第9話 死者の罪
白幡玲司の笑みが、初めて止まった。
それはほんの一瞬だった。
目元の皺が固まり、唇の端がわずかに下がる。驚愕と呼ぶには小さい。恐怖と呼ぶには品が良すぎる。だが、今まで人を見下ろすように穏やかだった男の顔から、たしかに余裕が剥がれた。
第6証明を開始します。
証明対象。
久瀬誠一。
記録室の古いモニターに浮かんだ文字は、青白い光を放ちながら、白い壁を冷たく照らしていた。
地下の空気は重かった。
薬品と保存液の甘く腐ったような匂い。長い間換気されていない場所特有の湿った埃。壁の奥で微かに鳴る配管の音。地上ではまだ雨が降っているはずなのに、ここまで雨音は届かない。
そのかわりに、全員の呼吸だけが聞こえた。
藤崎玲奈は相良律の背後で震えていた。白い病衣の袖を握りしめ、唇を噛んでいる。白幡の姿を見るたび、彼女の肩は小さく跳ねた。怯えが体に染みついている。逃げようとしているのに、足が動かない。長く閉じ込められていた人間の恐怖だった。
久瀬美緒は、床に散らばった自分の記録ファイルを見つめていた。
7年前、白幡へ入っていた。
記憶保護処理を受けていた。
処理担当者は、夫の久瀬誠一。
その事実が、彼女の中でまだ形になっていないのが分かった。目は文字を追っているのに、心がその意味を拒んでいる。頬は青白く、指先は震えていた。けれど、白幡を見る視線だけは折れていなかった。
宮代啓介は、白幡から目を離さなかった。
刑事の顔だった。だがその奥に、父親の怒りが燃えている。娘の名前を軽々しく口にされた瞬間から、彼の中で何かが変わっていた。
相良はモニターを見つめた。
死んだ久瀬誠一が、自分自身を証明対象にした。
それはつまり、久瀬が自分の罪を隠す気などなかったということだ。
「白幡さん」
相良は言った。
声は自分でも驚くほど低かった。
「あなたは、これを知っていましたか」
白幡はすぐには答えなかった。
白いコートの袖についた埃を指で払う。その仕草は、異常なほど落ち着いていた。だが、先ほどまでの余裕はない。笑みは戻っているが、薄い膜のようだった。
「久瀬くんは、昔から演出過剰な男でした」
「質問に答えてください」
「知りませんでしたよ。死んだ人間が、ここまで準備しているとは」
「怖いですか」
白幡は目を細めた。
「相良さん。私は医師です。死者を怖がる年齢は、とっくに過ぎています」
「でも、生きている人間の証言は怖い」
白幡の笑みが少しだけ固くなった。
その反応を、相良は見逃さなかった。
モニターに機械音が走る。
古い記録媒体が読み込まれ、画面に久瀬誠一の映像が映った。
記録室と同じ場所だった。
日付は、死の5日前。
久瀬は白衣を着ていた。髪は乱れ、頬はこけ、目の下には濃い影がある。机の上には何枚もの記録ファイルが積まれていた。画面の奥に、白幡第0区画の棚が映っている。
映像の久瀬は、カメラを見ていなかった。
自分の手元のファイルを見ている。
『第6証明。対象、久瀬誠一』
声はかすれていた。
それでも、言葉ははっきりしていた。
『僕は、白幡第0区画の研究を完成させた』
美緒の肩が震えた。
「誠一……」
映像の久瀬は続ける。
『白幡医療財団は、記憶障害の治療という名目で、長年にわたり情動記憶の誘導実験を行っていた。人は何を見た時に恐怖するのか。どんな言葉で記憶を閉じるのか。どの程度の罪悪感を与えれば、本人は自分の記憶を疑い始めるのか』
相良の胃の奥が重く沈んだ。
久瀬の語りは、告発というより、研究報告に近かった。
だからこそ恐ろしかった。
罪を語っているのに、そこにはまだ科学者の冷静さが残っている。
『僕は最初、その研究を軽蔑した。人を治すためではなく、人を作り替えるための技術だったからだ』
映像の久瀬は、そこで短く笑った。
自嘲だった。
『だが、軽蔑していたはずのものを、僕は利用した』
美緒が口元を押さえた。
「やめて……もう、聞きたくない」
その声は小さく震えていた。
それでも、彼女は耳を塞がなかった。
映像は続く。
『僕には目的があった。7年前の事故。美緒が失った子ども。藤崎玲奈が目撃した交通事故。宮代沙季が突き落とされた事件。すべてに白幡玲司の影があった。だが、どれも証拠にならなかった』
白幡は黙っていた。
腕を組み、壁にもたれるように立っている。余裕を装っているが、目だけはモニターから離れない。
『だから僕は、《オルフェ》を作った。白幡第0区画の技術を、逆向きに使うために』
相良は息を呑んだ。
「逆向き……」
映像の久瀬が、まるで相良の声に答えるように続ける。
『白幡は、人の記憶に嘘を植えつけた。僕は、人の記憶に残った嘘の痕跡を暴こうとした』
相良の胸に、かすかな痛みが走った。
久瀬は最初から狂っていたわけではない。
間違っていた。
人を傷つけた。
許されないことをした。
それでも彼は、白幡を止めようとしていた。
その事実が、相良をさらに苦しくさせた。
人間は、悪人なら責めやすい。
だが久瀬は違う。
救おうとして傷つけた。
正そうとして壊した。
証明しようとして、誰かの人生を削った。
最悪だった。
それでも、ただの悪人ではなかった。
『僕の罪は3つある』
映像の久瀬が言った。
『1つ目。藤崎玲奈を救えなかったこと』
玲奈が小さく息を詰めた。
相良の背後で、彼女の指が病衣の袖を握りしめる音がした。
『2つ目。宮代沙季の記録を、父親である宮代啓介に渡さなかったこと』
宮代の喉仏が上下した。
彼は何も言わなかった。だが、手帳を握る指に力が入っている。
『3つ目』
久瀬は画面の中で、初めて顔を上げた。
カメラを真っ直ぐ見た。
『美緒。僕は君から、真実を奪った』
美緒は一歩後ずさった。
「いや……」
かすれた声だった。
「お願い、誠一……それ以上は、言わないで」
だが映像の久瀬は止まらない。
『7年前の事故の日、君は見ていた。白幡玲司が乗る車を。白幡の運転手が起こした事故を。そして、事故現場で白幡本人が言った言葉を』
モニターに、ノイズ混じりの音声が流れた。
男の声。
『見なかったことにしろ』
美緒の体が硬直した。
まるで、その言葉が体のどこかに直接触れたようだった。
彼女の目が大きく開き、呼吸が止まる。
次の瞬間、彼女は頭を抱えた。
「やめて……やめて、やめて!」
悲鳴に近い声だった。
相良が駆け寄る。
「美緒さん!」
「いや、違う……私、知らない。そんなの知らない!」
「美緒さん、ゆっくり息を」
「相良さん、違うの。私、覚えてないの。あの人の顔なんて、車なんて、何も……」
言葉が途中で切れた。
美緒の目から涙がこぼれた。
「でも……声だけ、知ってる」
白幡の顔から、完全に笑みが消えた。
宮代が白幡を睨む。
「白幡玲司。7年前の事故について、話してもらいます」
白幡は静かに息を吐いた。
「宮代刑事。あなたはまだ分かっていない」
「何がですか」
「記憶は証拠になりません」
「それは裁判で判断されることです」
「裁判まで行ければ、の話でしょう」
白幡の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさの奥に、冷たい刃のようなものがあった。
「藤崎玲奈は精神的に不安定。久瀬美緒は記憶処理の影響を受けている。宮代沙季は過去の被害者で、あなたはその父親。相良さんは元研究者で、久瀬くんと対立していた」
彼はゆっくりと全員を見回した。
「さて、誰の証言が信用されるでしょうか」
記録室が静まり返った。
白幡の言葉は、正しかった。
腹立たしいほどに、正しかった。
久瀬の言った通りだ。
証拠では足りない。
法では届かない。
だから久瀬は、死者になった。
自分の死を使って、世間に見せるしかなかった。
モニターの久瀬が、最後の言葉を告げる。
『律。僕は白幡を裁けなかった。だから、君に頼む』
相良は画面を見つめた。
『僕を許すな。だが、僕の証明を終わらせてくれ』
映像が乱れる。
久瀬の顔がノイズに崩れていく。
最後に表示されたのは、1つのファイル名だった。
MIO_MEMORY_ORIGINAL.
美緒の記憶、原本。
白幡が動いた。
相良より早かった。
彼は記録室の奥にある端末へ向かって手を伸ばす。
宮代が叫んだ。
「動くな!」
その声には、刑事の制止だけではない、父親としての怒りも混じっていた。
だが白幡は止まらなかった。
端末の横にあった赤いボタンを押す。
警告音が鳴った。
記録室の天井から、白い煙が噴き出す。
「消去システムです!」
相良は叫んだ。
棚の奥で、ハードディスクのランプが一斉に点滅し始める。
記録が消される。
藤崎玲奈の記録も、宮代沙季の記録も、美緒の原記憶も、すべて。
「おい、白幡!」
宮代が白幡へ飛びかかった。
白幡は抵抗しなかった。
ただ、穏やかに笑った。
「遅いですよ」
その時、美緒が床に落ちていたファイルを拾い上げた。
涙で濡れた目のまま、彼女はモニターを見つめていた。
「違う」
小さく呟いた。
相良が振り返る。
「美緒さん?」
「違う……誠一は、原本をここに置かない」
彼女の声は震えていた。
だが、そこには確信があった。
「あの人は最低だけど、こういう時だけは用心深い。私を傷つける時でさえ、無駄に用意周到だった」
相良は息を呑んだ。
美緒は涙を拭わずに、久瀬の映像が消えたモニターを指差した。
「相良さん。誠一があなたに頼んだなら、原本はあなたが見つけられる場所にあるはずです」
「僕が?」
「ええ」
美緒は真っ直ぐ相良を見た。
「あなたたちが喧嘩別れした場所。誠一があなたに、一番見られたくなかった場所」
相良の脳裏に、3年前の夜が蘇る。
第7実験室。
藤崎玲奈。
床に散らばった資料。
殴られた久瀬。
そして、あの時、久瀬が握りしめていた黒い記録端末。
相良は呟いた。
「第7実験室の旧型端末……」
白幡の顔が、わずかに歪んだ。
それが答えだった。
警告音が鳴り続ける中、相良は理解した。
久瀬誠一の罪は、まだ終わっていない。
そして、久瀬が本当に残した証明は、まだ研究センターに眠っている。
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