無記名の答案
書斎で本を読むヴァルアを見てからシヴェリアの胸の奥にはずっと引っかかっているものがあった。
学園では自分が主席。教師からも次期族長として期待されている。自己研鑽は欠かさず行っており、自分の力には自信がある。
それでも——。
(ヴァルに勝てる未来が、全然見えない。)
魔法理論を話せば先回りされる。
歴史を語れば別視点を返される。
結界術に至っては、何をどう学べばそこへ辿り着けるのか想像すらできない。目の前でのんびりと子どもたちが食べるりんごを剥いているこの子の実力を結果として知りたいと言う気持ちが日に日に募っていった。
「……ねえ、ヴァル。」
ある日、シヴェリアは鞄から分厚い冊子を取り出した。
「これ、解いてみない?」
シヴェリアにずいっと冊子を差し出され、ヴァルアは渋々表紙を見て眉をひそめた。
「学園の総合試験問題?」
「そう。最高学年用。」
「……え、めんどくさ。やだよ。」
そう言いながら受け取らずにそのまま手で突き返した。
「お願い!」
「嫌だ。私には必要ない。」
「お願い!」
「……。」
結局、あまりにも必死なシヴェリアの剣幕に押し切られる形でヴァルアが了承することになった。
氷の里、本邸書庫。
窓から差し込む夕陽が長い影を落としていた。
シヴェリアは扉の前で一度深呼吸し、静かにノックする。
「入りなさい。」
父——氷の族長は書類から顔を上げなかった。シヴェリアは机の前へ進み、背筋を伸ばす。
「お父様。お願いがあって参りました。」
「言いなさい。」
簡潔な返事。
「学園の研究課題で、古い魔法理論の解析をしています。その……協力してほしい人がいて、その人の実力を測るため公平を期して本邸に招き、試験を解いてもらいたいのです。」
父の手がわずかに止まる。
「ヴァルア・セントフレアか。」
シヴェリアの肩がぴくりと震えた。
「……やはりご存知でしたか。」
「把握はしている。」
淡々とした口調だった。
シヴェリアは小さく息を吐く。
「お前は次期族長候補だ。交友関係を確認するのは当然だ。」
責める声ではない。ただ事実を述べているだけだった。
シヴェリアは父を見つめる。
「反対、されないのですか。」
父はゆっくり顔を上げた。
「私は混血かどうかで人を判断しない。」
静かな声。
「判断基準は、お前が信頼に足る人物だと見なしたかどうかだ。」
シヴェリアの喉が小さく鳴る。父は続けた。
「だが勘違いするな。」
父と目線が合い空気が引き締まった。
「本邸へ招く以上、その者の行動について責任を負うのはお前だ。」
厳格な声音。
「はい。承知しております。」
シヴェリアも真っ直ぐ答える。
「軽い気持ちで頼んでいるわけではありません。」
父は数秒娘を見つめ、やがて短く頷いた。
「なら許可する。」
それだけだった。シヴェリアは深く頭を下げる。
部屋を出る直前、父が静かに付け加えた。
「シヴェリア。」
「何でしょう。」
「お前が自ら許可を取りに来たことは評価する。」
振り返ると、父は再び書類へ視線を落としていた。それ以上の言葉はない。だがシヴェリアには十分だった。父は最初から知っていた。知った上で、娘が自分の責任で判断するのを待っていたのだと。
試験問題を解く場所はシヴェリアの実家、氷の里の族長の本邸。うわっ、流石に広いな…と驚きながらヴァルアは初めてシヴェリアの自宅へ足を踏み入れた。
不正がないことを示すため、エルキアと族長の側近も同席し、記憶結晶を使ってその様子を撮影する。
「本当にやるのか……。」
あまりにも物々しい雰囲気にげんなりしたヴァルアは机に突っ伏しそうになりながらぼやく。
「やる。」
シヴェリアは真剣だ。側近は露骨に懐疑的な目を向けていた。混血。しかも正式な教育を受けていない娘。学園最高難度の試験など解けるはずがない。そんな空気が部屋に漂っている。
「時間、測るぞ。」
エルキアが砂時計をひっくり返した。カリ、とペン先が鳴る。最初は面倒そうだったヴァルアの手が、徐々に迷いなく動き始める。
計算問題。
魔法陣解析。
結界構築。
属性干渉理論。
論述。
途中で一度も止まらない。
側近の表情が少しずつ変わっていく。シヴェリアは黙って見つめ続けた。彼女だけは知っていた。ヴァルアが本気で考え始めると、周囲の時間が遅く感じることを。
試験問題を解き始めて数時間後。
「終わった。」
ヴァルアはペンを机に転がし、椅子にもたれかかった。
はーーっと大きなため息が漏れる。
「肩凝った。疲れた。」
「見せて。」
シヴェリアは答案を受け取り、ページをめくるたびに呼吸が浅くなる。計算はほぼ完全。しかも解法が美しい。特に論述問題。
設問は『大規模災害発生時における多属性里連携の最適化』。
ヴァルアの答案には、
* 里間通信遅延
* 結界維持コスト
* 人員損耗率
* 属性相性による封鎖順序
まで具体的に記されていた。
まるで実際の現場を見てきた者の文章だった。シヴェリアが持つ答案を横から覗いていた側近が思わず身を乗り出す。
「これは……誰に教わった?」
ヴァルアは首を傾げた。
「現場。」
それだけだった。
⸻
数日後。
シヴェリアは答案から名前を切り離し、学園へ持ち込んだ。
「先生、この論述を見ていただけますか?」
老教師は何気なく受け取り読み始め、数分後。
「誰が解いた…?」
老教師の低い声が静かな教員室の中に響いた。もう一人の教師が興味を持ったのか答案の一部を手に取り読み始めるとみるみる顔が答案は近づき、次々とページをめくった。
「…この答案を書いた者を今すぐ連れて来い!」
シヴェリアは平静を装う。
「匿名で評価していただきたかったので。」
教師は興奮したままページをめくる。
「理論だけではない。実戦を知っている書き方だ。しかも既存の教本にない発想がある……!」
私にも見せてくれ!と別の教師も答案を奪うように読む。
「魔法陣解析も満点だ。」
「いや、満点以上だ。」
「一体どこの研究機関の者だ!?この答案、研究資料として保管したい…!」
問い詰められても、シヴェリアは首を振る。
「回答者の名前は言えません。」
教師たちはなおも騒ぎ続けた。
教員室を出たシヴェリアは、胸の前で答案を抱きしめる。
嬉しかった。
悔しくもあった。
誇らしかった。
そして少しだけ泣きたくなった。
(ほらね。)
心の中で呟く。
(ヴァルは、本当にすごいんだから。)
その頃ヴァルアは、レムたちと庭でリンゴを剥きながら欠伸をしていた。自分の答案が学園中の教師陣を騒がせていることなど、まるで知らずに。




