重なる魔力
黒い瘴気が渦を巻く。
大型の狭間体の咆哮が空間を震わせた。
ヴァルアは片膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。
炎と光。二つの属性を同時に暴走寸前まで引き上げ、戦い続けた代償が、内側から体を焼いていた。
(あと一撃。)
(あと一撃で終わらせる。)
震える指で魔法陣を描く。だが、次の瞬間。フッと魔法陣から光が消えた。
「……っ。」
右手の炎が霧散する。続いて左手の光も掻き消えた。視界が大きく揺れる。魔力が足りない。胸の奥がぎゅっと潰されるように痛んだ。
「くそ……!」
ヴァルアが歯を食いしばる。
「計算をミスった……!」
普段は細心の注意をして調整している魔力残量の見積もりを誤った。普段ならこんなミスはしない。疲労。出血。内臓への負荷。全部が積み重なり、最後の瞬間に均衡が崩れ、制御の効かない自分の体を恨んだ。大型個体がゆっくりとこちらを見下ろす。黒い瘴気が槍となって収束していく。大きな攻撃が来る。
(最悪だ。)
(このタイミングで……!)
立ち上がろうとしても足に力が入らない。死を覚悟した、その瞬間。
ぱきん。
どこかで小さな音がして空間が裂ける。淡い氷色の魔法陣が足元へ広がった。
「ヴァル!!」
聞き慣れた声と見慣れた美しい青髪。ここには絶対いるはずのない人物にヴァルアが目を見開く。
「……シヴェル!?」
転送陣から飛び出してきたシヴェリアは、息を切らしながら彼女の前へ膝をついた。手には小型の転送装置。ヴァルアが子どもたちの緊急避難用に完成させた簡易転送装置だった。
「お前、なんでここに——」
「黙って!」
シヴェリアの声が震えている。恐怖で顔色は真っ白だった。それでも逃げなかった。彼女は驚きで固まるヴァルアの両手を強く掴む。冷たい指先。魔力回路を直接接続する、簡易的な供給術式。学園で習った基礎術式だったが、実戦で他人に使うのは初めてだった。シヴェリアが術式を完成させた次の瞬間、膨大な魔力が流れ込んできた。
「っ……!」
ヴァルアの体が跳ねる。氷のように澄んだ魔力。途切れかけていた回路へ、一気に力が満ちていく。シヴェリアは歯を食いしばった。
「私……!」
声が掠れる。でも、笑う。
「魔力だけなら、あなたより上だって自信があるわ!」
震える手。汗で濡れた額。それでも魔力供給は止まらない。ヴァルアは呆然と彼女を見る。以前、焚き火の前でジルに言われた言葉が脳裏をよぎった。
『お前、二属性魔法を同時に使う時、魔力切れになるの早くないか?』
その弱点を、何気なく話したことをシヴェリアは覚えていた。理解していた。そして今、命懸けで埋めに来ている。ヴァルアの口元が震える。
「お前……。」
再び周囲に炎が灯り、光が戻る。魔法陣が完全に再構築される。ヴァルアは笑った。戦場では滅多に見せない、心の底からの笑顔だった。
「お前……最高だよ!!!!」
轟ッ!!
炎と光が同時に爆発した。二人の魔力が重なり合い、巨大な魔法陣が空を覆う。大型個体が咆哮する。だがもう、ヴァルアの瞳に迷いはなかった。
「これで、終わりだ!!!!」
ヴァルアの声と共に巨大な魔法陣から幾重もの光の槍が降り注ぐ。
「壊れろ!!!!!」
バリン!!!光の槍が狭間核へ突き刺さり、大きな音を立てて割れた。それと同時に黒い巨体が崩れ落ちた。狭間体の瘴気が霧のように散った。大型個体が現れた亀裂も光と共にゆっくりと閉じてゆき、轟音がゆっくり遠ざかり静寂が訪れる。周りを蠢いていた狭間体たちも大型の個体が崩れると同時に霧散した。
誰もすぐには動けなかった。ヴァルアは剣を地面へ突き立て、大きく息を吐く。
「……終わった、か。」
シヴェリアが祈るように重ねていた手を離した。
「勝った……?」
エルキアが呆然と雲が晴れた空を見上げる。
「マジで倒したのか……。」
後方からは遅れて歓声が広がる。
ヴァルアはようやく肩の力を抜き、ふらりとその場へ腰を下ろした。シヴェリアも崩れるようにその場に膝をついた。
「はー……疲れた。」
ヴァルア空を見上げてつぶやいたその瞬間。ごほっと小さな咳。ヴァルアが片手で口元を押さえた次の瞬間、掌に赤が滲んだ。
「あ、やべ。」
あまりにも気軽な声だった。
彼女は慣れた手つきで袖口で口元を拭う。シヴェリアは驚いて顔をヴァルアに向ける。
「まぁ、流石にちょっと使いすぎたか——」
言い終わる前に、どっと鮮血が零れ落ちた。地面へ赤い雫が散る。シヴェリアの顔色が変わった。
「……ヴァル?」
ヴァルアはまだ平気そうに笑おうとする。
「大丈夫大丈夫、これたまに——」
「大丈夫なわけないでしょ!!!」
シヴェリアが叫ぶ。
血を吐く姉に衝撃を受けて今にも叫び出しそうな子どもたちをエルキアは強く抱きしめた。
「おい!医療班!!急げ!!」
周囲の兵士たちも凍りついている。
ヴァルアだけが困ったように眉を下げた。
「そんな騒ぐなって……心配しなくて大丈夫だか、ら……」
その言葉を最後に、彼女の身体がぐらりと傾いた。
「ヴァル!!」
シヴェリアが抱き止める。歓声で満ちていた戦場は、一瞬で静まり返っていた。ヴァルアの呼吸は浅い。シヴェリアの手に温かい血が広がっていく。
「しっかりして、ヴァル!ねぇ、返事して!」
「ヴァル姉!!!やだよ!!!」
駆け寄ってきたレムたちが泣き叫ぶ。
だがヴァルアの瞼は閉じたままだ。医療班が駆け寄ろうとした、その時。
「ヴァル!!」
風を切る音と共に、黒衣の青年が戦場へ飛び込んできた。
ジルベルトだった。シヴェリアが振り返る。
「ジルベルト様!ヴァルが、血を吐いて……!」
息を切らしながら駆け寄ったジルベルトは、ヴァルアの顔色と口元の血痕を見た瞬間、小さく眉を寄せた。
「……ここまでの長期戦だ。いくらこいつでも、魔力配分を誤るか。」
無茶しやがって…と続けるその声は驚くほど冷静だった。シヴェリアが愕然とする。
「え……?」
ジルベルトはしゃがみ込み、慣れた手つきでヴァルアの脈を取る。
「ジルベルト様、そんな……!もっと急がないと——」
「急ぐ。」
短く答えながらも、彼の動きに取り乱した様子はない。シヴェリアは戸惑った。
「驚かれないのですか……?」
ジルの手が一瞬だけ止まる。
そして彼は困ったように、どこか悲しそうに笑った。
「……何度か同じ状態見たことあるから。」
その一言に、シヴェリアの胸が締めつけられた。
何度か。つまりこれは初めてではない。ヴァルアは昔から、こうして限界まで戦い、血を吐いて、それでも『平気』と笑ってきたのだ。ジルベルトはそっとヴァルアの髪を払う。
「ったく……昔から変わんねぇな、お前は。」
呆れたような声音。けれどその奥に滲む痛みを、シヴェリアは聞き逃さなかった。自分が出会うずっと前から、この人はヴァルアの無茶を見続けてきた。止められないまま、何度も。
ジルベルトはそっとヴァルアを抱き上げた。
軽い。あまりにも軽かった。
血に濡れた銀髪が彼の腕から垂れ、規則正しく上下している胸だけが、かろうじて彼女が生きていることを示していた。
「医療棟へ運ぶ。道を開けろ。」
低い声。
先ほどまでの“傭兵団のジル”とは違う響きだった。
シヴェリアとエルキアは反射的に立ち上がり道を開けた。
「ジルベルト様、お召し物が汚れます!他のものが運びま…」
「構わない。私が運ぶ。」
彼の纏う空気がその場にいた全員を緊張させた。黒衣を翻し、真っ直ぐ前を向く姿は、中枢狭間管理一族レイグラン家の嫡男そのものだった。
ジルは何も答えず、ただ静かに歩き始めた。
戦場だった場所を。
崩れた地面を。
倒れた魔物の残骸の間を。
兵士たちが次々と道を開けていく。
「ジルベルト様だ……。」
「中枢の嫡男が、なんでここに……。」
「抱えてる女、誰だ?」
「あの銀髪……まさか。」
普段の軽薄そうな青年を知る者ほど、その変化に息を呑んだ。誰も不用意に近づけない。戦場の喧騒が、彼の周囲だけ不自然なほど静まり返っていた。
シヴェリアとエルキアは涙を流してる震える子どもたちと共に数歩遅れて後を追う。ジルベルトの背中は広く、そしてひどく遠く見えた。
(この人……。)
ヴァルアが語らなかった時間。
血を吐き倒れる姿を『何度か見たことがある』と言った男。その重みが今、ようやく実感として胸へ落ちてくる兵士の一人が恐る恐る口を開いた。
「ジルベルト様、その者は……?」
ジルは足を止めなかった。
ただ一度だけ視線を向け、静かに告げる。
「——この者が、今回の戦いを終わらせた。」
その一言は、戦場全体へ落とされた鐘のようだった。ざわめきが止まり。誰も言葉を返せない。戦場にいた皆が目撃した美しく巨大な魔法陣を作った少女。血に濡れ、意識を失った少女。彼女こそが狭間を閉じ、皆を生かした張本人。兵士たちは次々と頭を下げ始めた。
「……敬礼。」
誰かが小さく呟く。
その声が広がり、一斉に胸へ拳が当てられる。
ジルベルトはそれを振り返らない。
ただヴァルアを抱えたまま、まっすぐ医療棟への道を進んでいった。シヴェリアは唇を噛み、涙を拭う。
英雄としてではなく。
一人の少女として。
ようやく、この世界がヴァルアを迎え入れ始めている——そう感じながら。
静かな音を立てて医療棟の扉が閉まる。
中へ運ばれていくヴァルアの姿を見届けたあとも、ジルベルトはしばらくその場から動かなかった。同じくヴァルアの姿を見届けホッとするシヴェリアたちを持ち場に帰すと、部屋の外に配置されていた長椅子へ腰掛けた。
廊下には消毒薬の匂いが漂い、遠くで術師たちの慌ただしい声が響いている。
「……ったく。」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、団長が呆れた顔で腕を組んで立っていた。
「お前、威圧しすぎだ。」
ジルベルトは眉をひそめる。
「は?」
「戦場の兵士ども、完全に凍ってたぞ。」
団長は肩をすくめた。
「“中枢狭間管理一族レイグラン家嫡男”の顔なんざ、そうそう見られるもんじゃねぇからな。」
ジルベルトは小さく息を吐いた。
「……別に脅すつもりはなかった。」
「ならもう少し肩の力抜け。あの空気で真っ直ぐ歩いてくるから、こっちまで緊張したわ。」
ようやくジルベルトの口元がわずかに緩む。だがそれも一瞬だった。視線は再び閉ざされた救護室の扉へ戻る。団長がその横顔を見て、ふっと表情を和らげた。
「心配か。」
「当たり前だろ。」
即答だった。ジルベルトの心境を察して団長は静かに頷く。
「今回は仕方ねぇ。お前は中枢側の人間だ。嫡男を前線へ出す許可なんざ降りるわけがない。」
ジルベルトは拳を握った。分かっている。
狭間管理一族の嫡男である以上、自分が前線へ出ることは許されない。それが自分の役目であり、頭では理解していた。それなのに。
(何もできなかった。)
ヴァルアが血を吐き、意識を失った瞬間。自分はそこにいなかった。支えることも、魔力を渡すことも、肩を貸すことすらできなかった。その事実が胸の奥がじりじりと焼いた。ジルベルトはその感覚に眉をひそめた。
(……なんだ、これ。)
苛立ち。焦燥。悔しさ。
そんな感情が、自分の中にこんなにも強くあることに驚いていた。中枢で育った彼は、常に理性を優先してきた。感情より判断。動揺より計算。それが当然の世界だった。
だが今は違う。
「……俺、こんなに腹立ってたのか。」
思わず漏れた独り言に、団長がちらりと視線を向け穏やかに笑う。
「やっと自覚したか。」
「自覚?」
「お前、あいつのことになると昔から分かりやすい。」
ジルベルトは顔をしかめた。
「そういう意味じゃねぇ。」
「分かってるよ。」
団長は苦笑する。
「恋だの愛だのじゃねぇ。“守りたいのに守れなかった”って顔だ。」
その言葉が妙に胸へ刺さった。ジルはしばらく黙り込み、やがて小さく息を吐く。
「……次は、絶対に間に合う。」
団長はそれ以上何も言わなかった。ただ隣に立ち、静かに救護室の扉を見つめ続けた。
戦いが終わり半日経った頃。ヴァルアは薄く目を開ける。
最初に見えたのは白い天井だった。鼻をくすぐる薬草の匂い。遠くで誰かが話している声。身体は鉛のように重い。
(……生きてる。)
ゆっくり視線を横へ向ける。椅子に腰掛けたジルベルトがいた。肘をつき、組んだ指へ額を預けたまま眠っている。乱れた黒緑の髪が影を落とし、普段の軽薄そうな笑みはどこにもなかった。ヴァルアが小さく身じろぎした瞬間、ジルベルトがはっと顔を上げる。深緑の瞳がこちらを捉えた。
「……起きたか、この馬鹿たれ。」
掠れた声。疲労が色濃く残るが安心しきった顔。ヴァルアは眉をひそめる。
「うるさい……。」
喉が焼けるように痛い。ゴホッと咳き込むとジルベルトは水差しを取り、慎重にコップへ注いだ。
「飲め。」
ジルベルトに支えられてゆっくり体を起こすと少しだけ水を含む。冷たさが喉へ落ちていき、ようやく息がつけた。ジルベルトはコップを受け取ると、しばらく視線を落としたまま動かない。少しの沈黙の後、やがてぽつりと呟いた。
「……今回、近くにいられなくてすまなかった。」
ヴァルアが瞬きをする。ジルは戦場にいなかった。
けれど、きっと裏で補給や転送、救護の手配に走り回っていたのだろう。彼がそういう役回りを黙って引き受ける人間だと、ヴァルアはもう知っていた。だから軽く肩をすくめる。
「別にいいよ。」
「……。」
「お前も大変だったんだろ?」
ジルが苦く笑う。
「まぁな。」
短い返事。けれどその声には、妙な疲れが滲んでいた。ヴァルアはぼんやり天井を見上げる。
「シヴェルたち、無事?」
「無事。お前が倒れたあと、帰宅命令が出た。彼女は子どもたちを送り届けてから帰宅すると言っていた。」
「そっか。」
大切な人たちの安全を確認できて少し安心し目を閉じる。その横顔を見ながら、ジルは小さく息を吐いた。
「……ほんと、毎回毎回無茶しやがって。」
「褒め言葉?」
「呆れてんだよ。」
ヴァルアがかすかに笑う。
「でも勝っただろ。」
ジルは答えなかった。勝った。確かに狭間の亀裂は閉じた。だが、その代償に彼女が血を吐き、意識を失う姿を見た。
——あと少し遅ければ。
そんな想像が頭をよぎり、ジルベルトは拳を握る。ヴァルアが薄く目を開けた。
「……なんか怒ってる?」
「怒ってねぇ。」
即答するジルベルトにヴァルアは即答で返した。
「嘘つけ。」
ジルは困ったように眉を下げた。
「お前、自分がどれだけ人を心配させてるか分かってないだろ。」
ヴァルアは少し考えてから答える。
「まぁ、たまに言われる。」
「たまにじゃねぇ。常にだ。」
また沈黙が落ちる。
ヴァルアは重い瞼を閉じながら、小さく呟く。
「……ジル。」
「ん?」
「いてくれて、ありがと。」
その一言に、ジルの肩がぴくりと震えた。彼は視線を逸らし、ぶっきらぼうに返す。
「寝ろ。」
「へいへい。」
いつものするような雑な返事を最後に、ヴァルアの呼吸がゆっくり深くなる。再び眠りに落ちたことを確認してから、ジルはそっとその額へかかった銀髪を払いのけた。
「……生きててくれて、ありがとな。」
誰にも聞こえない声だけが、静かな医療室へ溶けていった。




