対局の夜
夜。
結界の家は静かだった。
子どもたちの寝息。
消えかけの暖炉。
机の上には飲みかけのコーヒー。
ヴァルアはそっと立ち上がり、子どもたちの毛布をかけ直す。レムが寝返りを打ち、小さく「ヴァル姉……」と呟いたのを見て胸が少しだけ緩む。
だが次の瞬間、窓の外で赤い蝶がふわりと光った。
仕事仲間からの呼び出し。
ヴァルアの表情から温度が消える。外套を羽織り、剣を腰へ差した。結界を抜けると、夜気が頬を刺した。
森の奥。
瘴気の匂いが漂う谷の手前には、既に仲間たちが集まっていた。焚き火を囲み、武器の手入れをしている。ヴァルアの姿を見つけた一人が手を挙げた。
「お、来た来た。今日は早いな。」
「子どもら寝るの早かったからな。」
別の男がにやにや笑う。
「完全に保護者じゃねぇか。」
「うるさい。」
周囲からくすくす笑いが漏れる。ヴァルアは眉をひそめた。
「殴るぞ。」
「やめろやめろ、出発前に仲間割れすんな。」
誰かが肩を叩き、また笑いが起きる。張り詰めた空気ではない。だが死地へ向かう前の、いつもの時間。
その時、谷の奥から低い振動が響いた。
どくん。
笑い声が止まる。
全員が同時に顔を上げた。
焚き火の火が風もないのに揺れる。
「……来たな。」
さっきまで笑っていた男の声が低くなる。ヴァルアが谷底を見下ろした。空間が裂け、黒い靄が脈打っている。
「規模は?」
「中。けど嫌な感じだ。」
「最近ずっとそれだな。」
やだやだ、と誰かが舌打ちした。ヴァルアは剣へ手をかける。銀の刃へ炎が灯り、その上から淡い光が重なった。それを境に周りの空気も変わる。仲間たちも武器を構え、さっきまでの軽口はもうない。
空間の裂け目を睨みつけるヴァルアの声が静かに落ちる。
「前衛三人、右から回れ。後衛は浄化優先。無理した奴からぶん殴る。」
「はいはい、怖ぇ隊長さん。」
軽く返事をした男が次の瞬間には真剣な顔になっていた。
「右、任せろ。」
ヴァルアが頷く。
「行くぞ。」
全員が同時に動いた。黒い影が谷から噴き出す。ヴァルアが最初に飛び込むと炎と光を纏った剣が闇を断ち切り、瘴気が焼ける音が響いた。背後から仲間の声。
「左二体!」
「見えてる!」
「ヴァルア、上!」
「遅ぇ!」
振り向きざまに光が閃き、飛びかかった影を貫く。連携に迷いがない。長く共に戦ってきた者同士の動きだった。だが谷の奥で再び重い脈動が響く。
どくん。
どくん。
ヴァルアの目が細くなる。
昼間の笑い声が遠く脳裏を掠めた。
ライアの『エルお兄ちゃん!』という声。
レムの拍手。
トアの眠そうな笑顔。
胸の奥が一瞬だけ温かくなる。
——帰る。
剣を握る力が強くなる。ヴァルアは低く息を吐いた。
「終わらせるぞ。」
返事は一つ。
「おう!!」
夜の谷へ、炎が駆けた。




