襲名式 ②
ルミナは胸元で手を組み、静かに前へ出た。カイゼルは拳を握ったまま、一歩も動かなかった。最初に名を呼ばれたのは、光の候補者のルミナだった。彼女は静かに一歩前へ出る。白銀の正装が陽光を受けて淡く輝いた。
背筋は真っ直ぐ。震えはない。
ルミナは総統へ一礼し、澄んだ声で口を開いた。
「わたくしは生まれてから今日まで、母である光族長の背を見て育って参りました。」
広場へ静かな声が響く。
「民のため、里のため、努力を重ねて参りました。手を抜いたことも、嫌だと思ったことも一度もありません。」
要人席の現光族長が静かに娘を見つめている。
「本日この場にも、族長となる覚悟を持って立っております。」
はっきりとした宣言だった。ざわめいていた会場が再び静まる。ルミナは一度だけ視線を落とした。
数秒の沈黙。
その沈黙が、彼女がこれから語る言葉の重さを物語っていた。やがてルミナはゆっくり顔を上げる。真っ直ぐ前を見据えた。
「わたくしはヴァルア様と面識はありません。」
ヴァルアが「様?」と眉をひそめる。
ルミナはそれを見てふっと笑う。
「ですが、学友であったシヴェリアから、彼女の人柄について聞いておりました。」
シヴェリアが息を呑む。
以前、狭間の秘密について聞いた時、ルミナと話す機会があった。その際にヴァルアについて教えと欲しいと頼まれたシヴェリアはヴァルアとの思い出を彼女に語ったのだ。
「彼女の功績も。会議で公表された論述も、全て読ませていただきました。」
会場がわずかにざわめく。あの答案は、一部の上層部しか知らないはずだった。ルミナは静かに言った。
「……わたくしは、彼女には実力で到底及ばないと知りました。」
その瞬間、ヴァルアが「おい」と小さく呟く。認められることに慣れていない顔だった。ルミナは胸元で手を重ねる。
「しかしながら。」
声に芯が宿る。
「光の民を思う気持ちだけは、それだけは彼女より上だと、自信を持って申し上げられます。」
会場の空気が張り詰めた。ヴァルアも思わず顔を上げる。ルミナの瞳は揺らいでいなかった。
「血に対する偏見やそれによって起こる差別について、恥ずかしながら深く考えたことがありませんでした。」
その告白に、光の里の席が静まり返る。
「ですが、彼女の歩んできた道を知り、初めて考えました。もし、民を幸福へ導く者を選ぶのであれば。もし、光の未来をより良くできる者を選ぶのであれば。」
ルミナはゆっくりとヴァルアへ視線を向けた。
覚悟の決まった顔で笑う。
「わたくしは、ヴァルア様に族長を託したい。」
広場がどよめく。
「そして私は、その背を守り、支える者になりたい。彼女と共に前に進めるよう、光の民をまとめる役目を担いたい。それが、今わたくしに見えている最善の未来です。」
最後に深く一礼した。
「以上が、わたくしの答えです。」
しん、と会場が静まり返る。誰もすぐには拍手できなかった。それほどまでに、彼女の言葉は重かった。ヴァルアだけが困惑した顔でぽつりと呟く。
「いや、勝手に未来決めんなよ……。」
その小さな声だけが、妙に場違いで。
張り詰めた空気の中、エルキアが吹き出しそうになって必死に口元を押さえた。ルミナの言葉が終わった後も、会場にはざわめきが残っていた。その横で、カイゼル・イグナートは拳を強く握り締めていた。
(ルミナ……!?)
幼い頃から共に学び、競い合ってきた学友。
誰より努力を知っている相手が、ここでヴァルアを支持するとは思っていなかった。
胸の奥が焼けるような感情。
どうしても納得できなかった。総統に名を呼ばれ、カイゼルは背筋を伸ばし、堂々と壇上中央へ進み出た。その姿勢は完璧だった。
「自分は、ルミナのように認めることはできません。」
はっきりとした声に広場が静まる。
カイゼルは観衆へ向き直った。
「皆様。今、この女はどのように壇上へ上がりましたか?」
ヴァルアを指し示す。
「礼儀も礼節もない。責任感も感じられない。功績だけで持ち上げられている——それだけの女です。」
語気が強くなる。
「今まで民の支えになるために努力してきた我々を、まるで馬鹿にしているではありませんか!」
会場の一部から頷きが漏れた。カイゼルはさらに畳みかける。
「しかも、その功績は本当にお前自身のものなのか?」
シヴェリアがはっと顔を上げる。
「論述試験はシヴェリア殿の邸宅で行われたと聞いている。シヴェリア殿を丸め込み、自分に都合の良い形で解いたのではないか?現に論述試験の内容も、一部にしか公開されていない。」
ヴァルアがゆっくり顔を上げた。金と赤の瞳が細くなる。
「……んだと?」
低い声。エルキアが身を乗り出す。
「おい!」
ヴァルアの瞳にはシヴェリアを侮辱された怒りが滲んでいた。だがカイゼルは止まらない。
「戦場での実力も同じだ!本当にお前自身の力なのか!?」
観衆へ向かって腕を広げる。
「魔法を正しく学んだこともない女が、あれほどの力を持つと、本気で信じられますか!?」
再び広場がざわつく。
「確かに……。」
「混血だろ?」
「野蛮な連中だ。」
「何をしているか分からない。」
ぽつぽつと漏れ始めた声。それを聞いたカイゼルの口元がわずかに歪む。勝った。そう思った。ヴァルアは観衆を見回した。眉間に皺を寄せたまま、小さくため息をつく。
(……だから言わんこっちゃない。)
怒りより先に、諦めが胸を満たした。こんなものだ。世界は簡単には変わらない。
「……はいはい、それなら——」
やめてやる。そう言いかけた、その瞬間。
「では。」
澄んだ声が会場に響いた。ざわめきが止まる。
要人席からゆっくり立ち上がったのはジルベルトだった。彼は表情を変えずにゆっくりと続ける。
「ここで一騎打ちをしていただき、実力を示してもらうのはいかがでしょう。」
そこの言葉に誰もが息を呑み静寂が広がる。
ジルベルトはは壇上へ上がり、カイゼルとヴァルアの間に立った。
「疑念があるなら、最も分かりやすい方法で晴らせばいい。」
その声には先ほどまでの軽さがない。中枢の嫡男としての威厳が滲んでいた。カイゼルが目を見開く。ヴァルアもぎょっとした顔でジルベルトを見る。
「はぁ!?」
思わず素の声が出た。ジルはちらりと横目でヴァルアを見る。
「ちょうどいいだろ。お前、さっきまで寝てたし。体力万全だろ。」
「そういう問題じゃねぇ!」
会場から小さな笑いが漏れた。張り詰めていた空気がわずかに緩む。だがジルベルトの瞳は真剣だった。
「カイゼル・イグナート。」
「……。」
「君が努力してきたことは否定しない。」
「だからこそ、納得できる形で決着をつけよう。」
カイゼルは唇を噛む。逃げれば、自らの主張を否定することになる。受ければ、ヴァルアと真正面から戦うことになる。ヴァルアは頭を抱えた。状況が次々と変わり、流石に対処できない。
「なんでこうなるんだよ……。」
その呟きに、シヴェリアは思わず苦笑した。だが同時に理解していた。ここでヴァルアが背を向ければ、偏見は「やはり逃げた」と塗り替えられる。だが我々の知るヴァルアが逃げることはないだろう。世界を変えるための最後の試練が、今まさに始まろうとしていた。
「会場は私が作り替えよう。」
総統が杖を軽く打ち鳴らした次の瞬間。会場全体を覆う巨大な魔法陣が展開する。光が走り、床が震え、壁がほどけるように消えていった。
「うわっ……!」
観客席から驚きの声が上がる。気づけばそこは、空の下に広がる巨大な円形闘技場だった。中央に広い戦闘区域。その周囲を階段状の観客席がぐるりと囲んでいる。総統の空間魔法だった。さらに光が弾け、ヴァルアとカイゼルが中央へ転送される。
「は?」
ヴァルアがきょろきょろと辺りを見回した。
「ちょっと待て。私、やるなんて一言も言ってないんだけど!?」
観客席から笑いが漏れる。総統は平然としていた。
「審判は私が務める。」
ヴァルアの言い分を完全に無視したその一言で空気が引き締まる。総統直々の審判。それだけでこの戦いがただの余興ではないことが知れた。
「どちらかが根を上げた時点で決着とする。」
総統が静かに手を下ろす。
「——始めたまえ。」
その瞬間、カイゼルの魔力が爆発した。轟音と灼熱。彼の背後に巨大な炎の剣が出現する。
「はああああッ!!」
振り下ろされた剣が地面を抉った。
「ちょ、まっ、おい!」
ヴァルアは構える猶予も与えない猛攻を紙一重で避ける。
「うわ危なっ。」
さらに二撃、三撃。
ひらり。ひらり。まるで散歩でもしているかのように避け続けながらヴァルアは頭を抱えた。
(最悪だ……!!!勝ったら族長。負けたらシヴェルたちの顔に泥。どうしろってんだよ!!)
攻撃する気が全くない。それがカイゼルには侮辱に見えた。
「貴様!!」
怒号が響く。
「馬鹿にしているのかァ!!」
怒りと共に、無数の炎球が宙へ浮かぶ。
「消えろ!!」
一斉射撃。ヴァルアは舌打ちした。剣は避けられる。だが炎球は数が多い。彼女は片手を振る。
「っ、面倒くせぇ!」
ヴァルアの手に展開された結界魔法に炎球が弾かれ、次々と上空へ打ち上げられて消えていく。
「おい! 危ない!」
ヴァルアが叫ぶがカイゼルは聞こえていない。攻撃はさらに激しくなる。威力も速度も増していく。観客席がざわめき始めた。
「やりすぎじゃ……。」
「止めなくていいのか?」
ヴァルアは飛んでくる炎を片端から弾き返す。しかし一つ、小さな炎球が軌道を逸れた。
どんっ。
観客席近くの壁に当たり、火花が散る。小さな悲鳴が起こりヴァルアの眉がぴくりと動いた。カイゼルはなおも攻撃を続けている。
(……こいつ、周りが見えてねぇ。)
ヴァルアは大きくため息をついた。
「仕方ねぇ。」
足元に魔法陣が浮かぶ。次の瞬間、彼女の姿が消えた。
「なっ——」
目の前から急に消えたヴァルアを見失い、一瞬固まったカイゼルの懐にヴァルアが現れる。
「悪いな。」
その言葉と共にどごっ!!と音を立てて拳が腹にめり込む。カイゼルの身体が吹き飛んだ。会場がしんと静まり返る。
「ぐっ……!」
膝をつきながらも倒れない。ヴァルアが目を丸くした。
「え、気絶させる勢いで殴ったのに、お兄さん強いね……。」
その言葉がさらに火に油を注いだ。
「貴様ァァァ!!」
カイゼルの魔力が暴走する。巨大な炎塊が頭上に現れた。
「終わりだ!!」
放たれた炎が轟音と共に迫る。ヴァルアが避けるがそのうちの一発が大きく逸れた。どおおん!!と大きな音を立てて火球ら闘技場の柱へ直撃し、石が砕け、柱が傾いた。悲鳴と共に観客が逃げ惑う。最早二人の一騎打ちを見ていられる状況ではなくなってきた。ヴァルアの瞳が鋭くなる。転んだ小さな赤髪の女の子が見えた。動けない。
「っ!」
ヴァルアはカイゼルへ背を向けて走り出した。だがカイゼルはまだ彼女しか見えていない。
「逃がすか!!」
追撃の炎が放たれる。
一発。二発。三発。
そのうちの一つが、ヴァルアの背中へ直撃した。
「ぐっ……!」
顔が歪む。服が焼け、血が滲む。それでも彼女は止まらない。倒れかけた柱の下へ滑り込み、少女を抱き込んだ。次の瞬間、総統の結界が柱を受け止める。ヴァルアは少女を抱え上げた。
「立てるか?」
涙目で頷く少女を係員へ渡す。その背後で、カイゼルが再び魔法を構えた。まだ戦おうとしている。ヴァルアの中で何かが切れた。
「——いい加減にしろ。」
低い声と殺気。魔力が爆発し、光と炎が渦を巻き、巨大な魔法陣となってカイゼルへ落ちた。
「うわっ——!?」
全く視認できない速さで全てが起こり、カイゼルは地面へ叩きつけられた。見えない力に全身を拘束され、ヴァルアがその上から押さえつける。金と赤の瞳が怒りで燃えていた。
「お前、この状況が分かんねぇのか!!」
怒鳴り声が闘技場へ響く。カイゼルは初めて周囲を見た。壊れた柱。砕けた床。怯える観客。そして。ヴァルアに庇われ、係員に抱きかかえられている小さな赤髪の少女。見覚えのある髪飾り。見覚えのある泣き顔。
「……リ、リア……?」
それは、歳の離れた妹だった。カイゼルの瞳から怒りが消える。代わりに広がったのは、凍りつくような恐怖だった。
自分が。
自分の手で。
守るべき妹を殺しかけた……?
その事実が、ようやく彼の胸へ突き刺さった。
「おれ、は……。」
押さえつけられたまま、カイゼルの唇が震えた。
「おれは……ただ……。」
言葉が続かない。視界の端で泣いている妹。崩れた柱。怯えた観客。そして、自分を押さえ込んでいる混血の少女。カイゼルの顔から血の気が引いていく。その様子を見て、ヴァルアはようやく正気に戻ったと判断した。怒りに任せていた魔力をふっと解き、カイゼルの上から身を退ける。そして、総統を見上げて淡々と言った。
「……降参する。」
ヴァルアの言葉に会場が大きく揺れた。
「なっ……!?」
カイゼルが信じられないものを見るようにヴァルアを見上げる。ヴァルアは肩を竦めた。
「いや、このお兄さん、周り見えなくなるのは良くないけどさ。」
頭をかきながら続ける。
「ずっと里のこと考えて努力してきたんでしょ?」
「だったら、いきなり訳わからんぽっと出の混血に『はい族長譲りまーす』なんて言われて納得できるわけないじゃん。」
カイゼルが目を見開く。普段よりかなり饒舌に話すヴァルアは苦笑した。
「周り見えなくなるくらい怒って当然だろ。」
それだけ言うと、彼女はくるりと背を向けた。
「じゃ、私は帰る。」
誰の返事も待たない。
「いってぇ……。」
焼け焦げた服の裂け目から血が滲む肩口を押さえ、背中をさすりながら一般席へ歩き始める。その背中を、会場中が呆然と見つめていた。ぽつり、と誰かが呟く。
「もしかして……。」
別の声が重なる。
「さっき火球を空に弾いてたのって、会場に当たらないようにするため?」
「混血なのに、純血の子を庇ったの?」
「あのカイゼルを押さえつけるなんて……。」
「すごくないか……?」
囁きが波のように広がっていく。さっきまでの嘲りとは違う声。戸惑い。驚き。そして、初めて向けられる敬意。その全てがカイゼルの耳にも届いた。彼は震える手を見つめる。
(俺は……。)
妹を守れなかった。民を見失った。そして、自分が否定した相手が、その民を守った。ヴァルアの背中が遠ざかっていく。カイゼルの喉からかすれた声が漏れた。
「……待ってくれ。」
だがヴァルアは振り返らない。
「レムたち待たせてるから無理。」
あまりにもいつも通りの返事だった。
その瞬間、緊張で張り詰めていた空気がふっと緩み、会場のあちこちから小さな笑いが漏れた。シヴェリアは涙ぐみながら笑い、エルキアは額を押さえて肩を震わせる。ジルはやれやれと空を仰いだ。総統だけが静かにヴァルアの背中を見つめていた。
——民を守るために戦い、勝っても誇らず、相手の努力を踏みにじらない。
その姿こそが、彼が見たかった答えだった。
「待ってくれ!!!!」
背後から響いた叫びに、ヴァルアは露骨に嫌そうな顔をした。
「まだなんかあるのかよ……。」
肩を押さえながら、めんどくさそうに振り返る。闘技場の中央。カイゼルはゆっくり立ち上がっていた。膝は震え、呼吸も荒い。それでも彼はまっすぐヴァルアを見ていた。観客席が静まり返る。
カイゼルは胸に手を当て、大きく息を吸った。
悔しい。今でも、俺が族長になりたかった。ヴァルアに負けたことも、腹が立つ。ぐるぐると回る感情を飲み込み、それでも言葉を紡ぐ。
「炎の族長は、お前が継げ。」
その声は広場全体へはっきり響いた。ざわっ、と空気が揺れる。カイゼルは続けた。
「俺は——お前の下で学び、支える。」
誰も息をしていないかのような静寂。
「民を守るべき場で、俺は怒りに飲まれた。」
拳を握る。
「だが、お前は最後まで民を守った。」
妹の方へ視線を向け、再びヴァルアを見る。
「俺が目指していた族長は、そういう者だったはずだ。」
その瞳にはもう怒りはない。悔しさも、嫉妬も、全部抱えたまま、それでも前を向こうとしている目だった。
「だから俺は、お前から学びたい。」
真っ直ぐ。逃げずに。はっきりと告げる。
「炎の未来を、お前と共に支えたい。」
広場が大きくどよめいた。炎の里の席では、長老たちが信じられないという顔をしている。光族長は静かに目を閉じた。シヴェリアは両手を口元へ当て、エルキアは「うお……」と小さく漏らす。ジルベルトはヴァルアの顔を見ながら吹き出しそうになりながら肩を震わせていた。
そして当の本人は。
「……え?」
完全に間の抜けた声を漏らした。きょとんと瞬きをする。
「いや待て。」
周囲を見回す。
「なんでそうなる?」
カイゼルは真剣なままだ。
「本気だ。」
「いやいやいや!」
ヴァルアはぶんぶん首を振った。
「私は帰ってリンゴ剥かなきゃなんだけど!?」
レムたちが観客席で「リンゴ!」と頷く。
場違いな会話に、会場のあちこちから笑いが漏れた。張り詰めていた空気がふっと和らぐ。だがカイゼルは笑わなかった。
「逃げるな、ヴァルア。」
その言葉に、ヴァルアの足が止まる。カイゼルは深く頭を下げた。
「俺は、お前を認める。」
その瞬間。炎の里の席から、一人、また一人と立ち上がり拍手が起こる。その拍手が会場全体に広がった。光の席、水の席、雷の席、氷の席へ波のように広がっていく。最初はまばらだった音が、次第に大きくなっていった。ヴァルアは呆然とその音を聞いていた。今まで向けられてきた嘲りとは違う。
祝福でもない。
期待でもない。
——認めようとする音だった。
波のように広がる拍手の音に、カイゼルは深く頭を下げた。だが、その時だった。
「待て!」
鋭い声が要人席から響く。中枢の重鎮の一人が立ち上がっていた。
「騙されるな!」
拍手が止まる。男はヴァルアを指差した。
「もしこの女を族長にしてしまえば、混血どもが集まり、いずれ暴動を起こすかもしれん!」
ざわっ、と空気が揺れた。
「こんな危険な女を族長にしてはならない!」
別の席からも声が上がる。
「そうだ!」
「前例がない!」
「中枢を脅かす気か!」
広場のあちこちでざわめきが膨らんでいく。ヴァルアは眉をひそめ、小さくため息をついた。
(……またこれか。)
その時。
一般席の一角で、小さな影が立ち上がった。フードを深く被ったライアだった。小さな拳が震えている。レムがはっとして腕を掴む。
「ライア、だめ——」
バチッ。
空気が裂けた。次の瞬間。轟雷が一直線に天へ駆け上がる。眩い雷光が空を貫き、闘技場全体を白く染めた。
ドォォン——!!
遅れて響く雷鳴。観客たちが悲鳴を上げて顔を上げる。
ライアのフードが風で外れ、金色の髪が揺れる。小さな肩を震わせながら、ライアは叫んだ。
「ヴァル姉をわるくいうな!!」
誰一人、声を出せなかった。
高い声が会場に響いた。
観客席の最前列。
ライアが立ち上がっていた。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に叫ぶ。
「ヴァル姉、わるくない!!」
ざわめきが止まる。ライアは小さな拳を握りしめた。
「ぼく、かみなりだよ!まざってないよ!」
「でもヴァル姉、ぼくにごはんくれた!」
「いっしょにねてくれた!!」
「ぎゅーしてくれた!」
息を吸う。
「ヴァル姉、ぼくにおみずをかけたりしない!」
「ものなげたりしない!」
「わるいこと、しない!」
最後はほとんど泣き声だった。
「ヴァル姉をいじめるなぁぁ!!」
「ライア!」
ヴァルアが顔色を変える。
「雷を人前で撃つな!叫ぶな!喉痛めるし魔力切れるだろ!」
会場中が静まり返っているのに、叱る方向だけが完全にずれていた。ライアはしゃくり上げながら叫ぶ。
「でもヴァル姉がいじめられてた!やだぁあああ!!!」
ヴァルアは言葉を失った。
今まで見たことのないくらいの号泣。彼女は壇上から飛び降りるように駆け出した。今まで見たことがないほど、ライアが泣いていた。肩を震わせ、息もできないほどしゃくり上げている。ヴァルアは慌てて膝をつき、小さな体を抱き寄せた。
「いじめられてねぇから!大丈夫だから!なっ!」
頭を撫で、背をさする。
「ほら、見ろ。私元気だろ?」
無理に笑ってみせる。だがその笑顔を見た瞬間、レムの瞳から涙が溢れた。
「だって、ヴァル姉またひとりで我慢する……!」
トアもぽろぽろ泣き出す。
「ぼく、やだぁ……!」
ヴァルアは完全に慌てた。
「え、なんで増える!? ちょ、待て待て待て!」
三人を抱え込むように腕を回す。
広い闘技場に響くのは、子どもたちの泣き声だけだった。
静寂を破ったのは、要人席から立ち上がった一人の男だった。
エルキアの父――先代雷族長。
白銀の髪を揺らし、ゆっくりと壇上へ歩み出る。その姿に、雷の里の席が一斉に背筋を伸ばした。
「私は以前より報告を受けていた。」
低く、よく通る声。
「ヴァルア・セントフレアが、混血の子ども二人と、雷属性の純血の子ども一人を育てていることを。」
その言葉にエルキアは驚きの視線で己の父親を見つめた。
自分はヴァルアとの約束を守って報告していなかったのに、なぜ。
「息子は、報告したがらなかったのでな。こちらで調べさせてもらった」
エルキアの反応を見てフッと笑いながら付け加えられた。ライアが涙で濡れた顔を上げる。族長はまっすぐその子を見つめた。
「その子は、本来なら我が一族が守るべき子だった。」
重い沈黙。
「だが我らは守れなかった。」
雷の里の席に動揺が走る。族長は深く頭を下げた。
「ヴァルア・セントフレア。この場を借りて礼を申し上げる。我が同胞を保護し、血に関わらず家族として受け入れ、分け隔てなく愛情を注いでくれたことを。」
さらに深く頭を垂れる。
「雷の里を代表し、感謝する。」
その言葉に、会場の空気が変わった。ざわめきは起こらなかった。代わりに、人々はただ子どもたちを見つめていた。泣きじゃくるライア。その背を撫でるヴァルア。その腕にしがみつくレムとトア。そこにあったのは、混血でも純血でもなく、どこにでもいる家族の姿だった。
「血統が民を守るのではない。」
総統の声が広場へ落ちる。
「民を家族として抱きしめられる者が、民を守るのだ。」
そして低く告げた。
「誰がふさわしいか、示されたな。」
ヴァルアだけが青ざめた顔で呟いた。
「いや、全然示されてない。誰か助けて。」
総統が静かに杖を掲げた。
「中枢・氷・雷・光・炎、五者の支持が揃った以上――ヴァルア・セントフレアを、光と炎の族長として承認する。」
拍手が起こる。歓声も混じる。だが当の本人だけが、大きくため息をついた。
「……はぁ。」
レム、トア、ライアを連れたまま、ヴァルアはゆっくり壇上へ上がる。そして総統の前で立ち止まった。
「条件がある。」
広場が静まる。ヴァルアは子どもたちを見下ろし、そっと頭を撫でた。
「私だけは、父さんの養子として正式に登録されてる。でもレムとトアは、父さんの体調が悪くなって手続きが間に合わなかった。」
「ライアは、父さんが死んだ後に私が連れて帰った。」
小さな手を握り直す。
「だからこの子たちは、どこにも所属してない。」
ざわめきが消えた。ヴァルアはまっすぐ総統を見た。
「この子たちを、私の家族として正式に登録してほしい。そして、この子たちが年相応に学園へ通う権利をくれ。」
シヴェリアが息を呑む。ヴァルアは苦笑した。
「昔は、学園なんて必要ないと思ってた。私が教えれば十分だって。」
少しだけ視線を横へ向ける。
シヴェリア。
エルキア。
ルミナ。
カイゼル。
「でも、こいつらと出会って分かった。」
「世界って、思ってたよりずっと広い。」
「友達がいて、喧嘩して、笑って、知らないものを知って。」
「そういう場所を、私はこの子たちから奪いたくない。」
ライアがヴァルアの服をぎゅっと掴む。ヴァルアはその小さな手を包み込み、静かに言った。
「私一人の話なら、今すぐ帰ってた。だけど、この子たちが、その世界へ入る権利をもらえるなら——」
一度だけ会場を見渡す。
「族長でもなんでもやってやる。」
その声は大きくなかった。けれど、誰の耳にもはっきり届いた。その言葉が広場へ落ちた瞬間。しん、と会場が静まり返った。誰も拍手を忘れていた。誰も息をすることさえ忘れていた。その沈黙を破ったのは、小さな嗚咽だった。
「っ……。」
シヴェリアだった。
彼女は両手で口元を押さえ、肩を震わせている。涙が止まらなかった。ぽろぽろと零れ落ち、白い正装の袖を濡らしていく。エルキアが驚いて振り向いた。
「シヴェル……?」
返事ができない。胸が苦しかった。ヴァルアは今、族長の座を望んだのではない。権力を求めたのでもない。ただ、レムとトアとライアに「家族」という名前を与えてほしいと願った。ただ、学園へ通う権利を与えてほしいと願った。
それだけだった。シヴェリアの脳裏に、次々と過去が蘇る。
書斎で本を読む横顔。
苦い薬草茶に顔をしかめる姿。
「友達できたの初めてだから」と笑った声。
そして、血を流しながら子どもたちを庇った背中。
あの時、自分は何も知らなかった。ヴァルアがどれほど狭い世界に閉じ込められていたのか。どれほど多くを諦めて生きてきたのか。なのに今、彼女はその世界を広げたいと言った。子どもたちのために。自分が知った「友達のいる世界」を、あの子たちにも見せたいと言った。
堪えきれなかった。
「ヴァル……っ。」
名前を呼んだ瞬間、涙が溢れた。シヴェリアはとうとう膝をつき、顔を覆って泣き出した。要人席がざわめく。氷の里の重鎮たちでさえ、こんな彼女を見たことがない。エルキアが慌てて肩へ手を置く。
「お、おい、大丈夫か?」
シヴェリアは首を横に振った。
「だめ……っ。」
声が震える。
「うれしくて、だめ……。」
涙の向こうで、ヴァルアが呆れたように眉をひそめていた。
「なんでお前が泣くんだよ。」
そのいつもの調子が、余計に涙を誘う。シヴェリアは泣き笑いのまま叫んだ。
「だって……あなた、ずっと一人で頑張ってたじゃない……!」
広場の空気が揺れる。ヴァルアは困ったように頭をかいた。
「いや、今さら泣かれると困るんだけど。」
それでも、その声は少しだけ柔らかかった。シヴェリアは涙を拭いながら立ち上がる。そして胸を張って、会場全体へ向けて言った。
「私は、この人の友人であることを誇りに思います。」
その宣言に、再び静かな拍手が広がり始めた。総統はしばらくヴァルアを見つめていた。やがて静かに頷く。
「その条件、受理する。」
杖が石床を打つ。
「本日付で、レム、トア、ライアをヴァルア・セントフレアの家族として正式登録する。」
広場がどよめく。
「また三名に、学園への入学資格を与えよう。」
ライアが「がくえん?」と首を傾げ、レムとトアが顔を見合わせた。ヴァルアだけが呆然としていた。
「……マジで通った。」
「……ヴァル姉、これでほんとに家族?」
「最初から家族だろ。」
襲名式が幕を閉じた。




