麗音、それで全部判断するの?」
「だって妹だもん」
「それが理由?」
「姉が大事にされてれば安心でしょ」
「なるほど」
「逆に泣かせたら怒るよ」
「麗音が?」
「私も。お父さんも。お母さんも」
「興毅さんにも言われそう」
「絶対言う」
「怖いな藤宮家」
「俊介の家族だって同じでしょ」
「まあな」
二人で笑った。
◇◇◇
休憩終了。
次は理科。
「理科もやるの?」
俺が聞く。
「今日学校の問題集持ってきた」
「持ってきたってここ麗音の家だろ」
「机から出した」
「言い方」
麗音が問題集を開く。
「電流」
「得意?」
「普通」
「じゃあやってみて」
麗音が問題を読む。
「これ……」
「分かる?」
「ちょっと待って」
俺は何も言わず、自分の参考書へ戻る。
五分後。
「できた」
「見せて」
確認する。
「正解」
「やった」
「次」
「早い」
「受験本番も待ってくれない」
「先生みたいなこと言う」
「家庭教師だから」
「認めた」
「今日だけ」
「前も言ってた」
少しずつ。
俺たちもこの時間に慣れてきた。
最初はお互いに、
『姉の彼氏』
『彼女の妹』
という関係を意識していた。
でも勉強している間は。
本当にただの家庭教師と生徒。
あるいは。
少し年齢の離れた受験仲間。
そんな感じになっていた。
◇◇◇
午後四時半。
麗音が問題を解いている間。
俺は自分の国語の問題集をやっていた。
しばらくして。
「ねえ」
麗音が声をかける。
「ん?」
「それ高校の?」
「そう」
「難しい?」
「結構」
「見せて」
俺は問題集を少し麗音のほうへ向ける。
長文。
漢字。
古文。
麗音が一瞬で嫌そうな顔をする。
「高校行きたくなくなってきた」
「早い早い」
「こんなのやるの?」
「やる」
「古文無理」
「中学でも少しあるだろ」
「あるけど、これ長い」
「慣れるよ」
「本当に?」
「俺も中三の頃同じこと思ってた」
麗音が俺を見る。
「高校受験のとき、緊張した?」
「した」
「前日寝れた?」
「普通に寝た」
「私は絶対寝れない気がする」
「まだ本番じゃない」
「でもあと何か月か」
麗音の声が少しだけ不安そうになる。
今までの軽い会話とは違う。
俺は問題集を閉じた。
「不安?」
「……ちょっと」
「志望校、もう決めてる?」
「第一志望はある」
「模試は?」
麗音が少し曖昧な顔になる。
「今、ギリギリ」
「判定?」
「うん」
「だから家庭教師?」
「たぶん」
なるほど。
美晴さんが俺に頼んだ理由が少し分かった。
塾だけではなく。
家でも勉強する習慣をつけたいのかもしれない。
「麗音」
「何?」
「ギリギリなら、まだ全然変わるだろ」
「本当?」
「本番今日じゃないんだから」
「でももし落ちたら……」
「まだ落ちること考えるなよ」
「でも」
「じゃあ逆」
「逆?」
「受かるために何が必要か考える」
麗音が黙って聞く。
「数学の関数苦手だった」
「うん」
「前回より今日できた」
「うん」
「英語も長文読む方法少し分かった」
「うん」
「それを一個ずつ増やせばいい」
「そんな簡単?」
「簡単じゃない」
俺は正直に答える。
「でも、やることはそれしかない」
麗音は少し考える。
「……そっか」
「俺も同じ」
「高校受験?」
「今はその先の受験」
「お互い大変だね」
「だから受験仲間」
「家庭教師じゃなくなった」
「両方」
麗音が少し笑った。
さっきまでの不安そうな顔が、少しだけ柔らかくなる。
「じゃあ私が勉強サボってたら?」
「注意する」
「そっちがサボってたら?」
「麗音が注意する?」
「する」
「年下に注意されるの嫌だな」
「受験仲間でしょ?」
「そうだった」
二人で笑った。
◇◇◇
午後五時。
今日最後の問題。
数学。
麗音は黙って解いていた。
俺は横から一切口を出さない。
途中。
一度ペンが止まる。
でも麗音は自分で前の式を確認する。
消しゴム。
書き直す。
また進む。
数分後。
「……できた」
「本当に?」
「たぶん」
「見せて」
ノートを確認する。
俺は最後まで見る。
そして。
「正解」
「本当!?」
「ああ」
「全部?」
「全部」
麗音の顔が一気に明るくなる。
「一人でできた!」
「今回は俺何も言ってない」
「やった!」
嬉しそうだった。
俺も何となく嬉しい。
教えた相手が自分で解けるようになる。
これは意外と気分がいい。
「次はもっと難しいやつな」
「え」
「今ので満足するな」
「急に厳しい」
「受験生だから」
「またそれ」
麗音は笑っていた。
◇◇◇
勉強を片づけていると。
美晴さんが部屋へ来た。
「終わった?」
「はい」
「今日はどうだった?」
麗音が先に答える。
「関数一人で解けた」
「本当?」
「最後の問題」
「すごいじゃない」
美晴さんが嬉しそうに笑う。
「良かったね」
「うん」
「ありがとう」
俺へ頭を下げる。
「いえ。麗音が自分でやったので」
「教え方がいいんじゃない?」
「そこまでじゃないです」
「謙遜しなくていいのに」
麗音が横から言う。
「でも今日、ちょっと先生っぽかった」
「ちょっと?」
「前より」
「家庭教師二回目だからな」
美晴さんが笑う。
「じゃあ三回目もお願いしようかしら」
俺と麗音は顔を見合わせる。
麗音が先に言った。
「私は大丈夫」
「俺も予定が合えば」
「じゃあお願いします」
どうやら家庭教師❸もありそうだ。
◇◇◇
玄関。
俺が靴を履く。
「今日はありがとう」
麗音が言う。
「おう」
「次までに今日の復習しとく」
「本当に?」
「今度は疑わないでよ」
「結果見て判断する」
「またそれ」
「あと英語の長文」
「やる」
「理科も」
「多い」
「受験生」
「分かってるって」
俺は笑う。
「じゃあまた」
「うん」
俺が扉へ手をかけたとき。
麗音が呼び止める。
「ねえ」
「何?」
「今日の話」
「どれ?」
「受験のこと」
俺は振り返る。
「少し気が楽になった」
「そう?」
「うん」
「なら良かった」
「お姉ちゃんが好きになる理由、ちょっと分かったかも」
「は?」
突然すぎる。
麗音は笑う。
「何でもない」
「いや、気になる」
「教えない」
「前回からそればっかり」
「じゃあ、お姉ちゃんに聞いて」
「絶対変なこと言うだろ」
「ふふっ」
麗音は楽しそうに笑った。
「またね」
「……また」
俺は少し納得できないまま、藤宮家を後にした。
◇◇◇
午後五時半。
俺たちの家。
玄関を開ける。
「ただいま」
すぐに。
「おかえりー!」
麗華がリビングから出てきた。
今日は仕事が早く終わったらしい。
「家庭教師どうだった?」
第一声がそれ。
「俺より麗音の心配?」
「妹だから」
「ちゃんとやってた」
「本当?」
「関数、一人で解けた」
麗華の顔が明るくなる。
「本当に?」
「ああ」
「すごいじゃん!」
まるで自分のことのように嬉しそうだ。
「前回最初から分からないって言ってたのに」
「今日はかなり良くなってた」
「良かった……」
麗華は安心したように息を吐いた。
「あと受験のことで少し不安そうだった」
「麗音が?」
「うん」
麗華の表情が少し真剣になる。
「何て?」
「第一志望、今ギリギリらしい」
「……そっか」
「でもまだ時間あるから」
「うん」
「できる範囲で見るよ」
麗華が俺を見る。
「ありがとう」
「麗華が礼言うことじゃない」
「姉だから言う」
「美晴さんにも言われた」
「じゃあ私も」
麗華が笑う。
「家庭教師の先生、よろしくお願いします」
「先生じゃないって」
「麗音には?」
「最近もう諦めて家庭教師って認めた」
「ふふっ」
麗華は俺の隣へ座る。
「ねえ」
「何?」
「麗音、他に何か言ってた?」
俺は少し迷う。
「……一個だけ」
「何?」
「『お姉ちゃんが好きになる理由、ちょっと分かったかも』って」
麗華が固まった。
数秒。
「麗音が!?」
「うん」
「何それ!」
「俺が聞きたい」
「何したの?」
「勉強教えただけ」
「本当に?」
「あと受験の相談」
「何て言ったの?」
「今できないところを一個ずつできるようにすればいいって」
麗華が俺を見る。
そして。
少し笑った。
「……なるほど」
「何?」
「それかも」
「何が?」
「麗音が言った意味」
「分かるの?」
「うん」
「教えて」
「嫌」
「姉妹で同じこと言うなよ」
麗華が楽しそうに笑う。
「内緒」
「気になる」
「じゃあ一つだけ」
「何?」
麗華は俺の肩へ少し寄りかかった。
「そういうところが好き」
「……急だな」
「麗音も多分そう思ったんじゃない?」
「妹と彼女で同じ評価されても困る」
「恋愛の意味じゃないよ」
「分かってる」
「優しいところって意味」
麗華はそう言って笑った。
俺は何となく照れくさくなって視線を逸らす。
「家庭教師しただけなんだけど」
「それでも」
「次も頼まれた」
「❸?」
「たぶん」
麗華が嬉しそうに笑う。
「じゃあこれからもお願いします」
「予定合う日だけな」
「うん」
少しして。
麗華が静かに言った。
「麗音、受験受かるといいな」
「まだこれからだろ」
「うん」
「俺もできる範囲で手伝う」
「ありがとう」
今度の「ありがとう」は、さっきよりずっと小さかった。
姉として。
妹のことを本当に心配しているのだろう。
俺は改めて思った。
麗華は人気グラビアアイドル。
テレビの中では華やかに笑っている。
でも。
俺の前では彼女であり。
麗音の前では姉。
家族の前では一人の娘。
いろいろな顔を持っている。
そして今。
俺自身も少しずつ麗華の家族の中へ入っているのかもしれない。
まだ結婚したわけじゃない。
本当の家族でもない。
それでも。
麗音の勉強を教え。
受験の相談を聞き。
美晴さんから頼られ。
興毅さんからも交際を認めてもらい。
少しずつ。
ただの「麗華の彼氏」以上の関係になり始めている。
それが少し不思議で。
でも。
悪くないと思った。
二回目の家庭教師。
数学の関数。
英語の長文。
理科の電流。
そして受験への不安。
勉強だけではなく。
麗音の本音も少しだけ聞けた一日だった。
次の家庭教師では。
今日よりもう少し難しい問題と。
そしてきっと――。
また家族の話が待っているのだろう。
閑話「主人公と麗音――麗音の家庭教師❷」を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は二回目の家庭教師として、前回よりも少し踏み込んだ受験勉強と、麗音の進路への不安を描きました。
前回苦戦していた数学の関数。
今回は同じような問題を、自分の力で考えながら解くところから始まりました。
途中式もきちんと書く。
間違えた場所も自分で確認する。
そして最後には、主人公が一切口を出さなくても正解までたどり着く。
「一人でできた!」
という麗音の言葉からも、少しずつ自信がついてきたことが分かります。
英語では、長文を最初から完璧に訳そうとせず、主語と動詞を確認しながら内容をつかんでいく。
理科では、自分で考える時間を大切にする。
ただ答えを教えるだけではなく、
「自分で解けるようになる」
ことを意識している主人公の教え方も、少しずつ家庭教師らしくなってきました。
そして今回、大きかったのが麗音の受験への不安です。
第一志望は決まっている。
けれど模試ではまだギリギリ。
「もし落ちたら……」
そんな不安を口にした麗音。
主人公自身も高校三年生であり、進路を考える立場だからこそ、その気持ちを完全に他人事として扱うことはありませんでした。
主人公が伝えたのは、
「受かるために何が必要か考える」
ということ。
一気にすべてを変えることはできない。
けれど今日できなかった問題を、次にはできるようにする。
その積み重ねならできる。
麗音だけではなく、主人公自身にも当てはまる言葉でした。
その結果、二人は家庭教師と生徒だけではなく、
“受験仲間”
という新しい関係にもなり始めています。
また今回も、勉強とは別に麗華の話が登場しました。
麗音から見れば、主人公と付き合い始めてからの姉は以前より楽しそう。
仕事で疲れていても明るくなり、
「家に帰るのが楽しみ」
と話すようになった。
人気グラビアアイドルとして多くの人に知られている麗華ですが、妹の麗音には、家族だからこそ分かる小さな変化があります。
だからこそ麗音は、
「お姉ちゃんのこと大事?」
と主人公へ真正面から尋ねました。
主人公の答えは、
「大事」
という、とても短いもの。
けれど麗音にとっては、それで十分でした。
「じゃあいい」
という言葉には、妹として主人公を少しずつ信頼する気持ちが込められています。
そして帰り際。
麗音が主人公へ伝えた、
「お姉ちゃんが好きになる理由、ちょっと分かったかも」
という一言。
その意味を主人公は分からないまま帰宅しますが、話を聞いた麗華はすぐに何となく理解しました。
相手の不安を無理に否定しない。
簡単に「大丈夫」とだけ言わず、一緒にできることを考える。
そんな主人公の姿を見て、麗音も姉が主人公を好きになった理由を少し感じ取ったのかもしれません。
まだ主人公は、麗華の正式な家族ではありません。
けれど美晴から家庭教師を任され。
麗音から受験の不安を相談され。
麗華から妹のことを頼まれる。
少しずつ藤宮家との距離は近くなっています。
そして家庭教師は、どうやら三回目へ。
次はさらに難しくなる勉強。
近づいていく受験。
そして主人公と麗音だからこそできる、家族や進路についての会話。
二人の少し変わった家庭教師の時間は、まだ続いていきます。




