異変
ジヴェリアとの先ほどの会話、苛立ちの行き場がない。
足早に森を抜け、今回の討伐対象の近くの待機地点へ向かう。
そこには既に傭兵団の面々が集まっていた。瘴気避けの外套を纏った者たち。武器の手入れをする者。結界杭を確認する者。その中からひょいと長身の男が顔を出した。
「お、ヴァル。」
緑がかった黒髪を揺らしながら近づいてくる。ジルだった。彼はヴァルアの顔を覗き込み、目を細める。
「お前、今日は一段と柄が悪い顔してんな。大丈夫か?」
ヴァルアは即座に顔を背けた。数年来の付き合いになるジルは慣れたように肩を組む。
「うるさい。」
「図星かよ。」
ヴァルアがジルを振り払うと、本当に機嫌が悪いことを察してかジルが肩を竦める。そこへ団長の低い声が飛んだ。
「全員聞け。今回の狭間についてだ。」
ざわついていた空気が引き締まる。団長は討伐対象方向を睨みつけた。
狭間、狭間体———世界に生じる空間の亀裂から流出する黒い生命体、およびそれに伴う災害現象の総称。
「今回も規模は小さい。だが気を抜くな。」
周囲を見渡す。
「最近やたらと数が多い。」
誰も返事をしない。それだけ異常が続いていた。ジルはヴァルアへ視線を向けた。
「ヴァルア、お前はこの数の多さをどう見る?」
ヴァルアは腕を組み、しばらく黙った。そしてぼそりと言う。
「異常。」
団員たちが顔を上げた。
「今までは、有象無象が勝手に湧いてくる感じだった。」
こめかみを押さえる。頭痛がする。
「でも最近は違う。規模は小さいのに、狭間体たちの動きに統率がある気がする。」
ジルの瞳がわずかに見開く。
(そこまで見えてんのか……。)
団長も無言で耳を傾けていた。ヴァルアは続ける。
「群れじゃなくて、誰かに指示されてるみたいな感じ。」
その言葉に全体は不穏な沈黙をした。
「アンジールもそんなこと言ってたよな?」
前方で剣を整えていた男が振り向いた。年長の団員、アンジール。彼は顎に手を当てる。
「俺はお前らより長くあれと戦ってるが……。」
少し考え込み、低く呟いた。
「確かに、最近は意思を感じる。」
「だよね。」
ヴァルアが眉をひそめる。
今まで戦ってきた狭間体はただ目の前の相手に飛びかかってくる単純な攻撃だけだった。集団で特定の人物を襲ったり、それぞれが役割を持って動いているような様子は全く感じなかった。しかし最近は狭間体の動きに知性のようなものを感じることが増えた。
「やな感じ。」
団長が短く命じた。
「警戒を一段上げる。前衛はヴァルア、アンジール。後衛はジルを中心に結界支援。」
「了解。」
低い返答が重なる。
⸻
やがて一行は狭間体が密集する地帯へ向かった。空気が重い。鼻の奥を刺すような臭気。地面に広がる黒紫の靄。空間そのものが裂けたような黒い亀裂が脈打っていた。
「っ……。」
ヴァルアが顔をしかめる。
(今日は濃い。)
魔力がざらつき、頭痛が強まった。アンジールが前方へ進み、裂け目を覗き込む。
「おい、ヴァルア。」
「ん?」
「奥を見ろ。」
彼の指差す先。亀裂のさらに奥、空間の深部に細い裂け目が見えた。そこから黒い瘴気が糸のように溢れ出している。
「なんだ、あれ……。」
今まで見たことのない形態の狭間体に警戒しながらアンジールが一歩近づいたその瞬間、ぞわっとヴァルアの背筋に悪寒が走った。
「アンジール!!」
ヴァルアの叫びと同時に奥の亀裂が大きく脈動し、黒い腕のような瘴気が飛び出した。アンジールが反応するより早く、ヴァルアが彼を突き飛ばした。
ドスっとした鈍い音と共に、黒い瘴気の槍が、ヴァルアの腹部を貫いていた。
「ヴァル!!」
ジルの声が響く。貫かれた腹部から血が溢れるのを感じた。ヴァルアは苦痛に顔を歪めながらも、槍を掴んで引き抜こうとした。
「触るな!!」
団長が叫ぶ。
「侵食される!」
瘴気がじゅう、と音を立てて傷口へ染み込む。ヴァルアは顔を歪め、視界が揺れた。ヴァルアより軽いが濃い瘴気を全身で浴びたアンジールが地面を這うように近づく。
「なんで……!」
「足元、見えてなかっただろ……。」
ヴァルアが息を切らす。
「おっさん、鈍いんだよ……。」
ジルが彼女を抱え起こす。
「喋るな!」
周囲では団員たちが必死に結界杭を打ち込んでいた。団長が大剣を地面へ突き立てる。
「封印術式展開!」
光が走るり、亀裂が暴れる。
光の術式に抗うように黒い瘴気が噴き出すが団員たちが一斉に魔力を注ぎ込んだ。
轟音。
閃光。
亀裂はぎりぎりで閉じ、全員が安堵の息をつく。
静寂と共に残ったのは濃密な瘴気だけだった。
アンジールはその場に倒れ込み、ヴァルアジルの腕の中で意識を失いかけていた。
「急げ!」
団長が怒鳴る。
「二人とも運べ!治療班を呼べ!」
ジルはヴァルアを抱え上げる。普段なら軽口を叩く彼が、今は一言も発さない。腕の中の体温がどんどん失われていくのを感じ、感じたことのない焦りを覚えた。
「死ぬなよ、ヴァルア……。」
かすかな声が夜の森へ溶けていった。
瘴気の治療には、想像以上の時間がかかった。狭間由来の侵食は普通の傷とは違う。傷口を塞いでも、黒い瘴気がじわじわと体内へ染み込み、魔力そのものを蝕んでいく。治療班の光属性術師たちが何度も浄化を繰り返した。
「……よくこれで生きてるな。」
誰かが呟いた。
ヴァルアは炎だけでなく光属性も半分宿している。その浄化適性が侵食を抑え込み、かろうじて命を繋ぎ止めてるのであろう。もし純粋な炎属性だったなら、助からなかったかもしれない。
瘴気の治療には想像以上に時間がかかり、治療が終わりヴァルアの呼吸が落ち着いたのは翌日の日が落ちてからだった。
⸻
「っ……。」
ずきりと鋭い痛みが腹を走り、ヴァルアは息を呑み、ゆっくり目を開けた。目に入った景色は意識を手放した時とは全く異なる場所だった。見慣れない天井。薬品の匂い。
屯所の治療室だった。
喉が渇いている。体は鉛のように重い。
どれくらい眠っていたのか。ぼんやりした頭で周囲を見回すが、誰もいない。治療班も団員も出払っているらしい。窓から差し込む光に気づき、ヴァルアは目を細めた。
日が高い。
いや、高すぎる。
昼はとっくに過ぎている。
その瞬間、胸が冷えた。
(朝……。)
『明日の朝には帰れると思う。』
自分でそう言った言葉が脳裏をよぎる。私はどれくらい眠っていた?今まで、子どもたちとの約束を破ったことがなかった。どんな任務でも、どんな怪我でも、必ず約束を守り帰ってきた。だからこそ、嫌な予感が背筋を這い上がる。
「……まずい。」
無理に起き上がった瞬間、腹の傷が焼けるように痛んだ。
「ぐっ……!」
視界が白く弾け、嫌な汗が滴った。それでもベッドへ戻ろうとはしなかった。包帯の上から傷口を押さえ、ふらつきながら立ち上がり静まり返った廊下へ出た。
誰もいない…
ヴァルアは壁に手をつきながら屯所を抜け出した。外へ出ると眩しい陽光が目に刺さる。走るたび傷が軋む。それでも足は止まらない。
(何も起こらず、待っててくれよ…!)
街が近づくにつれ、人の声が聞こえ始めた。だがその中に、鋭い怒鳴り声が混じる。
「どこかへ行け!!」
ヴァルアの足が止まった。心臓が跳ねる。反射的に声の方へ顔を向け目に飛び込んできた見慣れた小さい影。
レム。
トア。
ライア。
人垣の中で怯えた三人の姿が目に飛び込んできて頭が真っ白になる。考えるより先に体が動き、ヴァルアの足元へ魔法陣が展開する。銀と赤の魔力が弾けた次の瞬間、ヴァルアの姿は人垣の中心へ消えていた。




