悪意
狭間暴走から八日目の朝。
結界の家には重たい静けさが漂っていた。
シヴェリアはこの数日、自分の任務と結界の家を行き来する生活を続けていた。
前線へ出ることは未だ許されていない。
学生に与えられる任務は、負傷者の手当て、物資運搬、結界維持の補助、そして後方へ漏れてきた瘴気の討伐程度だ。エルキアは雷属性の直属部隊へ編入され、中衛線へ出ている。ここ数日は結界の家へ顔を出す余裕もないらしかった。
もちろん後方任務も危険だ。
それでも、ヴァルアが立っている場所とは比べものにならない。最前線で瘴気の奔流を押し返し続けている傭兵団。
その中心にヴァルアがいる。
召集された際に遠くで戦うヴァルアが見えることはあるが、できることは何もなかった。その事実を知ってしまった今、シヴェリアは自分の疲労など疲労と呼ぶ気にもなれなかった。戦いが一週間を超える頃には、各所の役割分担もはっきりしてきていた。
最前線——ヴァルアたち傭兵団。
中衛——正規兵。
後方補助と漏出瘴気の処理——シヴェリアを含む学園の実力者たち。
シヴェリアは朝の任務を終えると、まっすぐ結界の家へ向かった。
扉を開けた瞬間、空気が違うとわかった。
レムが台所で俯いている。トアは目を真っ赤にして唇を噛み、ライアは毛布を抱きしめていた。
「おはよう。」
努めて明るく声をかける。返事は小さい。そして次の瞬間。
「……ヴァル姉、帰ってこない。」
トアがぽろりと涙を落とした。
それを合図にしたようにライアも泣き出す。
「やだ……やだぁ……。」
レムだけは泣くまいと必死に耐えていた。溢れそうな涙をいっぱいに溜めて震える声で呟く。
「ヴァル姉、約束破ったりしないよね……?」
シヴェリアの胸が締めつけられる。
八日は大人にとっては短くても、子どもにとっては永遠のような時間だ。シヴェリアは三人を抱き寄せた。
「大丈夫。ヴァルは必ず帰ってくる。」
そう言いながら、自分自身にも言い聞かせる。
その時だった。
——ピィン。
澄んだ音が家の奥から響き、シヴェリアは顔を上げた。
外周結界が来訪者を感知した時だけ鳴る警告音。レムが涙を拭って立ち上がる。
「誰か来た……?」
続いて、壁に刻まれた魔法陣が淡く光り始めた。
外門に人影があることを示している。シヴェリアの背筋に緊張が走る。こんな時期に結界を訪れる者など限られている。ヴァルアなら自分で入って来れる。
それなら、いったい誰が—。
シヴェリアは子どもたちを背に庇うように立ち、ゆっくりと結界の入口へ視線を向けた。結界の向こうに、誰かが立っていた。
「シヴェリア様はいらっしゃいますか。中枢からの緊急伝令でございます。」
結界の外に立っていたのは、灰色の外套を纏った中年の男だった。胸元には中枢補助局の紋章。ただ紋章を付けているだけではない。外套の縁には氷の里への正式連絡に用いられる銀糸の刺繍まで施されていた。
「伝令……?」
レムに結界の入り口を開けてもらい、シヴェリアだけが結界の外に出た。シヴェリアはなおも警戒したまま問いかける。
「なぜこの場所へ?」
男は一礼する。
「前線司令部より所在を伺って参りました。各里の族長候補へ緊急召集が出ております。」
淡々とした口調で慌てる様子がない。
男は懐から封蝋付きの薄い書簡を取り出した。書簡に対して結界の外周に刻まれた魔法陣が淡く反応した。
そこには氷の里の紋章。そして父の署名を模した筆跡。それを見たシヴェリアの瞳がわずかに揺れる。
「お父様から……?」
「はい。前線の結界維持班で人員不足が発生しております。シヴェリア様には至急応援へ向かっていただきたいとのことです。」
そこまで言ってから、男は周囲を見回した。
「エルキア様はこちらにはいらっしゃらないですか?」
「エルキアはここにはおりません。」
「承知しました。では、シヴェリア様のみでも急ぎお願いしたく存じます。」
男の言葉と共に小さい転送魔法陣が目の前に現れた。書簡に押された封蝋は本物にしか見えない。ヴァルアの結界も反応したことから、不審な魔力は込められていないことも分かる。これだけ揃っていれば、疑う理由はなかった。父からの招集がかかるほどだ、前線の状況が変わった可能性もある。
「シヴェル姉、私たちは大丈夫…頑張るからシヴェル姉も頑張って。」
状況を結界の中から見ていたレムが顔を出した。後ろには不安そうなトアとライアがレムの袖を掴んで様子を見ていた。迷うシヴェリアに対してレムが涙目で笑う。
「…ありがとう、レム。」
男に促され、シヴェリアは転送魔法陣の縁へ足を踏み入れた。淡い光が足元から立ち上る。
「では、急ぎましょう。」
男が静かに告げる。シヴェリアは振り返った。
「すぐ戻るわ。結界を——」
その瞬間。
魔法陣が眩しく光った。同時に——ピシリ、と床を走るような音。シヴェリアの足元に展開していた円陣が、外側へ一気に広がった。
「え……?」
魔法陣の光がまるで生き物のように居間の床を這い、レムたちの足元まで到達する。レムが目を見開いた。
「シヴェル姉、これ——」
「下がって!」
シヴェリアが叫ぶ。だが遅かった。
光の輪が三人を包み込む。
「わぁっ!」
トアの悲鳴。レムが二人を抱きしめ、シヴェリアへ手を伸ばした。
「シヴェル姉!」
シヴェリアは魔法陣の縁を蹴り、子どもたちの方へ飛び出そうとした。しかし転送魔法陣とは別の魔法陣が重なって光り、足が床へ縫い付けられたように動かない。強い重力がかかり立っていられない。
結界の外に立つ男だけが、一歩後ろへ下がっていた。
その口元がわずかに歪むのが目に入る。
次の瞬間、白い光が世界を呑み込んだ。
「穢らわしい混血も、それに肩入れする娘も、まとめて狭間に消えればいい。」
転送先が安全な後方ではないことなど、男は最初から知っていた。彼が用意した転送先は、狭間の発生区域——前線のすぐ後方だった。
転送の光が消え、今まで穏やかな森だった周囲の空気がガラリと変わる。熱風、焦げた匂い、轟音。
シヴェリアは息を呑んだ。明らかに前線だった。震える子どもたちに駆け寄り抱きしめる。防衛線のすぐ後方。土煙の向こうで兵士たちが怒号を飛ばし、結界が軋む音が響いている。
「ここ……どこ……!?」
トアが震える声を漏らした。その時、近くの塹壕から誰かが飛び出してきた。
「シヴェリア!?」
雷の紋章を刻んだ鎧をまとったエルキアだった。
彼は四人を見た瞬間、目を見開いた。
「レムたちまで!?さっきの光なんだよ!どうしてここにいるんだ!」
次々と質問され、シヴェリアは答えられない。
「族長候補に緊急招集の伝令がきて、転送陣が……急に広がって……!」
その言葉を聞いた瞬間、エルキアの顔色が変わる。
「そんな招集、受けてねぇぞ……!!」
彼がシヴェリアたちを庇うように前へ出た、その時だった。離れた場所で、狭間をじっと睨みつけるヴァルアが目に入る。気がついたトアが涙目のまま嬉しそうに叫ぶ。
「ヴァル姉!」
ヴァルアの肩がびくりと震えた。はっと振り向く。
金赤のオッドアイが四人を捉えた瞬間、その顔から血の気が引いた。
「なんで来た!!」
怒鳴った瞬間、ヴァルアの視線はシヴェリアたちではなく、背後の狭間へ向いていた。
——狙われる。
その確信が、声を鋭くしていた。
鋭い怒声にレムたちは凍りつく。シヴェリアも言葉を失った。ヴァルアは全力でこちらへ駆け出す。
ドォン!!
大地を揺らす轟音。
狭間から放たれた黒い光線が一直線に向かっていた。
「くそが!!」
ヴァルアが叫ぶ。
右手に炎。左手に光。
二つの属性が同時に爆ぜた。
「伏せろ!!」
巨大な防壁が展開され、黒光を受け止める。
炎が砕け、光が軋む。衝撃波がシヴェリアたちを襲った。
シヴェリアは反射的に前へ踏み込み、氷の盾を展開する。
「レム、下がって!」
薄青い氷壁が子どもたちを包み込み、飛散した瘴気片を弾き返した。バチバチと黒い火花が氷を焼く。
「っ……!」
腕に重い衝撃が走る。だが盾は崩さない、崩させてはいけない。魔力をさらに強く込め焼かれた盾を再形成する。
エルキアも同時に雷槍を投げ、飛び散った瘴気塊を撃ち落とした。
「まだ来る!」
シヴェリアとエルキアは子どもたちを挟んで背中合わせに立つ。その一瞬だけ、ヴァルアの目に安堵が宿った。
——足手まといじゃない。
少なくとも、子どもたちを守る時間は稼げる。ヴァルアの足が地面を削る。
「ヴァル!」
シヴェリアが叫ぶ。返事はない。
ヴァルアは防壁を維持したまま、背後の兵士たちへ怒鳴った。
「第三隊! 北側結界を二重化! 崩れたら後方避難路が潰れる!」
「は、はい!」
咄嗟に兵士たちが動く。
「光術師は私の防壁に魔力接続! 炎術師は右側面の異物を焼き払え! 氷術師、熱波を抑えろ!」
次々に指示が飛ぶ。誰も反論しない。むしろ、命令を待っていたかのように一斉に動き出した。その状況を見てシヴェリアは息を呑んだ。ヴァルアの声が響くたび、混乱していた前線が一本の流れになっていく。
「レム! トア! ライア! シヴェル!」
名前を呼ぶ。
「今すぐ後ろへ下がれ!」
その声には怒りだけでなく、恐怖が滲んでいた。
シヴェリアは初めて理解した。ヴァルアが本当に怖れているのは、自分が傷つくことではない。大切な人たちを失うことなのだと。轟音の向こうで狭間が再び脈打つ。
ヴァルアは剣を抜き放った。
銀の刃に炎と光が絡みつく。
「……絶対に、ここから先へは通さない。」
低く呟き、彼女は狭間へ向かって踏み出した。
「負傷者は西の待機壕へ! 子どもと非戦闘員を最優先で移動!」
「了解!」
兵士たちが叫び返す。
その声には迷いがなかった。
再び黒い光が迸る。ヴァルアは片腕を振り上げる。炎が槍となり、光が鎖となって空を裂いた。
激突。
閃光。
爆風。
周囲の兵士たちが息を呑む。
「二属性同時行使……!なんて処理能力だ…!」
誰かが震える声を漏らした。だがヴァルアは振り返らない。
「第六隊長!」
「ここに!」
「お前の隊、私の左翼につけ! 三分持たせる、その間に避難完了させろ!」
「三分で十分です!」
隊長は胸に拳を当て、迷いなく走った。シヴェリアは目を見開く。誰も彼女を“混血”と呼ばない。誰も蔑まない。そこにいるのは、前線を率いる指揮官だけだった。
シヴェリアは氷壁を維持したまま、前線の銀髪を見つめた。恐怖に呑まれた兵士たちが、彼女の声ひとつで動いている。それは学園で学んだ理論では届かない力だった。
胸の奥が熱くなる。
——追いつきたい。
守られるだけでは終わりたくない。
この人の隣に立ち、同じ景色を守れる族長になりたい。
シヴェリアは砕けかけた氷壁へ、さらに魔力を注ぎ込んだ。エルキアは雷槍を再展開し、子どもたちの前へ立った。
「シヴェル、防壁維持! 後ろは俺が落とす!」
轟音の向こうで狭間が再び脈打つ。ヴァルアは剣を抜き放った。銀の刃に炎と光が絡みつく。
「全員、私の後ろから一歩も出るな。」
低く、しかし不思議なほどよく通る声。兵士たちが一斉に返事をする。
「了解!!」
その瞬間、シヴェリアは確信した。
この人なら、里を守れる。
この人なら、違う属性の者たちすら一つにできる。
ヴァルア・セントフレアは、もう“守られる側”ではない。
人々を守り、導く者だった。




