第8話 白い部屋
地下へ続く階段は、病院の奥に隠されていた。
表の案内板には載っていない。エレベーターの階数表示にも地下はない。廊下の突き当たり、使われていないリネン室のさらに奥。壁と同じ色に塗られた防火扉の向こうに、その階段はあった。
白幡第0区画。
扉に書かれたその文字は、古いペンキの上に後から塗られていた。雑ではない。むしろ几帳面な筆跡だった。だが、その几帳面さが気味悪かった。
まるで、ここに入る者は最初から決められている、とでも言うように。
午後6時58分。
相良律は、扉の前で懐中電灯を握り直した。
光の輪が小さく震えている。
自分の手が震えているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
背後には宮代啓介がいる。懐中電灯を片手に、もう片方の手は上着の内側へ近い位置にある。拳銃を抜くかどうか、いつでも判断できる姿勢だった。
そのさらに後ろに、久瀬美緒と藤崎玲奈。
玲奈は壁にもたれ、今にも倒れそうだった。相良は彼女を病室へ戻すべきだと何度も言ったが、彼女は首を振った。
「行く」
それだけを、何度も言った。
怯えているのに。
足元もおぼつかないのに。
彼女は地下へ降りることを選んだ。
美緒はその隣で、胸元を押さえていた。
7年前、白幡へ入っていた。
《オルフェ》が示したその証明は、彼女の中の何かを静かに壊していた。顔色は青白く、目は焦点を失いかけている。それでも、夫の名前が出るたびに、彼女は意識をこちらへ引き戻していた。
「美緒さん」
相良は言った。
「無理なら、ここで待っていてください」
「嫌です」
即答だった。
声は震えていた。
だが、弱くはなかった。
「私の記憶の話なんでしょう。だったら、私が見ないと」
「危険です」
「夫は、私に何をしたんですか」
美緒は相良を見た。
その目には怒りがあった。
恐怖もあった。
だが一番奥にあったのは、裏切られた人間の痛みだった。
「相良さん。私、知りたいんです。あの人が私を守ったのか、それとも利用したのか」
相良は答えられなかった。
久瀬なら、どちらもあり得る。
守るために利用する。
利用しながら守ったつもりでいる。
そういう男だった。
宮代が低く言った。
「開けます」
彼は防火扉に手をかけた。
金属の扉は重かった。軋む音が、廊下に長く残る。
扉の向こうから、冷たい空気が流れてきた。
階段は、予想よりも狭かった。
コンクリートの壁。むき出しの配管。天井の低い空間。湿気を吸った埃の匂いの中に、薬品と消毒液が混じっている。
そして、その奥にもうひとつ、別の匂いがあった。
甘いようで、腐ったような匂い。
相良は口元を押さえた。
「何の匂いですか」
美緒が小さく聞いた。
玲奈が答えた。
「保存液」
その声は、ほとんど囁きだった。
「ここでは、人の記憶も、体も、保存するから」
宮代の表情が硬くなった。
「藤崎さん。ここで何を見たんですか」
玲奈は階段の下を見つめたまま、震える声で言った。
「白い部屋」
「それは、実験室ですか」
「違う」
玲奈は首を振った。
「実験室なら、まだよかった。あそこは……人を、嘘にする場所」
誰も言葉を返せなかった。
相良は懐中電灯の光を階段の下へ向けた。
光の先に、白い床が見えた。
*
地下1階は、病院とはまったく違う場所だった。
白かった。
壁も、床も、天井も、すべてが白い。
地上の病棟は古び、雨と埃と時間に汚れていた。だが地下は違う。蛍光灯は一部しか点いていないのに、壁の白さだけが異様に浮かび上がっている。
まるで、汚れを許さない場所だった。
いや、違う。
汚れを見えなくするために、白で塗り潰した場所だった。
廊下は長く、左右にいくつもの部屋が並んでいる。どの扉にも窓はない。番号だけが振られていた。
001。
002。
003。
病室ではない。
収容室に近かった。
相良は1つの扉に近づいた。
鍵は開いていた。
中を照らす。
部屋は狭かった。
中央に椅子が1脚。床に固定されている。椅子の両側には腕を固定するためのベルト。天井にはカメラ。壁にはスピーカー。部屋の奥には、古いモニターとヘッドセットが置かれていた。
美緒が息を詰めた。
「これ……《オルフェ》?」
相良は首を振った。
「違います。もっと古い」
しかし、構造は似ていた。
人間の反応を測る装置。
記憶に刺激を与える装置。
恐怖と嘘を、数値に変える装置。
久瀬が《オルフェ》を作ったのではない。
玲奈の言葉が、相良の中で重く沈んだ。
久瀬は完成させただけ。
ここに、原型があった。
「ひどい……」
美緒が口元を押さえた。
「こんな場所、病院じゃない」
「ええ」
宮代の声は低かった。
「少なくとも、治療のための場所ではありません」
玲奈が廊下の先を指した。
「あっち」
「何があるんですか」
「記録室」
その言葉に、相良は反応した。
「記録?」
「久瀬先生が、よく入ってた。私は中を見たことがない。でも、あそこに名前があるって言ってた」
「名前?」
玲奈は相良を見た。
その目は濡れていた。
「消された人の名前」
*
記録室は、廊下の最奥にあった。
扉には番号がなかった。
ただ、白いプレートに黒い文字で「保管」とだけ書かれている。
宮代が扉を調べた。
「電子錠です。ですが、電源が落ちている」
「開きませんか」
「普通なら」
彼は懐中電灯を相良に渡すと、扉の下部を確認した。
古い非常解錠レバーがあった。
宮代はそれを強く引いた。
金属が嫌な音を立て、扉のロックが外れた。
中は暗かった。
相良が懐中電灯を向けた瞬間、埃の粒が光の中で舞った。
部屋の中には、棚が並んでいた。
紙のカルテ。
古いハードディスク。
ラベルの貼られた記録媒体。
そして、壁一面のファイル。
相良は近くのファイルを手に取った。
表紙には番号と名前。
F-017 藤崎玲奈。
隣の棚には、別の名前。
M-044 宮代沙季。
宮代の肩がわずかに動いた。
「沙季の記録……」
彼は震える手でファイルを取った。
刑事の手ではなかった。
父親の手だった。
ページを開くと、検査記録、音声刺激反応、心拍変動、恐怖反応、記憶誘導の結果が細かく記されていた。
相良は藤崎玲奈のファイルを開く。
そこには、何度も同じ言葉が記録されていた。
見なかったことにしろ。
その音声刺激に対して、藤崎玲奈は最大恐怖反応を示している。
だが、相良の目を引いたのは別の欄だった。
記憶上書き処理。
実施済み。
相良は息を呑んだ。
「記憶上書き……」
美緒が近づく。
「それは、何ですか」
「人の記憶を消すんじゃない。別の記憶で覆う処理です」
「そんなこと、できるんですか」
「理論上は難しい。でも、恐怖や罪悪感を利用すれば、本人に“そうだった”と思い込ませることはできる」
言いながら、相良の声は冷たくなっていった。
これは治療ではない。
人間を都合よく作り替える技術だ。
玲奈が震えながら言った。
「私は、犯人を見てないことにされた」
「本当は?」
「見た」
「誰を?」
玲奈は唇を震わせた。
その名前を言うこと自体が、彼女にとっては痛みなのだと分かった。喉の奥で言葉が何度も止まり、息だけが漏れる。
「し……白幡」
「白幡は場所だと言いました」
「場所でもある。でも、名前でもある」
玲奈は涙をこぼした。
「白幡玲司」
その名前が、記録室の白い壁に冷たく響いた。
宮代が顔を上げた。
「白幡医療財団の理事長……」
美緒が後ずさった。
「そんな……誠一の研究資金を出していた人です」
相良はファイルをめくった。
白幡玲司。
その名前は、藤崎玲奈の記録にも、宮代沙季の記録にも、直接は出てこない。
だが、承認者欄に同じ印があった。
白い旗の紋章。
白幡医療財団の印章。
「久瀬は、この記録を見つけたんですね」
相良が言った。
美緒は震える声で聞いた。
「じゃあ、夫は白幡を告発しようとしていたんですか」
「おそらく」
「だったら、なぜ警察に」
宮代が苦々しく言った。
「証拠にならないからです」
相良は頷いた。
「ここにあるのは、違法な研究記録です。ですが、誰が命令したかは曖昧にされている。白幡玲司本人にたどり着くには、証言が必要だった」
「藤崎玲奈さんの?」
「そして、宮代沙季さんの」
宮代の顔が硬くなった。
父親の顔と刑事の顔が、同時にそこにあった。
「娘を……また巻き込むつもりだったのか、久瀬は」
声が低く震えていた。
「おい、久瀬……死んでまで、沙季を使うつもりだったのか」
返事はない。
死者は答えない。
だからこそ、残された者は勝手に意味を探すしかない。
その時、美緒が1冊のファイルを見つけた。
「相良さん」
彼女の声は、ひどく掠れていた。
「これ……私の名前があります」
相良は振り返った。
美緒の手にあるファイル。
表紙にはこう書かれていた。
K-009 久瀬美緒。
美緒は震える手でページを開いた。
そこには7年前の日付があった。
交通事故後。
胎児死亡。
強い外傷性ストレス。
記憶保護処理。
美緒の唇が震えた。
「記憶保護……?」
相良はページを覗き込んだ。
その瞬間、全身の血が冷えるのを感じた。
処理担当者。
久瀬誠一。
美緒は声を失った。
目だけが、紙の上の文字を追っている。何度も何度も同じ行を見ているのに、意味を受け入れられない顔だった。
「うそ……」
小さな声だった。
「ち、違う。誠一が、私に……そんな」
彼女の手からファイルが落ちた。
紙が床に散らばる。
その中の1枚に、写真があった。
7年前の美緒。
病院のベッドに座り、虚ろな目で前を見ている。
その横に、若い久瀬誠一が立っている。
彼は美緒の手を握っていた。
優しく。
だがその隣の機械には、こう表示されていた。
記憶保護処理、完了。
美緒は床に膝をついた。
「私……何を忘れさせられたの」
誰も答えられなかった。
その時、記録室の奥にある古いモニターが点灯した。
青白い光が、白い壁を照らす。
久瀬誠一の映像が映った。
生前に録画されたものだった。
久瀬は白衣を着て、こちらを見ている。
疲れた顔だった。
目の下には濃い影があり、頬もこけている。だが、その目だけはいつもの久瀬だった。人を苛立たせるほど真っ直ぐで、自分の間違いさえ実験材料にしてしまう目。
『美緒』
映像の中の久瀬が言った。
美緒が顔を上げる。
『君がこれを見ているなら、僕はもう死んでいる』
「やめて……」
美緒が呟いた。
「今さら、そんな顔で話さないで」
映像の久瀬は続けた。
『僕は君を守るために、君の記憶を奪った』
美緒の肩が震えた。
『だが、それは守ることではなかった。君から、君自身の真実を盗むことだった』
相良はモニターを見つめた。
久瀬は、初めて自分の罪を語っていた。
『白幡玲司は、7年前の事故に関わっている。藤崎玲奈が見た事故、宮代沙季が聞いた声、そして美緒が失った子ども。すべては同じ線の上にある』
宮代が一歩近づく。
「どういう意味だ、久瀬……」
映像の久瀬は答えない。
録画は続く。
『律。君はたぶん、僕を責めるだろう。責めていい。僕は正しくなかった』
相良の喉が詰まった。
『だが、白幡を止めるには、法では足りない。証拠では足りない。だから僕は、死者になることにした』
モニターの映像が乱れる。
最後に、久瀬は言った。
『第6証明は、僕自身だ』
画面が暗転した。
その瞬間、記録室の入口で拍手の音がした。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
ゆっくりとした、乾いた拍手だった。
相良たちは一斉に振り返った。
入口に男が立っていた。
白いコート。
銀縁の眼鏡。
年齢は60代前半ほど。
穏やかな顔だった。
病院の理事長室に飾られていそうな、品の良い笑みを浮かべていた。
男は静かに言った。
「久瀬くんは、最後まで芝居がかった男でしたね」
宮代が低く言った。
「白幡玲司……」
男は微笑んだ。
「こんばんは、宮代刑事。お嬢さんはお元気ですか」
宮代の顔から、完全に血の気が引いた。
白幡は相良へ視線を移した。
「そして、相良律さん。あなたにも会いたかった」
「僕は会いたくありませんでした」
「でしょうね」
白幡は穏やかに笑った。
その笑みには、罪悪感がなかった。
人を壊した自覚も、隠している様子もない。
ただ、自分の所有物を見に来た管理者のような目だった。
「藤崎玲奈さん」
白幡が呼ぶと、玲奈が小さく悲鳴を漏らした。
「ひっ……」
彼女は相良の背後に隠れた。
白幡は残念そうに目を細めた。
「まだ治療が終わっていないようですね」
「治療?」
相良は声を低くした。
「これを治療と呼ぶんですか」
「もちろんです。人は真実に耐えられない。ならば、耐えられる形に整えてあげる必要がある」
「嘘を植えつけることが?」
「嘘ではありません」
白幡は微笑んだまま言った。
「生きるための物語です」
美緒が立ち上がった。
顔は青白い。だが、目には怒りが宿っていた。
「あなたが、私から記憶を奪ったんですか」
「私は許可を出しただけです。処理したのは久瀬くんですよ」
その言葉に、美緒の体が揺れた。
相良は彼女を支えようとしたが、美緒は自分の足で踏みとどまった。
「……卑怯な人」
美緒の声は震えていた。
「死んだ人間に罪を押しつけるなんて」
白幡の笑みが、わずかに深くなった。
「死者は便利です。反論しませんから」
その瞬間、記録室のモニターが再び点灯した。
《オルフェ》の文字が浮かび上がる。
第6証明を開始します。
証明対象。
久瀬誠一。
白幡の笑みが、初めて止まった。
相良は画面を見た。
死んだ男が、ついに自分自身を裁こうとしていた。
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