投げられた敵意
ヴァルアが怪我から目を覚ます数時間前。
家に残された子どもたちは一日を過ごしていた。
「ヴァル姉、まだ帰ってこないね……」
ヴァルアが家を出発してから2度目の朝。
『明日の朝には帰れると思う』
そう言って笑った顔が、子どもたちの頭から離れない。
トアは窓辺に座ったまま外を見つめ、ライアは落ち着かない様子で部屋を歩き回っていた。ヴァルアは帰宅時間を必ず伝えて外出し、今までそれを破ったことは一度もなかった。
「さがしにいこうよ。」
最初に口を開いたのはライアだった。
「でも、ヴァル姉が外はダメって……」
「ヴァル姉が帰ってこない方がダメだ!」
沈黙の末、レムは小さく頷いた。
三人は深くフードを被り、髪と顔を隠して結界を抜けた。自分たちが街に出られない理由はヴァルアから説明を受けていた。初めて出る街。街は思ったより眩しかった。パン屋からは甘い香りが漂い、人々の笑い声が聞こえる。
「迷子かい?」
最初、店の女将は優しく声をかけてくれた。
「お母さんは?」
トアはしどろもどろになりながらも、ヴァルを探していることを伝えようとした。その時だった。ひゅう、と風が吹いた。ライアのフードが外れる。金色の髪。
次いでレムの赤みの強い髪、トアの深い青の髪が覗いた。レムとトアは明らかに髪色と瞳に宿している属性が異なる色をしていた。
それを見た女将は目を見開き、周囲の空気が一瞬で変わった。
「……まさか…混血?」
「知らない混血の子どもが三人もいるぞ!」
ざわめきが広がる。
レムは反射的に二人を背中に庇った。
⸻
少し離れた通りで、学園帰りに再びヴァルアの家に向かおうとしていたシヴェリアとエルキアが歩いていた。エルキアは学園で事情を聞き、自分も同行すると名乗り出てくれたのだ。
「ヴァル…入れてくれるかしら…。」
2日前のやりとりが頭を離れず、暗い顔をするシヴェリア。
「もう少し、事情を聞いてみようぜ。あいつも色々考えてるんだろ。話せば分かるさ。」
エルキアはそう言いながら腕を後頭部に回す。
「あいつが急に怒るなんて、絶対に事情が…」
そう言いかけた時だった。
『混血の子どもが三人もいるぞ!!!』
大人の叫び声とざわめきが聞こえた。混血、という言葉がはっきりと耳に入る。あの家で笑っていた人懐っこい、可愛い三人が脳裏をよぎる。
「今の声……!」
シヴェリアとエルキアの顔色が変わる。
声の方向へ駆け出すと人垣の隙間から見えた小さな背中に、彼女は息を呑んだ。
「レム!?」
人混みの前列にいた男が怒鳴った。
レムが震えながらトアとライアを庇い、必死に立っている。
「穢らわしい!!!どこかへ行け!」
そう怒鳴りつけると男が店先にあった植木鉢を乱暴に掴み振り上げる。
「やめて!!」
シヴェリアは手を伸ばした。エルキアも魔法で加速を試みるが間に合わない距離。レムはトアとライアを抱き寄せ、三人はぎゅっと目を閉じた。
その瞬間。
バリンッ!!
激しい破砕音。土の匂い。
何かが砕け散る音が耳に刺さる。だが、痛みが来ない。
恐る恐る目を開けた。目の前には、三人を抱え込むように覆いかぶさったヴァルアの背中があった。銀髪が乱れ、額から赤い血が伝っている。ヴァルアの頭に当たって砕けた植木鉢の破片が足元に散らばっていた。街がしん、と静まり返る。
ヴァルアはゆっくりと顔を上げた。血が頬を伝っても、その声は不思議なほど静かだった。
「私の家族だ。」
誰も声を出せない。ヴァルアは植木鉢を投げた男へ向き直り、深く頭を下げた。
「これから来ることもあると思うので、お手柔らかに頼む。」
責める言葉は一つもない。それがかえって周囲の胸を締めつけた。ヴァルアはすぐに子どもたちへ向き直る。
「遅くなってごめんな。怪我はない?」
レムの目から涙があふれた。
トアは震える手でヴァルアの袖を掴み、ライアは唇を噛みながら首を横に振る。
「……ない。」
その瞬間、シヴェリアとエルキアはようやく三人の前に辿り着いた。
血を流しながら子どもを庇うヴァルアを見て、彼女の喉は言葉を失った。自分が「パン屋に行こう」と軽く言った世界と、ヴァルアが自分1人で守っていた世界が、初めて完全に重なったのだった。
街に満ちていたざわめきは、まだ誰の喉にも戻っていなかった。
ヴァルアはゆっくりと立ち上がると、ライアを抱き抱えた。もう片方の手でトアの小さな手を握る。シヴェリアたちのことには気がついていない様子だった。
「レム、行こう。帰ろう。」
額から血が流れているのに、ヴァルアはいつものようにニコッと笑った。レムは唇を噛み、涙を堪えながら頷く。四人は静まり返った街を背に歩き出した。シヴェリアもエルキアも、すぐには追いかけられなかった。ただ、遠ざかっていく背中を見送るしかなかった。やがて姿が角を曲がって消えると、エルキアが低く呟いた。
「……何があった?」
二人は周囲の住民から事情を聞いた。投げられた植木鉢。
混血だと知った途端に変わった人々の態度。そして、血を流しながら子どもたちを庇ったヴァルア。相手は混血なのだ。しかも他にもいることを隠していた。植木鉢を投げたことの何が悪いのか、とヒソヒソと話す街の人たち。三人の中に完全な純血のライアがいたことなど全く気がついていない様子だった。
シヴェリアの指先が小さく震えた。
「……私のせいだ。」
ぽつりと零れた言葉に、エルキアは何も返さなかった。返せなかった。
ヴァルアは子どもたちを連れて街を離れ、森の静けさが戻る。結界の気配が近づいた頃、ライアがヴァルアの服をぎゅっと掴んだ。
「ヴァル姉、僕もう平気だよ。おろして。血が……。」
声は泣き出す寸前だった。トアも不安そうに見上げる。レムは何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。ヴァルアの呼吸が浅く、話しかけてもほとんど返事がない。歩幅も少しずつ乱れている。任務で負った傷が開き、血は止まっていなかった。それでも彼女は足を止めない。
あと少し。
結界の中に入れば——。
その時だった。
「ヴァル!」
後方からシヴェリアの声が響いた。ヴァルアの肩がぴくりと震える。ゆっくり振り向いた。
虚な目がシヴェリアの姿を認めた瞬間、張り詰めていたものがふっと切れ、膝が崩れる。ライアを庇うように抱えたまま、ヴァルアは地面へ倒れ込んだ。
「ヴァル姉!」
三人の悲鳴が重なる。シヴェリアは駆け寄り、血に濡れた体を抱き起こした。呼吸はある。だが意識はない。
「エルキア、手を貸して!」
「わかった!レム、結界を開けられるか?」
「うん!」
レムは震える手で結界を開いた。
淡い光が揺れ、隠されていた家への道が現れる。
慣れた様子で部屋へ入り、エルキアはヴァルアを抱えてベッドへ横たわらせる。そしてエルキアは三人の前にしゃがみ込み、努めて明るい声を出す。
「よし、ヴァルが起きた時に腹減ってたら困る。お前ら、何か食えるものあるか?」
トアは涙を拭きながら小さく頷いた。ライアはヴァルアの方を見たまま動けない。レムが二人の肩を抱く。それをまとめてエルキアが抱きしめた。
「間に合わなくてごめんな。もう大丈夫だから。」
一方シヴェリアは、震える手を押さえ込みながら治療具を広げた。
植木鉢がぶつかった額の傷だけではない。
ヴァルアを寝台へ横たえた瞬間、シヴェリアの手が止まった。服が血で張り付き、腹部から腰にかけて深紅に染まっている。腹部の服を裂こうと手を伸ばした次の瞬間。
息が止まった。
「——っ。」
そこには、刃物で裂かれたなどという生易しいものではない傷があった。腹を貫き、背まで抜けたような穴があった。焼け焦げた肉。瘴気に侵された黒ずんだ傷口。呼吸に合わせてかすかに血が滲む。シヴェリアの頭が真っ白になる。
(うそ……。)
学園で応急処置は何度も学んだ。切り傷、骨折、魔力火傷
だがこんな傷は見たことがない。教本なら最初に“即死”と書かれているような状態。
「こんな……。」
思わず声が漏れた。ヴァルアはこれで走ったのか。子どもたちを抱きしめ、結界まで戻ってきたのか。シヴェリアの視界が揺れる。
「シヴェリア、お湯とかなにか必要なものは…」
子どもたちを落ち着かせ、一旦様子を覗きにきたエルキアが傷を見て絶句した。
「な、んだよ……これ……。」
彼の顔から血の気が引く。シヴェリアは唇を噛んだ。
「貫通してる……。」
「生きてるのか?」
その問いにすぐ答えられなかった。震える指をヴァルアの首筋へ当てる。弱い。けれど、脈はあった。
「……ある。」
シヴェリアは必死に呼吸を整える。
「まだ脈がある。」
自分に言い聞かせるように繰り返す。エルキアが拳を握りしめた。
「こんな傷で、こいつ動いてたのかよ…。」
シヴェリアは震える手で浄化魔法を展開した。学園で習ったことを頭で何度も復唱し、丁寧に、失敗のないように。青白い光が傷口を包む。しかし黒い瘴気がじゅうっと音を立てて抵抗した。
「……っ!」
シヴェリアの氷の魔力が弾かれる。
「何これ……!」
「瘴気か?」
「ううん、違う。瘴気だけじゃない……光属性が混ざってる。」
シヴェリアは目を見開いた。
浄化の光と侵食の瘴気が、傷口の中でせめぎ合っている。
普通なら侵食されて終わる。だがヴァルアの体内では、光が必死に命を繋ぎ止めていた。
「だから……生きてるの……?」
シヴェリアは呆然と呟いた。涙がぽたりとヴァルアの手に落ちる。
「ヴァル……あなた、今までどんな戦いをしてきたの。」
返事はない。
寝台の上の少女は浅い呼吸を繰り返すだけだ。
シヴェリアは涙を拭い、深く息を吸った。
「泣くのは後。」
手を強く握り直す。
「絶対助ける。」
その言葉は、ヴァルアへ向けた誓いであり、自分自身への命令でもあった。
⸻
治療を終えた部屋には、薬草の匂いが静かに漂っていた窓の外では夜風に木々が揺れている。ベッドに横たわるヴァルアの呼吸は変わらず浅いが、先ほどよりは幾分落ち着いていた。シヴェリアは椅子に腰掛けたまま、濡れた布を絞り、そっと額に当てる。触れた肌は熱かった。
「……。」
何度目かわからない謝罪の言葉が喉まで込み上げる。だが今は眠っていてほしい。そう思った時、ヴァルアのまつ毛がかすかに震えた。
「……ん……。」
ゆっくりと瞼が開く。
ぼやけた視線が天井をさまよい、やがてシヴェリアを捉えた。
「……ジヴェル……?」
掠れた声。
シヴェリアは慌てて身を乗り出した。
「起きたのね!」
ヴァルアはわずかに眉を寄せ、辺りを見回す。
「……三人は?」
最初に出た言葉が自分のことでも何でもなく、子どもたちのこと。シヴェリアの胸が締めつけられる。
「大丈夫。怪我はないわ。今はエルが寝かしつけてくれてる。」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァルアの肩から力が抜けた。
「……そっか。」
ほっと息を吐き、再び目を閉じかける。シヴェリアは唇を噛んだ。今しかないと思った。
「ヴァル。」
か細く呼び止める声にヴァルアが薄く目を開けた。シヴェリアは両手を膝の上で強く握り締める。
「本当に、ごめんなさい。」
声が震えた。
「私の考えが、どうしようもなく浅はかだった。」
涙がぽたりと落ちる。
「あなたたちが受けてきた酷い仕打ちを、知った風でいただけだった。」
また一粒。
「私は何も知らなかった。」
「あなたがどうしてあんなに必死に止めたのかも。」
「どうして街へ連れて行きたくなかったのかも。」
肩が小さく震え、ぽたぽたと涙が溢れる。
「今日、あの子たちが植木鉢を投げられそうになった時……私、何もできなかった。」
「あなたばかりが血を流して……。」
とうとう堪えきれず、シヴェリアは俯いた。
「本当に、ひどいことをした。」
寝室には静寂が流れた。夜風の音だけが聞こえ、ヴァルアはしばらく黙っていた。やがて、弱々しく手を伸ばし俯いたままヴァルアと目線が合わせられないシヴェリアの袖を軽く引いた。
「……別に。」
優しい声にシヴェリアが顔を上げる。
ヴァルアは困ったように笑った。
「知る必要のない世界だからな。」
その笑顔がかえって痛かった。
「お前が悪いわけじゃない。」
「でも……!」
「終わったことだよ。」
静かな声に責める色はどこにもない。今までもそうやって耐えてきたのだろうか。
「それに、あいつら。」
ヴァルアは天井を見上げた。
「ジヴェルが来ると、すげぇ楽しそうなんだ。」
少しだけ口元が緩む。
「だからまた、好きな時に来てやって。」
ヴァルアの言葉にシヴェリアの目が見開かれる。
「え……?」
「結界も自由に出入りできるようにしとく。」
「……いいの?」
「あぁ。」
ヴァルアは目を細めた。
「子どもたち、友達できたの初めてだから。」
その言葉で、シヴェリアの瞳から再び涙が溢れた。自分が傷つけたはずの相手が、自分を拒絶しない。その優しさが胸を締めつける。
「……ありがとう。」
震える声でそう言うのが精一杯だった。ヴァルアは小さく「おう」とだけ返し、ゆっくり目を閉じ、呼吸が穏やかになっていく。眠ったのを確認して、シヴェリアはそっと涙を拭った。
「ヴァル、寝た?」
ドアの向こうから小声で様子を伺うエルキア。
シヴェリアが頷くと、彼は静かに部屋へ入ってくる。
「三人とも寝た。ライアなんて泣き疲れて抱きついたままだったぞ。」
シヴェリアはまた俯いた。
「わたし、本当にバカだった。」
エルキアは壁にもたれ、腕を組む。
「俺も似たようなもんだ。」
「エルは魔法を使ってちゃんと助けようとしたじゃない。」
「間に合わなかったけどな。」
自嘲ぎみに苦笑したエルキアは少しの沈黙の後、真面目な顔になる。
「俺たちで何ができるか、正直わかんねぇ。」
「うん……。」
「でも、やれることはやってみようぜ。」
シヴェリアが顔を上げる。
エルキアはヴァルアを見た。
「俺たち、これから族長になる予定なんだろ?」
その言葉が重く落ちる。
「なら、見て見ぬふりはできねぇよ。」
シヴェリアは唇を噛み、そしてゆっくり頷いた。
「……うん。」
窓の外では夜明け前の風が吹いていた。その静かな部屋で、二人は初めて「いつか世界を変えたい」と同じ方向を向いた。
「私はもう少し様子を見るわ。エルも残れるなら子どもたちといてくれる?」
ジヴェルがそう尋ねるとエルキアは当たり前だと答えた。
「けど俺らも昼から何も食ってないからな、一旦食い物買ってくるわ。」
くぁっと、欠伸をして部屋を出た。
エルキアに手を振るとシヴェリアもふうっと息を吐いた。できるところまでは治療した。あとはヴァルアの回復力次第。そう考えてるとふとヴァルアの私室に入ったのは初めてだったことを思い出した。
これまで何度も結界の家へ来ていたが、子どもたちと過ごす居間までしか足を踏み入れたことはない。
質素な部屋だった。必要な物だけが整然と置かれ、本棚には難解そうな書物が隙間なく並んでいる。寝台の横には小さな机。シヴェリアは部屋を見渡すと、視線が止まった。
机の隅に、白い布が丁寧に畳まれていた。
見覚えがあるそれをそっと手に取る。角に小さく刺繍された雪の紋章。
——あの日、自分が渡したハンカチだった。
『……返さないかもしれないぞ。』
『その時はまた会いに来るわ。』
ヴァルアは返さなかった。
でも、捨ててもいなかった。洗われ、皺ひとつなく畳まれ、大切そうに机の上へ置かれている。シヴェリアの胸がきゅっと締めつけられる。
(返すつもりだったのね。)
その時、不意に別の記憶が重なった。ずぶ濡れのヴァルア。泥水の匂い。擦り傷だらけの手。
『あー、川落ちた。』
シヴェリアはゆっくりと顔を上げた。
寝台で眠るヴァルアを見る。腹部を貫くほどの傷を負いながら子どもたちを守った少女。瞬時に転移魔法という高度な魔法を行使できる少女。学園でも指折りの戦闘力を誇るエルキアを簡単に負かす少女。
そんな人が、本当に橋から落ちるだろうか。
指先に残るハンカチの柔らかな感触が、答えを告げている気がした。川ではない。あれはきっと——誰かに水を浴びせられたのだ。泥をかけられたのだ。店先で追い払われたのだ。それに気がつくとシヴェリアの視界が滲む。
あの日、自分は何も気づかなかった。ヴァルアは笑って誤魔化した。いつもの無愛想な顔で、何事もなかったように歩いていた。
「私は……。」
声が震える。
「私は、本当に何も知らないバカだったのね。」
シヴェリアはそっとハンカチ丁寧に元の場所へ戻した。ヴァルアがそうしていたように。そして眠る友人の手を静かに握った。今度こそ、この人が一人で痛みに耐えなくて済むようにと願いながら。




