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始まりのりんご

ある晴れた日の午後。


中枢都市は穏やかな陽光に包まれていた。

白い石畳は光を反射し、街路樹の葉が風に揺れるたび、木漏れ日がゆらゆらと踊る。シヴェリア・スノーコルディアは、両腕いっぱいに果物を抱えて歩いていた。ふらふらと歩きながら腰まで伸びる透き通った氷を思わせる淡い青髪が揺れた。


赤いリンゴ。

黄金色の柑橘。

瑞々しい桃。


袋から溢れそうなほどの量だ。


「シヴェリア様、これも持って行ってください!」


「今朝採れたばかりですよ!」


市場を通るたび、店主たちが次々と果物を差し出してくる。氷の族長の娘であるシヴェリアの名は中枢都市でもよく知られていた。だが人々が彼女を慕う理由は血筋だけではない。シヴェリアは相手が商人でも子どもでも、身分を問わず同じように笑いかける。その人柄が、自然と人を集めていた。


「ありがとうございます。でも本当にたくさんいただきすぎてしまって……。」


困ったように笑うと、店主たちは嬉しそうに手を振った。


「若い子はたくさん食べるもんだ!」


そう告げると市場の商人たちは次々とシヴェリアの腕の中へ果物を入れ、帰路へついた。市場を抜けると、賑わいは少しずつ遠ざかっていく。代わりに立派な石造りの建物が並び、行き交う人々の服装も上品になっており、その景色を眺めながら歩いていたその時だった。


「あっ。」


袋の重みで体勢を崩し、果物がいくつも石畳へ転がったリンゴがころころと転がり、柑橘が足元で弾む。


「わ、わ……!」


慌ててしゃがみ込む。だが手を伸ばすたび、別の果物がこぼれていく。周囲の人々はちらりと視線を向けるだけで、誰も立ち止まらない。市場で感じた温かさが嘘のようだった。


(早く拾わなくちゃ……。)


焦って手を伸ばしたその時。

視界の端に、赤いリンゴが差し出された。


「これ、どうぞ。」


静かな声が上から響いた。シヴェリアが顔を上げるとそこには見知らぬ少女が立っていた。銀色の髪の毛先だけが夕焼けのように赤く染まっている。鎖骨までの髪が風に揺れ、金と赤のオッドアイがこちらを見ていた。年は自分とそう変わらないだろう。少女は「ん」と短く声を漏らし、転がった果物を手際よく次々と拾って袋へ入れていく。シヴェリアは驚きのあまり声を失っていた。少女はその沈黙を見て、ふっと首を傾げる。


「あぁ、触られて不快だった?」


「え?」


「ごめんな。」


まるで慣れた言葉のように謝ると、少女は肩に掛けた鞄を探り、小さな革袋を取り出した。中には硬貨が入っている。それをシヴェリアへ差し出した。


「これで買い直して。」


「え、ちょっと待って!」


何が起きているのか理解できず反射的に受け取ってしまった硬貨が、掌の上でひんやりと冷たかった。少女はそれ以上何も言わずにくるりと背を向ける。


「じゃ。」


銀髪が陽光を受けてきらりと光った。


「ま、待ってください!お名前を——」


呼び止める声は届かなかった。少女は振り返ることなく、人通りの少ない路地へ消えていく。残されたシヴェリアは、掌の硬貨を見つめた。助けてもらった。それなのに、どうして謝られたのだろう。どうして弁償のお金まで渡されたのだろう。胸の奥に小さな棘のような疑問が残る。シヴェリアはまだ知らない。


あの少女が「混血」であり、かつて


“混血が触れた物は穢れる”


と何度も言われてきたことを。


そして混血の少女もまた知らない。


驚いていただけの少女が、自分を嫌悪したわけではなかったことを。


その日、石畳の上で交わされたたった数分の出会いが、やがて互いの世界を大きく変えていくことになる。


帰宅してからも、シヴェリアの頭からあの銀髪の少女が離れなかった。夕食の席でも。入浴中でも。眠る前に本を開いても。石畳の上で差し出された赤いリンゴが何度も脳裏に浮かぶ。


『触られて不快だった?』


どうしてあんなことを言ったのだろう。どうして謝ったのだろう。どうしてお金まで置いていったのだろう。考えれば考えるほど、胸の奥がざわついた。翌朝、学園の教室でシヴェリアは隣の席に腰掛けた金髪の青年、エルキア・ライボルトへ身を寄せた。


「ねぇ、エル。昨日ちょっと不思議なことがあったの。」


「ん?」


エルキアは机に頬杖をついたまま顔を向け、シヴェリアは市場で果物を落としたこと、見知らぬ少女に助けられたことを順番に話した。


「俺たちくらいの歳の女?」


「ええ。」


「ここでも会ったことねーの?」


「そうなの。初めて見る子だったわ。」


エルキアが首を傾げる。この世界では、基本的にすべての子どもが学園へ通う。幼少期から持ち上がりで進級するため、来年最高学年になる二人にとって、同世代の顔はほとんど知り尽くしている。知らない少女がいること自体が珍しかった。


「髪の毛の色がとても綺麗でね。銀髪なんだけど、毛先が少し赤みがかっていて——」


そこまで言った時だった。


「……あの。」


控えめな声が割り込む。振り返ると、同級生の女子生徒が緊張した面持ちで立っていた。


「あの、シヴェリア様。お話を横で聞いておりましたが……。」


「ええ、どうしたの?」


女子生徒は周囲をちらりと見回し、さらに声を潜めた。


「その、その女性って……街で有名な“混血の異端児”では……?」


教室の空気がぴたりと止まった。シヴェリアが瞬きをする。


「混血……?」


「銀髪で毛先が赤い子なら、きっとそうです。光と炎属性の混血らしくて。街外れに住んでいて、近づかない方がいいって……。」


女子生徒は言いづらそうに視線を落とした。エルキアが眉をひそめる。


「異端児って、あの噂の?」


「はい……。怖い人だって聞きました。」


シヴェリアの耳には、その後の言葉がうまく入ってこなかった。脳裏に浮かぶのは、昨日の少女の姿だけ。転がった果物を拾ってくれた手。申し訳なさそうに差し出された硬貨。


『ごめんな。』


その一言。怖い人?異端児?

自分の知っている姿と、あまりにも結びつかない。


「……違うと思う。」


気づけば口から言葉が漏れていた。女子生徒が驚いた顔をする。シヴェリアは静かに首を振る。


「だって、私を助けてくれたもの。」


エルキアがじっとシヴェリアを見る。


「シヴェル。」


「それに、もし本当に嫌われているような怖い人なら、どうしてあんなに申し訳なさそうに謝ったのかしら。」


女子生徒は答えられなかった。教室に微妙な沈黙が落ちる。シヴェリアはそっと掌を握りしめた。昨日受け取った硬貨は、今も制服のポケットに入っている。冷たい金属の感触が、やけにはっきりと伝わってきた。


(もう一度、会いたいな。)


その思いだけが、静かに胸の中で形を持ち始めていた。


次の休日。


シヴェリアは朝から中枢都市へ出ていた。目的はひとつ。あの銀髪の少女を探すことだ。


「街で有名な混血の異端児」


そう呼ばれているのなら、何度か街を歩けばきっと見つかるはずだ。そんな妙な確信があった。だが現実は甘くない。市場を歩き、路地を覗き、噂に出ていた街外れまで足を運んでも、銀髪の姿は見当たらなかった。気づけば日が傾き始めている。


「さすがにすぐには会えないかしら……。」


シヴェリアは小さくため息をついた。休日とはいえ、族長候補としての鍛錬も勉学もある。これ以上遅くなるわけにはいかない。諦めて帰ろうと踵を返した、その時だった。視界の端を銀色が横切った。思わず振り向くと、ちょうど探していた少女が通りの向こうから歩いてくるところだった。


パチリとお互いの目が合う。

シヴェリアの胸が跳ねた。


「あなた!」


思わず声が出る。少女は足を止め、きょとんと目を丸くした。一拍置いて、ふっと思い出したように呟く。


「あぁ、この前のりんごの。」


そして当然のように鞄へ手を入れた。


「なに?足りなかった?」


再び硬貨を取り出し、シヴェリアへ渡そうとする少女。


「ち、違います!」


シヴェリアは慌ててその手を押さえた。少女が驚いたように瞬きをする。


「あ?」


「私はお礼を言いたくて探していたの。助けてくださって、本当にありがとうございました。」


深く頭を下げると少女は固まった。まるでそんな言葉を向けられると思っていなかったかのように。


「……お礼?」


「ええ。」


「お叱りとかではなく?」


「お叱り?」


シヴェリアが首を傾げる。少女は視線を逸らした。


「いや、だって、果物に直接触ったし。」


その言葉に、シヴェリアの胸がちくりと痛んだ。誰かにそう言われ続けてきたのだろう。触れただけで嫌がられると、信じ込むほどに。シヴェリアはゆっくり首を振った。


「私は少し驚いただけよ。」


少女がそっとこちらを見る。


「あんた、変わってるな。」


「よく言われるわ。」


シヴェリアが微笑むと、少女は困ったように眉を寄せた。


「普通はもっと嫌そうな顔する。」


「普通じゃなくてごめんなさい。」


その返事に、少女は初めて小さく吹き出した。笑った。ほんの一瞬だったけれど、確かに。シヴェリアはその表情に目を奪われる。


「ねぇ、あなたのお名前を聞いてもいい?」


少女は少し迷ったあと、肩をすくめた。


「内緒。じゃぁな。」


「あ、私はシヴェリア。友達にはシヴェルって呼ばれてるわ。」


少女はまたきょとんとした顔をする。


「あっそ。」


シヴェリアに背を向けひらひらと手を振って少女は去っていった。


それから二か月ほどが過ぎた。

休日になると、シヴェリアは街へ出た。


最初は「もう一度お礼を言いたい」だけだったはずなのに、いつの間にか銀髪の少女を探すこと自体が日課になっていた。市場を一周し、路地を歩き、川沿いを眺める。すると不思議なことに、何度かに一度は本当に会えるのだ。


「あなた!」


「じゃ。」


そんな調子で毎回去っていく。名前を聞いても、


「秘密。」


「なんで?」


「別に。」


取りつく島もない。それでもシヴェリアが話しかけるのをやめなかったせいか、最近では声をかけても露骨に逃げなくなっていた。そして、ある休日。いつものように街を歩いていたシヴェリアは、通りの向こうに見慣れた銀色を見つけた。


「あっ——」


声を上げかけて、息を呑む。少女は全身ずぶ濡れだった。銀髪は水を含んで肌に張り付き、服の裾からぽたぽたと雫が落ちている。抱えている買い物袋まで濡れていた。しかもどこか埃っぽい。水に濡れた泥のような匂いがかすかに漂う。


「またあんたかよ。」


少女はいつもと変わらない声で言った。まるで自分の姿など気にもしていないように。シヴェリアは目を見開いたまま固まる。


「え、ちょっと、どうしたのその格好!?」


「ん?」


少女は自分の袖を見下ろしぶらぶらと腕を振り水滴が落ちる。


「あー、川落ちた。」


「川!?」


あまりにも軽い返事にシヴェリアの声が裏返る。少女は面倒くさそうに肩をすくめた。


「橋の下に荷物落ちてたから拾ってたら足が滑った。」


「それでこんなに……?」


「まあ。」


シヴェリアは慌ててハンカチを取り出した。


「風邪を引くわ!せめて髪だけでも拭いて——」


「いらない。」


即答し立ち去ろうとする少女を必死に止めるシヴェリア。


「でも!」


「そのうち乾く。」


本当にどうでもよさそうだ。シヴェリアは唖然とする。ふと、ヴァルアの手に擦り傷があることに気づいた。指先も赤く腫れている。


「怪我してるじゃない!」


「これくらい平気だ。」


少女は袋を抱え直し、歩き出そうとした。すかさずシヴェリアは反射的にその前へ回り込み手を広げた。


「待って!」


「まだなんかあんのかよ。」


「あるわよ!そんな格好で帰らせられないもの。」


少女は露骨に嫌そうな顔をした。


「……なんでそこまで構うんだよ。」


シヴェリアは少しだけ間を置いて、くすりと笑った。


「全身ずぶ濡れの知り合いを放置するような教育は受けてないの。」


その言葉に、少女の動きが一瞬止まる。知り合い。

その響きが、妙に胸の奥に引っかかった。しばらく沈黙が落ちる。固まった少女の濡れた髪にシヴェリアがハンカチを当てようとした時。ぽつりと呟いた。


「……ヴァルア。」


「え?」


シヴェリアが目を瞬かせる。


少女は視線を逸らしたまま、ぶっきらぼうに言い直した。


「ヴァルアだ。」


シヴェリアの顔がぱっと明るくなる。


「ヴァルア……!」


その反応に混血の少女、ヴァルアは少しだけ眉をひそめた。


「そんな嬉しそうにすんなよ。」


シヴェリアは差し出したままのハンカチをもう一度前へ出す。ヴァルアは数秒迷ったあと、ようやくそれを受け取った。濡れた指先が白い布を掴む。


「……返さないかもしれないぞ。」


「その時はまた会いに来るわ。」


即答だった。

ヴァルアは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく鼻で笑う。


「ほんと変な奴。」


けれど今度は、その言葉に前ほど棘はなかった。シヴェリアはその言葉を、なぜだか悪口だとは思わなかった。

2026.8.16 誤字修正

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