勤勉な彼女
植木鉢事件からしばらく経ち、ヴァルアの体調もだいぶ落ち着いてきた頃。シヴェリアは気がつけば以前より頻繁に結界の中へ通うようになっていた。その日もいつものように家の前へ立ち、声をかける。
「こんにちは。」
返事はない。代わりにぱたぱたと軽い足音がして、トアが顔を出した。
「あ、シヴェル姉!」
「こんにちは。ヴァルはいる?」
トアは首を傾げる。
「んー、さっきまでいたけど……多分離れで本読んでるよ。」
「離れ?」
シヴェリアは少し意外そうな顔をした。ヴァルアが読書をすることは知っていたが、いつも窓辺で適当に本を眺めている印象だった。
「どこで読んでるの?」
「離れの書斎!」
トアが元気よく指差す。シヴェリアは案内されるまま家の奥へ進んだ。その途中で、彼女は足を止める。窓の外に広がる景色が目に入ったからだ。鍛錬場までは見たことがあったが、その他は見たことがなかった。
広い。思わず息を呑むほど。
結界の内側は、外から見える森とはまるで別世界だった。
鍛錬場以外にも薬草畑。
水路まで整備されている。
「これ……全部ヴァルたちの?」
「うん!ヴァル姉が手入れしてる!」
トアが得意げに胸を張る。
シヴェリアは言葉を失った。街外れにひっそり暮らすための小さな家だと思っていた。だが実際は、小さな領地のようだった。さらに廊下を進む。突き当たりの扉が少し開いていた。中から紙をめくる音が聞こえる。シヴェリアはそっと覗き込んだ。そして完全に固まった。
壁一面を埋め尽くす本棚。
天井近くまで積み上げられた蔵書。
机にも床にも本が積まれている。
学園の図書室に匹敵する量だった。
その中心でヴァルアが一冊の本に没頭している。
銀髪がさらりと肩に落ち、赤い毛先が光を受けて揺れた。声をかけても気づかない。それほど集中してるようだった。シヴェリアは無意識に机の上の本へ目を落とす。
『高位結界術式における多層魔力循環理論』
「……え?」
さらに開かれているページを見る。複雑な魔法陣。数式。属性干渉の論述。学園の上級研究課程で扱う内容だったシヴェリアは震える指で別の本の背表紙を読む。
『古代属性融合論』
『魔力侵食と浄化反応』
『戦術結界応用史』
どれも専門書ばかり。しかも何冊も栞や書き込みが入っている。読んだ形跡ではない。読み込んだ形跡だった。以前子どもたちが自慢げにヴァルアの知識量について話していたことが記憶に蘇る。
「ヴァル……。」
思わず声が漏れたその瞬間、ヴァルアがぴくりと肩を動かした。
「……ん?」
ようやく顔を上げる。シヴェリアと目線が合う。
「シヴェル?来てたのか。」
あまりにも自然な声。シヴェリアは本を指差した。
「な、何読んでるの……?」
ヴァルアは表紙を見て答える。
「結界の本。」
「結界の本ってレベルじゃないわよ!?」
ヴァルアは「そうなのか?」と言いながらきょとんとした。読んでいる本の難易度について、全く理解していない様子がうかがえた。
「これ、多分学園の研究室にしかないような内容よ!?」
「父さんの本だからな。あの人、学者だったみたいでなんか研究してたらしいし。」
さらりと言う目の前の人物にシヴェリアの背筋にぞくりとしたものが走る。
(父さん……?)
この蔵書を集められる人。この知識を持つ中枢機関の所属でヴァルアを育てた人物は、一体何者だったのか。ヴァルアは再び本へ視線を落とした。
「静かだったから集中できてたのに。」
ぶつぶつ言いながらページをめくる。シヴェリアは呆然とその横顔を見つめる。学園に通えなかった少女。教育を受けられなかった混血。そう思い込んでいたが違った。誰にも見せず、誰にも認められず、それでも一人で学び続けていたのだ。机の端には使い込まれた木剣が立てかけられていた。
本と剣。
知識と鍛錬。
その両方が当たり前のように同じ場所にある。その時、シヴェリアの視線が机の端で止まった。分厚い専門書の隣に、小さな金属片が並べられている。
銀色の輪。
掌に収まるほどの透明な結晶。
細い魔力線が蜘蛛の巣のように刻まれた薄板。
ヴァルアは本を読みながら、無意識のような手つきでその部品を組み替えていた。
「それ、何?」
シヴェリアが尋ねる。
ヴァルアはちらりと手元を見て肩を竦めた。
「子どもたち用。」
「おもちゃ?」
「まあ、そんなもん。」
答えになっていない返答をしながらヴァルアは結晶を輪へ嵌め込み、指先で軽く魔力を流した。淡い光が一瞬だけ灯る。
ぱちり、と小さな音がしてすぐに光は消えた。
「また失敗か。」
彼女は独り言のように呟き、慣れた手つきで部品を外す。シヴェリアは首を傾げた。複雑な魔力回路に見えたが、用途を想像することもできなかった。
「そんなものまで自分で作るの?」
「買うより早い。」
ヴァルアはそれ以上説明せず、再び本へ視線を落とした。
そんな様子にシヴェリアは苦笑する。相変わらず不思議な人だ。そう思いながらも、彼女は机の上の小さな装置から目を離せなかった。
そしてシヴェリアはようやく理解した。ヴァルアの強さは才能だけではない。自分が知らない場所で積み重ね続けた、途方もない努力の上に成り立っているのだと。




