シヴェリア様
ヴァルアに名前を教えてもらったあとも、二人が会う頻度は特に変わらなかった。休日になればシヴェリアは街へ出る。市場を歩き、路地を覗き、川沿いを巡る。そして何度かに一度、ヴァルアを見つける。
「ヴァルア。」
「よぉ。」
「今日は何を買うの?」
「果物。」
そんな短いやり取りを交わすだけ。依然として、ヴァルアの名前以外のことはほとんど知らなかった。どこに住んでいるのか。家族はいるのか。何をして暮らしているのか。聞いても、はぐらかされるだけだった。それでもシヴェリアは、その時間が嫌いではなかった。
そして、ある休日。
市場の果物屋の前で、シヴェリアは見慣れた銀髪を見つけた。ヴァルアが果物を選んでいる。
「あ、ヴァルア。こんにちは。」
いつものように声をかける。
ヴァルアはちらりと視線だけ向けた。
「あぁ。」
それだけ。だが、そのやり取りを見ていた果物屋の店主が目を見開いた。
「シ、シヴェリア様!?なぜこの女と……!」
空気が凍る。ヴァルアの手が止まった。
「シヴェリア……様?」
ぽつりと呟く。
その声に、シヴェリアはようやく店主へ振り返った。
「え?あぁ、わた——」
ヴァルアと知り合いであることを店主れ告げようとすると、ヴァルアがゆっくり顔を上げた。金と赤の瞳がシヴェリアを見つめる。
「……様、なんだ。」
シヴェリアの胸がざわつく。
「ヴァルア、違うの。私は——」
「その髪色…そうか、氷の族長の娘か。」
驚いたような声ではなかった。むしろ、どこか納得したような響き。
店主が慌てて頭を下げる。
「も、申し訳ありませんシヴェリア様!この女が失礼を——」
「やめてください!」
シヴェリアが思わず声を上げる。周囲の視線が集まった。ヴァルアは静かに果物を袋へ戻す。
「そういうことか。」
「ヴァルア……。」
「いや、納得した。」
淡々とした声。けれどその平坦さが、かえってシヴェリアを不安にさせた。ヴァルアは店主へ硬貨を置いた。
「今日はいい。」
「え、ちょっと待って!」
シヴェリアが腕を掴もうとする。しかしヴァルアはするりと身をかわした。
「別に怒ってない。」
そう言いながら、視線は合わせない。
「ただ、あんたがなんで変なのかやっとわかった。」
「変って……。」
「族長の娘なら、そりゃ私みたいなのに普通に話しかけても不思議じゃないんだろ。」
その言葉に、シヴェリアは息を呑んだ。違う。そうじゃない。自分が話しかけたかったから話しかけているだけなのに。だが、その否定は喉で詰まった。ヴァルアは背を向け、銀髪が揺れる。
「じゃあな、シヴェリア様。」
初めて名前を呼ばれた。
なのに、その響きはひどく遠かった。
シヴェリアは立ち尽くしたまま、離れていく背中を見送ることしかできなかった。
市場で別れてから、ヴァルアの姿はぱたりと消えた。
次の休日。
シヴェリアはいつもの道を歩いた。市場を一周し、川沿いを巡り、細い路地まで覗く。銀髪は見つからない。その次の休日も。さらにその次も。
「……今日も、いない。」
夕暮れの石畳に立ち尽くし、シヴェリアは小さく息を吐いた。偶然にしては出来すぎていた再会が、今度は不自然なほど途絶えている。
(避けられているのかもしれない。)
そう思った瞬間、胸が痛んだ。氷の族長の娘だと知って、嫌になったのだろうか。騙されたと思ったのだろうか。でも、探すあてがない。名前しか知らない。家も、仕事も、家族も、何ひとつ。
「ヴァルア……。」
呼んでも届かない。
一方その頃。
ヴァルアは市場から離れた裏路地を歩いていた。視線の先には、遠くを歩くシヴェリアの姿。気づかれない距離を保ったまま、そっと目を逸らす。
(来てるな。)
ため息が漏れた。怒っているわけではない。むしろ、あの時店主を止めようとしてくれたシヴェリアには少し驚いていた。
でも。
『シヴェリア様!?』
あの声が頭から離れない。氷の族長の娘。未来を約束された族長候補。そんな相手が混血と親しくしていると知られれば、余計な噂になる。立場を悪くする。
「……そのうち、忘れるだろ。」
ヴァルアは小さく呟いた。
あいつのためにも会わない。近づかない。見つからないように歩く。それが一番いい。そう決めたはずなのに、遠くでシヴェリアが寂しそうに周囲を見回す姿が視界に入ると、胸の奥がちくりと痛んだ。
ヴァルアはぐっと眉を寄せる。
「変な奴。」
聞こえるはずのない距離でそう呟き、踵を返した。
銀髪は夕暮れの路地へ溶けるように消えていった。
シヴェリアは最後まで、その視線に気づかなかった。
ヴァルアに会えなくなった後、数回目の休日。
その日は昼過ぎから急に降り出した雨が容赦なく降り続いていた。石畳を叩く雨音が街を白く煙らせる。その路地の入口に、シヴェリアは立っていた。
傘も差さず、ただじっと。制服は肩まで濡れ、青い髪が頬に張り付いている。
(なにやってるんだろうな、私。)
心の中でそう思いながら、時計を見るともう夕方。自宅に戻ろうと俯きながら重い足を踏み出したところだった。
「……何やってんだ。」
背後から低い声がしてシヴェリアが勢いよく振り向く。
そこにヴァルアが立っていた。銀髪も少し濡れている。
「ヴァルア……!」
安堵したように笑うシヴェリアを見て、ヴァルアは眉をひそめた。
「なんで帰らない。」
「会えるかなって、待ってたの。」
「何時間。」
「えっと……三時間くらい?」
「馬鹿か。」
眉間に皺を寄せたヴァルアは即答だった。
シヴェリアは少し困ったように笑う。
「避けられてるなら、一回ちゃんと話したかったの。」
ヴァルアは気まずそうに視線を逸らす。雨が頬を伝った。
「別に避けてねぇ。」
「じゃあどうして会ってくれなかったの?」
しばらく沈黙。やがてヴァルアがぼそりと呟く。
「お前の立場が悪くなるだろ。」
シヴェリアは目を見開いた。
「……それだけ?」
「それだけって。」
ヴァルアは呆れたように笑う。
「族長の娘が混血とつるんでるとか、面倒に決まってる。」
自分がどんな目で見られ、どんなことを言われているか理解している。それが将来を期待されているであろうシヴェリアに向くのは極力避けたかった。そんなヴァルアの心情を汲み取ったシヴェリアはふっと息を吐いた。
「ヴァルア。」
「ん?」
「私はね、自分で誰と知り合いになるかくらい自分で決めるわ。」
真っ直ぐな言葉だった。ヴァルアが言葉を失う。ヴァルアは数秒黙り込み、やがて大きくため息をついた。
「……降参。」
「え?」
「お前、しつこすぎる。」
ぶっきらぼうにそう言うと、自分の上着を脱いでシヴェリアの頭へ乱暴にかぶせた。
「風邪引くぞ、シヴェリア。」
初めて呼ばれた名前。シヴェリアの瞳がぱっと明るくなる。ヴァルアはその顔を見て、しまったという顔をした。
「今のなし。」
「だめ。もう聞いたもの。ありがとう。ヴァルア。」
雨音の中、二人は顔を見合わせた。その日初めて、シヴェリアはヴァルアが自分を本当に拒絶していたわけではないと知った。
ヴァルアに上着をかぶせられたまま、シヴェリアは沈黙のまま動けないでいた。何を話そう、謝った後、私はどうしたい?
雨はまだ強い。
石畳には水たまりが広がり、冷たい風が吹き抜ける。ヴァルアは頭を掻き、露骨に面倒そうな顔をした。
「……はぁ。」
「ヴァルア?」
「このまま帰したら絶対風邪引くだろ。」
「大丈夫よ、氷属性だもの。」
「そういう問題じゃねぇ。」
ぶっきらぼうに言い捨てると、ヴァルアは踵を返した。
「来い。」
「え?」
「一回だけだからな。」
シヴェリアは慌てて後を追う。市場の賑わいを抜け、細い路地へ入り、さらに人気の少ない道を進む。やがて古い石壁の前でヴァルアが立ち止まった。
「ちょっと離れてろ。」
ヴァルアが空中へ指を走らせる。透明だった空間に赤い魔法陣が浮かび、波紋のように広がった。シヴェリアは息を呑む。
「結界……?」
「まあな。」
見たこともない高度な術式だった。光が収まると、そこには小さな庭付きの家が現れていた。
「入れ。」
扉を開けた瞬間、温かな空気が流れ出る。
シヴェリアが中へ足を踏み入れると——。
「ヴァル姉!」
小さな声が響いた。
ぱたぱたと足音が近づく。まず飛び出してきたのは、赤みの強い髪に金が混じった少女だった。ヴァルアの腰へ勢いよく抱きつく。その後ろから、青髪の男の子が顔を覗かせ、さらに金髪の小さな男の子が警戒したようにシヴェリアを見上げた。シヴェリアは目を見開く。
「大きいのからレム7歳、トア6歳、ライア4歳。」
あまりにも雑な説明にと急な登場にシヴェリアは困惑した。
(子ども……?)
しかも、赤と金のオッドアイ。青い瞳。金色の髪。
属性の混ざり方を見れば、一目でわかった。
「……混血。」
無意識に呟いてしまう。ヴァルアの肩がぴくりと動いた。一瞬、空気が張り詰める。シヴェリアは慌てて首を振った。
「ち、違うの。驚いただけで……!」
レムがヴァルアの後ろからじっとシヴェリアを観察している。トアは少し怯えたようにヴァルアの服を掴んだ。ライアは腕を組みいかにも「怪しい」と言いたげな顔だ。ヴァルアは小さくため息をついた。
「こいつ、シヴェリア。」
そして子どもたちへ視線を向ける。
「変な奴だけど悪い奴じゃない。」
子どもたちの紹介と同様、あまりにも雑な紹介にシヴェリアは思わず笑ってしまった。
「それ、紹介になってる?」
「なってる。」
レムがそっと前へ出る。
「……こんにちは。」
「こんにちは。」
シヴェリアも膝を折って目線を合わせた。トアが小声でヴァルアへ尋ねる。
「ヴァル姉のお友達?」
ヴァルアが珍しく言葉に詰まった。
「……知り合い。」
シヴェリアがくすりと笑う。
「ええ、知り合いよ。」
そのやり取りを見て、レムの表情が少しだけ柔らかくなった。ヴァルアは濡れた髪を乱暴に拭きながら呟く。
「そこ座れ。温かいの淹れる。」
シヴェリアは部屋を見回した。小さな食卓。三つ並んだ子ども用の椅子。丁寧に繕われた服。そして、誰かが大切に暮らしている匂い。シヴェリアは静かに理解した。ヴァルアが守ろうとしていたのは、自分自身ではなかったのだと。
ヴァルアは奥の小さな台所へ消えていった。湯の沸く音戸棚を開け閉めする音。レムがトアに何か囁き、ライアが「しーっ」とクスクスと指を立てている。家の中には穏やかな生活の気配が満ちていた。やがてヴァルアが湯気の立つカップを二つ持って戻ってくる。
香ばしい香りがふわりと広がった。
「ありがとう。」
シヴェリアが受け取ろうとすると、ヴァルアはどかっと椅子へ腰を下ろした。背もたれにだらしなく体を預け、片肘を机につく。そして、口元だけ少し意地悪そうに歪める。
「で?」
「え?」
「族長様のご息女は、珍しい混血のわたくしになにかお聞きになりたいことでもございますか?」
やけに丁寧な口調だった。
シヴェリアは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「なによその喋り方。」
「お上品だろ?」
「全然。」
ヴァルアは肩をすくめ、カップを一口飲む。
「せっかく偉いお嬢様をお招きしてるんですから、少しくらい礼儀正しくしないと。」
「ヴァル、絶対楽しんでるわよね。」
「さて、なんのことでしょう。」
わざとらしく首を傾げる。その横でレムがくすくす笑った。
「ヴァル姉、変。」
「レム、うるさい。」
ライアが腕を組んでシヴェリアを見る。
「ヴァル姉、その喋り方の時だいたいからかってる。」
「ライア。」
「ほんとだもん。」
トアまで小さく笑い始め、部屋の空気がふっと和らいだ。シヴェリアは温かなカップを両手で包み込みながら、改めてヴァルアを見る。
「じゃあ、わたくしから一つ質問してもよろしくて?」
「なんでしょう、お嬢様。」
「どうしてそんなにコーヒーを淹れるのが上手なの?」
ヴァルアが予想外の質問に一瞬だけ目を瞬いた。
「……なんだそれ。」
「だって本当に美味しいもの。」
ヴァルアは照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「昔、父親に叩き込まれた。」
ぽろりと零れた言葉に、シヴェリアはそっと目を細める。ヴァルアはしまったという顔をして、慌てて話題を変えた。
「ほら、冷める前に飲め。お嬢様。」
その呼び方も、もうどこか優しかった。
しばらく談笑すると雨はすっかり上がっていた。結界の出口までヴァルアが見送りに来る。湿った土の匂いと、雨上がりの冷たい風。シヴェリアは何度も振り返りながら歩き、結界の境目で足を止めた。
「ヴァルア。」
「ん?」
シヴェリアは少しためらい、両手を胸の前で組む。
「その……お願いがあるのだけれど。」
ヴァルアが片眉を上げた。
「珍しいな、お嬢様がそんな言い方するなんて。」
「茶化さないで。」
小さく笑ってから、シヴェリアは控えめに続ける。
「通信蝶の魔力共有、してもいいかしら……?」
その言葉にヴァルアが目を瞬いた。通信蝶は、一度互いに魔力を共有しなければ相手へ飛ばせない。つまり、簡単に言えば——個人的な連絡先を教えてほしい、という意味だ。ヴァルアはしばらく黙った。シヴェリアは慌てて言葉を足す。
「嫌なら大丈夫よ!無理にとは言わないわ。ただ、また会えなくなるのは少し寂しくて……。」
ヴァルアは視線を逸らし、後頭部をがしがし掻いた。
「……お前、ほんとそういうことさらっと言うよな。」
「え?」
「なんでもない。」
小さくため息をつく。それから右手を差し出した。
「ほら。」
シヴェリアの顔がぱっと明るくなる。そっと指先を重ねると、ヴァルアの指から温かな魔力が流れ込んできた。赤と金の光。シヴェリアの青い魔力がそれに触れ、ふわりと混ざり合う。二色の光は小さな蝶の形を作り、夜空へ舞い上がった。
それが共有完了の印だった。
「これでいつでも連絡できるわ!」
嬉しそうに言うシヴェリアを見て、ヴァルアは少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。
「用もないのに毎日飛ばしてくるなよ。」
「努力するわ。」
「努力ってなんだよ。」
二人同時に笑う。
結界の向こうからレムの声が聞こえた。
「ヴァル姉ー!シヴェルお姉ちゃん帰っちゃうのー?」
シヴェリアが思わず振り返る。
「また来るわ!」
「やったー!」
レムの歓声が響いた。
ヴァルアはその様子を見て、どこか諦めたように肩をすくめる。
「……もう完全に懐かれてるじゃねぇか。勝手に約束するなよ…。」
シヴェリアはくすりと笑った。
「知り合い、だもの。」
ヴァルアは一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。
「そうだったな、シヴェル。」
初めて自然に呼ばれた愛称が、雨上がりの夜にやわらかく溶けていった。




