希望と絶望
後退は思うように進まなかった。
狭間から湧き出る黒い影は一向に減らない。
「西側壕、満員です!」
「負傷者搬送が追いつきません!」
「北壁崩落寸前!」
怒号が重なり、兵士たちが走り回る。
本来なら子どもたちを安全圏まで護送する人員を割くべきだった。しかし、今は一人でも前線を離せば防衛線そのものが崩れる。シヴェリアは歯を食いしばり片手には魔法陣を展開したままレムたちを背に庇う。
「私から離れないで。」
「う、うん。」
レムが強く頷いた。
トアは震える手でレムの服を掴み、ライアは唇を噛みしめて周囲を睨んでいる。
怖いはずなのに、泣き叫ばない。じっと前線を見つめ、シヴェリアたちの指示に従っていた。子どもたちにはヴァルアに何度も叩き込まれた言葉が頭にあるのだ。
——怖くても立て。
——パニックになるな。
——まず周りを見ろ。
シヴェリアは胸が痛んだ。
(こんな小さな子たちに、そんなことを覚えさせるほど……。)
「ジヴェル姉。」
レムが小さな声で言う。
「ヴァル姉、絶対迎えに来るよね。」
シヴェリアは迷わず答えた。
「来る。だから私たちも、ヴァルが来る場所までちゃんと生きて行くの。」
三人が小さく頷いたその時だった。
——ゴォォォンッ!!
今までとは桁違いの爆音が戦場を揺らした。
地面が跳ね上がり、空気が震える。シヴェリアは反射的に振り返った。前線の向こうで黒い瘴気の壁が空へ噴き上がっている。
「な……。」
息が止まる。
そこに現れたのは、これまで戦っていた狭間体とは比べものにならない巨大な影だった。
塔のような四肢。
裂けた空のように開いた口。
全身を覆う黒い瘴気が雲のように渦巻き、周囲の小型個体が引き寄せられるように集まっていく。
兵士たちの顔から血の気が引いた。
「大型の個体……!?」
「記録にないぞ!」
「狭間体にこんな規模の個体がいるなんて——」
誰かが悲鳴を上げる。その巨体が一歩踏み出した瞬間、大地が沈んだ。子どもたちが悲鳴をあげ、地面に縮こまる。シヴェリアは巨体を見つめたまた凍りついて動けなかった。そして、その怪物の真正面に立つ銀髪が目に入る。
ヴァルアだけが一歩も退いていない。
炎と光を纏った剣を握り締め、巨大な狭間を見上げている。次の瞬間、ヴァルアの声が戦場全体へ響いた。
「総員、対大型陣形へ移行!」
恐怖で固まりかけていた兵士たちが、はっと顔を上げる。
「第四隊、右翼展開!」
「第七隊、退路確保!」
「結界班、私の合図まで魔力温存!」
怒号ではない。命令だった。
そして誰もが、その声に従い、前線の部隊は息を吹き返した。シヴェリアは呆然とその背中を見つめる。巨大な絶望を前にしてなお、彼女は一人で戦場を立て直していた。
同じ頃。
中枢本部・中央司令室では、壁一面の監視結晶が赤く点滅していた。
『大型個体確認!』
『北東防衛線崩壊寸前!』
『傭兵団、交戦継続中!』
怒号が飛び交う中、ジルベルトは机へ拳を叩きつけた。
「俺を出せ。」
室内が静まり返る。老補佐官が厳しい顔で首を振った。
「なりません。」
「ふざけるな!」
ジルベルトの声が荒れる。
「前線は人手不足なんだろ! 俺が行けば——」
「ジルベルト様。」
今度は総統直属の近衛長が低く遮った。
「あなたは中枢管理一族のご嫡男です。」
「分かってる……」
「中枢の指揮系統を維持する者まで失えば、前線への補給も命令系統も止まります。」
「分かってる!!!!」
その言葉に、ジルベルトの表情が歪んだ。
監視結晶の一つには、炎と光を纏って戦う銀髪が映っている。ヴァルアが血を流しながら、巨大な瘴気へ向かっていた。風属性の自分なら、彼女の炎の追い風になれる。いつもそうしてきた。
「……あいつは行ってる。」
絞り出すような声。
「俺より年下で、怪我だらけで、それでも前に立ってる。」
誰も答えない。ジルベルトは唇を噛みしめた。
——こんな時に出られない自分が、たまらなく嫌だった。
「肩書きなんか捨てられたら……。」
拳が震える。だが命令権限は奪われ、近衛兵が扉を塞いでいる。ジルベルトは結晶へ手を伸ばした。触れられない距離にいる銀髪へ。
「死ぬなよ……。」
それだけを呟いた。
⸻
前線。
大型個体の出現で生じた混乱は、ヴァルアの指揮によって辛うじて統制を取り戻しつつあった。
「右翼、距離を取れ!」
「左翼、結界重ねろ!」
兵士たちが動き始める。だが次の瞬間。大型個体が咆哮した。
——ゴォォォォッ!!
空気が震え、大地が跳ね上がる。
巨大な前脚が地面を叩きつけた瞬間、衝撃波が防衛線を薙ぎ払った。
「うわぁっ!」
兵士が吹き飛び、結界が砕ける。
立て直しかけていた陣形が再び崩壊した。
シヴェリアは咄嗟にレムたちを抱き寄せ、氷の結界を展開する。
「伏せて!」
透明な氷壁が四人を包み込み、飛来した瓦礫を受け止めた。外では土煙が渦巻き、視界がほとんど利かない。レムが震える声で呟く。
「ヴァル姉……。」
シヴェリアは氷越しに戦場を睨み、銀髪を探す。
土煙の中心で、ヴァルアだけが立っている。その時、後方から誰かが転がり込むように飛び込んできた。
「シヴェル!」
エルキアだった。
鎧は裂け、肩から血が流れている。
「エル!」
「雷部隊が初撃でやられた……! 後退中だ!」
息を荒げながらも、彼はシヴェリアたちの前へ立った。
「子どもたちは無事か。」
「なんとか。」
エルキアは雷槍を再展開し、前線を睨む。
その視線の先で、ヴァルアがゆっくり剣を掲げた。
「全隊、聞け!」
戦場全体へ声が響く。
ヴァルアの足元から巨大な魔法陣が広がり始めた。
炎の紋様。
光の紋様。
二つの属性陣が重なり合い、空間そのものを染め上げていく。兵士たちが息を呑んだ。
「密集するな!」
ヴァルアが叫ぶ。
「群れると思う壺だ!」
彼女は大型個体を睨み据える。
「各隊、距離を保ったまま支援に徹しろ!」
風が逆巻くほどの魔力が集まる。
ヴァルアの銀髪が激しく揺れた。
「——こいつは私が仕留める。」
その宣言と同時に、魔法陣が空へ向かって一気に展開し、戦場が昼のように白く染まる。シヴェリアは氷壁の中からその光景を見つめ、息を止めた。
あまりにも巨大な魔力。
人が放つものとは思えないほどの圧力。
それでもヴァルアは一歩も退いていなかった。
ヴァルアは両手を広げた。
空間が軋み、炎と光が渦を巻き、その中心からゆっくりと一本の大剣が顕現する。彼女の身体よりなお大きい銀黒の刃。刃紋には赤金の光が脈打ち、振るうたび空気が焼けた。同時に、周囲へ複数の巨大魔法陣が展開される。
頭上。
左右。
背後。
炎の陣、光の陣、それらが幾重にも重なり合い、星座のように空へ広がっていく。
放たれる閃光。
降り注ぐ炎槍。
迎え撃つ黒い瘴気。
光と炎が混ざり合う魔法陣群を見上げ、誰かが呆然と呟いた。
「……なんて綺麗なんだ。」
そして大剣が空を裂く。
振り下ろされた刃に合わせ、頭上の魔法陣が一斉に起動した。
「——撃て!」
号令と同時に、支援部隊の魔術が解き放たれる。炎槍が雨のように降り注ぎ、光の矢が軌道を歪めながら大型個体の関節部へ突き刺さる。ヴァルアはその中心を駆け抜けた。地面を蹴るたびに魔法陣が足元で展開し、彼女の動きそのものが術式の一部となる。
「左脚、硬化反応! 光術、集中!」
「了解!」
ヴァルアの指示に即座に光が収束する。ヴァルアはその隙間へ滑り込むように踏み込み、大剣を横薙ぎに振るった。
ギィンッ!!
金属を引き裂くような音。黒い外殻に深い亀裂が走る。
「効いてる……!」
誰かが息を呑む。しかしヴァルアは返事をしない。ただ次の魔法陣を展開する。
三重展開。
四重展開。
炎と光が幾何学模様のように重なり、戦場そのものが彼女の術式へと変わっていく。
「右側面、抑えろ!」
「魔力流、ヴァルア殿に接続維持!」
「崩すな!今押してる!」
兵士たちの声が揃う。なんとかしてヴァルアに補助魔法を届かせようと誰もが必死だ。一瞬だけ、戦場が“勝てる形”に見えた。ヴァルアは息を吐く。
(このまま押し切る……!)
大剣を握る手にさらに力を込めた、その時だった。
大型個体の巨体が、ぴたりと止まった。ヴァルアの剣先が黒い外殻へ深々と食い込み、炎と光が内部を焼き続けている。兵士たちの表情に、わずかな希望が宿る。
「押してる……!」
「このまま——!」
その瞬間だった。
大型個体の胸部が、不気味に脈打った。
どくん。
黒い瘴気が一点へ収束する。ヴァルアの瞳が見開かれた。
「全員、散開しろ!!」
叫びと同時に、彼女は大剣を引き抜いて跳び退いた。
間に合わない。
——ギィィィィィン!!
耳を裂くような高音。次の瞬間、黒い波動が球状に爆ぜた。轟ッ!!!という音と共に空気そのものが押し潰される。地面がめくれ上がり、支援陣の魔法陣が一斉に砕け散った。
「うわああっ!!」
光術師が吹き飛ぶ。
炎術師の列が崩れる。
氷結界が黒い波に触れた瞬間、硝子のように粉砕された。
シヴェリアは遠くからその光景を見て、息を呑む。
「支援部隊が……!」
衝撃波が戦場を薙ぎ払い、土煙が壁のように立ち上ったヴァルアは剣を地面へ突き立て、両足で踏ん張る。それでも数歩、強引に押し戻された。
「っ……!」
足元の岩盤が砕ける。
背後で、魔力接続の光が次々と消えていった。一本。また一本と。最後の光が途切れ、残ったのは大型個体の低い唸り声だけだった。土煙の向こうから、負傷した兵士たちの呻き声が聞こえる。
「第二区画壊滅……!」
「光術師、半数戦闘不能!」
「支援線が切れた!」
誰かの絶望した声。
ヴァルアはゆっくり振り返った。支援陣は崩壊、もう、先ほどのような連携火力は望めない。大型個体が一歩踏み出すと大地が沈み、黒い瘴気が津波のように押し寄せる。ヴァルアは荒い息を吐き、剣を握り直した。炎と光の魔法陣が再び浮かび上がる。だが、今度は彼女の後方支援は誰もいない。完全な単独戦闘だった。
「……上等。」
ヴァルアは後方を振り返った。
そこには負傷した兵士と、避難しきれていない人々がいる。退けば、あの怪物はそのまま後方へ抜ける。血の混じった息を吐きながら、ヴァルアは笑う。
「最初から、一人でやる覚悟くらいしてる。」
その言葉と同時に、炎が再び燃え上がった。ヴァルアは巨大個体へ向かって踏み込む。炎陣と光陣。幾重にも重なった魔法陣が空を覆い、刃の軌跡に合わせて閃光が走る。シヴェリアは氷壁の内側から、その光景を見つめていた。
——綺麗。
恐ろしいはずなのに、目を離せない。だが次の瞬間、微かな違和感に彼女の呼吸が止まる。
「……違う。」
魔法陣の縁。本来なら寸分の狂いもなく噛み合っていた紋様が、じり、と歪んだ。
一枚。
また一枚。
線が微かに揺れている。
「魔法陣が……乱れてる……。」
隣のエルキアも目を細めた。
「おい、シヴェル……あいつ、まさか魔力が——」
その言葉で、シヴェリアの脳裏にある夜の記憶が蘇る。
『短時間で決められないと、だんだん精度落ちるし、魔力の配分ミスの危険性もある。』
ヴァルアが苦笑しながら話していた声。シヴェリアの顔色が変わり、呼吸が浅くなる。
「……魔力が……!!」
今のヴァルアは、限界まで二属性を同時展開し続けている。乱れ始めた魔法陣は、その限界の兆候だった。エルキアが舌打ちする。
「くそっ……!」
だが距離が遠すぎる。大型個体の瘴気が壁のように渦巻き、誰も近づけない。
「どうすれば、ヴァルの近くに行ける……?」
シヴェリアそう呟きながら一歩踏み出しかけた、その時。
「ヴァル姉の近くに行けば、助けられる……?」
小さな声に振り返ると、レムが震える手を差し出した。
手の上では銀色の輪が淡く光っている。見覚えのあるそれにシヴェリアの瞳が見開かれた。
『それ、何?』
『子どもたち用。』
書斎で、ヴァルアが子どもたちのために作っていたもの。
レムは唇を噛みしめながら続ける。
「これ、ヴァル姉が“本当に危ない時だけ使え”って……。」
内側に光る微かな魔法陣。
「…転送装置…!!!」
シヴェリアの胸が大きく脈打つ。エルキアも即座に理解した。そしてシヴェルの肩を掴む。
「シヴェル。」
彼は雷槍を握り直し、子どもたちの前へ立つ。バチバチと雷槍が唸る。
「子どもたちには俺がついてる!!」
轟音が響く。遠くでヴァルアの魔法陣がさらに乱れる。
エルキアが叫んだ。
「この場で、一番魔力量が多いのは間違いなくお前だ!!」
掴まれたシヴェリアの肩が震える。自分が行けばヴァルアを助けられるかもしれない。でも、怖い。失敗したら?前線へ飛び込めば死ぬかもしれない。だが——。
『怖くても立て。』
いつかヴァルアが子どもたちに言っていた言葉が、なぜか自分の胸に浮かんだ。シヴェリアは震える手を握りしめた。
(そうだ。)
(私も、怖いからってここにいるんじゃない。)
「迷うな!!!行け!!!!」
エルキアのその一喝が背中を押した。
シヴェリアはレムから転送装置を受け取る。銀色の輪が掌の中で熱を帯びた。彼女はヴァルアを見た。炎の中で戦う銀髪。魔法陣はもう、明らかに崩れ始めている。
「……今行くわ、ヴァル。」
シヴェリアは装置へ魔力を流し込んだ。
氷色の光が爆発的に広がり、足元へ転送陣が咲くき、風が巻き起こる。レムが泣きそうな顔で叫んだ。
「シヴェル姉、ヴァル姉をお願い!!」
シヴェリアは強く頷いた。
次の瞬間、氷色の光が彼女の身体を包み込み、戦場へ向かって弾け飛んだ。




