学生部隊
ヴァルアの予感が現実になったのは、その三日後だった。
最初は都市外縁での目撃情報だった。
黒い霧。
異形の影。
瘴気に触れて倒れた住民。
それはすぐに噂となって広がり、ついに一般市民の間でも「黒い化け物」の存在が語られるようになった。長年中枢が秘匿してきた狭間は、ついに都市部で目撃されたのである。事態を受け、中枢直属部隊を中心に総動員が始まった。
傭兵団。
中枢騎士団。
各属性里の戦闘部隊。
だが亀裂は同時多発的に発生し、人手が足りない。狭間体との対峙経験が一番多い傭兵団の面々がそれぞれの部隊の指揮をとるが対処法が特殊な狭間体の対応に各所は混乱を極めた。
そしてついに学園にも緊急動員命令が下った。
上級生を中心とした学生部隊は、後方支援・結界補助・負傷者搬送を担当することになり、シヴェリアとエルキアもその一員として戦場へ派遣された。
そして——。
「学生部隊、後列維持!前に出るな!」
轟音が大地を揺らした。
黒い瘴気が裂け目から噴き出し、空気そのものが重かった。周囲では怒号が飛び交い、指揮官の指令を聞き取るのもやっとな状態だ。
初めての戦場にシヴェリアは息を呑んだ。
演習で習ったことを思い出しながら補助魔法で後方支援を行い、必死で状況に食らいついた。雷の里の部隊で魔物討伐等に何度か参加したことがあるエルキアも、狭間体との戦闘は初めてで様子が違う戦闘に汗を流した。
前線の中央で大きな爆発が起き、反射的にそちらに視線を向けた時だった。見慣れた銀髪の少女が、血に濡れた肩を押さえながら立っているのが目に飛び込んできた。装束は裂け、腕には焼け焦げた痕。明らかに満身創痍の状態だ。それでも彼女は倒れない。炎と光を同時に展開し、瘴気の群れを次々と薙ぎ払っている。
「核を狙え!瘴気を吸うなよ!!」
「黒い痣が出た奴は下がれ!」
「封印班を呼べ!」
鋭い指示が飛ぶ。
その声は掠れているのに、異様なほど通る聞き覚えのある声。
「あれ……ヴァル!?」
エルキアヴァルアの姿に気がつき目を見開く。
「嘘だろ……なんであんな前線で……」
ヴァルアは瘴気の刃を避けながら、片手で結界を展開し、もう片方で魔法陣を叩き込むように発動させた。
爆ぜる光。
吹き飛ぶ黒煙。
その中で、ようやく二人に気づく。
一瞬だけ視線が揺れた。
「なんでお前らいるんだ。」
普段と変わらない声。
だが息は荒く、肩からは血が滴っている。シヴェリアが思わず駆け寄ろうとすると、ヴァルアの声が鋭く飛ぶ。
「止まれ。」
同時に足元へ瘴気の槍が突き刺さる。ヴァルアは振り向きもせず、指先だけでそれを光の刃で切り裂いた。
「学生は後方待機だ。ここは遊び場じゃない。」
エルキアが悔しそうに拳を握る。
「でも俺たちだって戦える!」
「知ってる。」
ヴァルアは即答した。
その間にも、彼女は片膝をつきかけながら絶えず魔法を放ち続けている。
「死ぬなよ。」
短く、それだけ。
次の瞬間、瘴気の群れが押し寄せる。ヴァルアは歯を食いしばり、血の滲む腕で魔法陣を叩き込んだ。炎が閃き、瘴気が吹き飛ぶ。その衝撃で一瞬だけ体勢が崩れる。だが倒れない。
「……っ、まだ来るか」
小さく呟き、再び前線へ踏み込む。その背中は、傷だらけなのに一切揺らがなかった。シヴェリアは呆然とその姿を見つめた。
家で本を読んでいた友人。
パンを頬張っていた少女。
その面影は確かにそこにあるのに、同時にまったく別の存在だった。戦場を支配する指揮官。血を流しながら、それでも誰より前に立つ者だった。
実力者だとは知っていた。けれど、ここまでとは思っていなかった。周囲の誰よりも前に立ち、誰よりも早く状況を判断し、誰よりも多く魔法を撃っている。血を流しているはずなのに、戦場の流れそのものを彼女が握っているように見えた。
(……これが、ヴァルの戦い方……?)
彼女の戦闘力は周囲の中でもずば抜けており、この戦場で確実に攻撃の要となっている。そんなヴァルアから目が離せない。
その時、戦場を裂くような甲高い警鐘が三度鳴り響いた。
ハッとシヴェリアは指揮官の方を見る。それは学生部隊にとって“撤退開始”を意味する合図だった。
「全学生部隊、後退準備!」
上空から拡声魔法が降ってくる。
「繰り返す。全学生部隊は後方転送陣へ移動せよ!これは命令である!」
ざわり、と空気が揺れた。
安堵する者。
悔しそうに歯を噛む者。
恐怖で立ち尽くしていた者は、その場にへたり込む。
シヴェリアは咄嗟に前線を見た。ヴァルアはまだ戦っている。血に濡れた肩を押さえたまま、炎を放ち、結界を張り、指示を飛ばしていた。
「ヴァル!」
思わず声を上げる。
だが轟音にかき消された。エルキアが低く呟く。
「なんで俺たちだけ下がるんだよ……。」
「学生部隊は消耗が限界だ。これ以上は足手まといになる。」
近くにいた教官が厳しい顔で言った。
「しかし!」
「命令だ、エルキア・ライボルト。」
教官の声には焦りが滲んでおり、状況の悪さを物語っていた。シヴェリアは再びヴァルアを見る。彼女は二人の視線に気づいたのか、一瞬だけこちらを振り返る。
そして顎で後方を示した。
——行け。
口には出さない。だがその目がそう言っていた。シヴェリアの胸が痛む。
(置いていけるわけがない。)
そう思った瞬間。ヴァルアの体が大きく揺れた。瘴気の衝撃を受け、片膝をつく。
「ヴァル!」
シヴェリアが踏み出しかける。しかしヴァルアはすぐに立ち上がった。歯を食いしばり、血の滲む腕で再び魔法陣を展開する。炎が爆ぜ、押し寄せた瘴気が光魔法によって浄化され吹き飛ぶ。その背中は、あまりにも遠かった。
「行くぞ。」
エルキアが悔しそうに拳を握ったまま言う。シヴェリアは唇を噛み、頷くしかなかった。学生部隊が次々と転送陣へ向かうと光が足元に広がり、戦場の景色が揺らぐ。
最後に見えたのは、黒い瘴気の海の中で一人立ち続ける銀髪の背中だった。転送の光が視界を覆う。
次の瞬間、冷たい石畳の感触が足裏に伝わった。
転送先に指定されていた後方都市の広場。先ほどの喧騒や負傷者の呻き声が響く地獄のような戦場が、まるで幻だったかのように遠い。だがシヴェリアの耳には、まだヴァルアの声が残っていた。
『死ぬなよ。』
その言葉だけが、胸の奥で何度も反響していた。転送陣の光が消え、シヴェリアとエルキアはしばらくその場から動けなかった。
耳の奥にまだ轟音が残っている。
つい先ほどまで、ヴァルアはあの黒い瘴気の海の中にいた。
「……帰ってきちゃったな。」
エルキアが悔しそうに呟く。シヴェリアは返事ができなかった。胸の奥がざわついている。自分の無力さを痛感し、悔しさが込み上げる。
(ヴァル、あんな怪我でまだ戦って……。)
その時だった。ふわり、と美しい赤を纏った光が二人の間を舞った。ヴァルアの通信蝶だ。シヴェリアが息を呑みながら指を伸ばす。蝶は二人の前でゆっくり羽ばたき、シヴェリアの指に止まると聞き慣れた声を運んできた。
『よう、無事帰れた?』
普段とまったく変わらない気の抜けた口調。
だがその後ろでは、絶え間なく轟音が響いていた。
爆発音。
何かが崩れる音。
怒号。
そして瘴気が唸るような低い音。
彼女はまだあの場所に残って戦い続けている事実にシヴェリアの指先が震える。
『今ちょっと手離せなくてさ。もし時間あったら、レムたちの様子見に行ってやってくれない?』
ガガンッ、と近くで大きな衝撃音が走る。
『あーくそ、まだ湧くのかよ……。』
小さく舌打ちする声。
それでも次の瞬間には、もういつもの調子に戻っていた。
『ま、あいつら多分平気だと思うけど。よろしく。』
「ヴァル、あなた——」
シヴェリアが口を開く。しかし返事はない。
『じゃぁ。』
その一言と同時に蝶が光へ溶けて消えた。
学生部隊帰還による後方都市のざわつきは変わらず続いている。それなのに、二人には急に世界が遠くなったように感じられ、エルキアが拳を握りしめる。
「自分はあんな場所にいるのに、子どもたちの心配かよ……。」
シヴェリアは蝶が消えた空間を見つめたまま、小さく頷いた。
「行きましょう。」
「……ああ。」
二人は同時に踵を返す。
ヴァルアが守り続けている場所へ。
レムたちが待つ、結界の家へ向かって走り出した。




