第7話 白幡という名前
病院全体の電気が落ちた瞬間、世界から色が消えた。
午後6時31分。
さっきまで廊下を薄く染めていた非常灯の緑も、古い医療用モニターの青白い光も、すべて一斉に消えた。目の前にあったはずの病室の壁も、鉄製のベッドも、藤崎玲奈の青ざめた顔も、黒い布を被せられたように見えなくなった。
残ったのは、雨音だけだった。
病院の外壁を叩く細かな雨。
どこかの天井から落ちる水滴。
閉鎖された建物の奥で、配管が軋むような低い音。
そして、廊下の奥から近づいてくる足音。
こつ。
こつ。
ゆっくりだった。
急いでいる足ではない。こちらを怖がっている足でもない。相手が暗闇に慣れているのか、それともこちらが動けないことを分かっているのか。足音は一定の間隔で、病院の湿った床を踏みしめながら近づいてくる。
相良律は、腕の中の藤崎玲奈を支えたまま息を潜めた。
玲奈の体はひどく軽かった。
手首を掴めば折れてしまいそうなほど細い。肩に触れると、病衣越しに骨の形が分かる。3年間、誰にも見つからずに生きていた人間の体温は、驚くほど薄かった。
けれど、彼女は確かに生きている。
相良の袖を掴む指が、小刻みに震えていた。
「ねぇ……相良さん」
玲奈が、喉の奥から絞り出すように言った。
声は乾いていて、途中で息が引っかかった。
「逃げて。お願い……ここにいたら、だめ」
「藤崎さん、落ち着いてください。誰が来てるんですか」
「知らない。知らないけど……あの足音、知ってる」
「足音を?」
玲奈は何度も小さく頷いた。
「夜になると、聞こえた。ずっと……ずっと、廊下の向こうから。顔は見えないのに、足音だけは覚えてるの。こつ、こつって。私が眠ったふりをしても、ドアの前で止まるの」
美緒が息を呑んだ。
暗闇の中で、その小さな音だけが妙にはっきり聞こえた。
「藤崎さん……あなた、ここで何をされていたんですか」
「分からない」
「分からない?」
「分かりたくなかった!」
玲奈の声が突然大きくなった。
その瞬間、彼女自身が一番驚いたように口を押さえた。暗闇の中で、荒い呼吸だけが続く。
「ご、ごめんなさい……でも、思い出すと、また……またあそこに戻るから」
「あそこ?」
相良が聞いた。
玲奈は答えなかった。
その代わり、相良の袖を掴む力が強くなった。
廊下の奥の足音が止まった。
静寂。
病院全体が息を止めたようだった。
「相良さん」
宮代啓介の声が低く響いた。
彼は少し離れた位置にいる。暗闇で姿は見えないが、声の方向は分かる。
「動かないでください」
「見えるんですか」
「いいえ」
「なら、何を」
「相手もこちらを見えていない可能性があります」
その声は刑事のものだった。
冷静で、抑えられていて、恐怖に名前を与えない声。
だが、相良には分かった。
宮代の呼吸が、ほんのわずかに浅い。
娘の事件。
藤崎玲奈。
白幡。
この病院。
彼もまた、過去の中心へ引き戻されている。
その時、暗闇の奥から声がした。
「藤崎玲奈さん」
男の声だった。
低く、やわらかい。
優しそうに聞こえる声だった。
だからこそ、背筋が冷えた。
玲奈の体が跳ねた。
「いや……」
声にならない声が漏れる。
「いや、いや、いや……来ないで」
相良は玲奈の肩を支えた。
「藤崎さん、大丈夫です。ここにいます」
「違うの。相良さん、違う……あの人、優しい声で言うの。いつも、優しい声で」
暗闇の奥で、男が言った。
「あなたは、また嘘をついた」
玲奈は両耳を塞いだ。
「やめて……お願い、やめて」
「白幡の名前を言いましたね」
美緒が一歩前に出ようとした。
「あなたは誰ですか」
相良は低く止めた。
「美緒さん、動かないで」
「でも」
「相手の位置が分かりません」
美緒は唇を噛んだ。
その気配だけが、すぐ近くで分かった。夫を亡くしたばかりの女が、夫の研究と関係する謎の男に暗闇の中で向き合っている。普通なら逃げ出してもおかしくない。
だが美緒は逃げなかった。
怒りが、恐怖を上回っている。
「答えてください」
美緒の声は震えていた。
それでも、言葉は鋭かった。
「あなたは、夫と何をしていたんですか」
男は答えなかった。
代わりに、廊下の奥で何かが床に落ちる音がした。
かしゃん。
金属音だった。
相良のすぐ横で、宮代が息を吸う気配がした。
「伏せて!」
宮代が叫んだ。
次の瞬間、廊下の奥から強烈な白い光が走った。
ライトだった。
暗闇に慣れかけていた目を、真っ白な光が焼く。相良は玲奈を抱え込むようにして床へ伏せた。硬い床に膝を打ち、鋭い痛みが走る。
同時に、何かが壁に当たった。
銃声ではない。
破裂音でもない。
小型の発煙装置か、閃光弾に近いものだった。
白い煙が廊下に広がる。
古い病院の湿った匂いに、薬品のような刺激臭が混じった。
「くっ……」
美緒が咳き込む。
「美緒さん、下がって!」
相良が叫ぶ。
だが煙で何も見えない。
白い霧の向こうで、足音が近づく。
こつ。
こつ。
今度は早い。
「玲奈さん!」
宮代の声がした。
その直後、相良の腕の中から玲奈の体が引き剥がされそうになった。
「いやっ!」
玲奈が悲鳴を上げる。
相良は反射的に彼女の腕を掴んだ。
白い煙の中に、黒い手袋をした手が見えた。男の腕だ。玲奈の肩を掴み、強引に引き寄せようとしている。
「おい、離せ!」
相良は叫び、男の手首を掴んだ。
骨ばった手首だった。だが力は強い。
男は何も言わない。
ただ、玲奈を連れていこうとする。
「宮代さん!」
「分かっています!」
低い衝突音がした。
宮代が男に体当たりしたのだろう。煙の中で影が崩れ、誰かが壁にぶつかる音が響いた。
玲奈が床に倒れ込む。
相良は彼女を引き寄せた。
「藤崎さん、大丈夫ですか」
「はっ、はっ……あ、あの人……」
「見たんですか」
「顔は、見えない。でも……」
玲奈は息を荒げながら、震える指で廊下の奥を指した。
「あの匂い。病院の薬じゃない。あの部屋の匂い」
「あの部屋?」
「白い部屋」
相良の背筋に冷たいものが走った。
「白い部屋って、何ですか」
玲奈は首を振った。
「言えない。言ったら、また戻される」
「藤崎さん、ここには僕たちが」
「違う!」
彼女は相良の胸を押した。
その力は弱かった。だが、その声には本物の恐怖があった。
「あなたたちは知らないの。ここは病院じゃない。病院だった場所を、あの人たちが使ってただけ」
煙が少しずつ薄れていく。
非常灯が復旧した。
緑色の光が、廊下をぼんやり照らす。
そこには宮代が膝をついていた。
左頬に小さな切り傷があり、血が一筋流れている。スーツの肩には白い粉がついていた。彼は立ち上がりながら、廊下の奥を睨んでいた。
男の姿は消えていた。
残っていたのは、黒い手袋の片方だけだった。
宮代がそれを拾う。
「逃げられました」
「追いますか」
「この煙の中で追えば、こちらが不利です」
宮代の声は落ち着いていた。
だが、手袋を握る指に力が入りすぎていた。白くなるほど強く握っている。
美緒が壁に手をつきながら立ち上がった。
「藤崎さん。白幡って、誰なんですか」
玲奈は床に座り込んだまま、何度も呼吸を整えていた。
非常灯の緑色が、彼女の頬を病的に照らしている。涙で濡れた目が、暗い廊下の奥を見ていた。
「白幡は……人の名前じゃない」
相良は眉をひそめた。
「人の名前じゃない?」
「白幡は、場所」
「白幡医療財団のことですか」
「違う」
玲奈は首を振った。
「財団は、表の名前。病院も、研究所も、全部表の名前。本当の白幡は……地下にある」
宮代が近づいた。
「地下?」
「この病院の地下。あそこに、白い部屋がある」
美緒の顔がこわばった。
「夫は、そこに行っていたんですか」
玲奈は美緒を見た。
その視線には、ためらいがあった。
「久瀬先生は……私を助けようとしてくれた」
「本当に?」
美緒の声が低くなった。
「本当に助けようとしていたなら、なぜ夫はあなたを3年間もここに残したんですか」
「違う。久瀬先生は、途中で気づいたの」
「何に?」
「《オルフェ》は、久瀬先生が作ったんじゃない」
相良の呼吸が止まった。
研究所。
久瀬の技術。
自分が関わった装置。
その前提が、足元から崩れる音がした。
「どういう意味ですか」
相良の声は、自分でも分かるほど硬かった。
玲奈は泣きながら言った。
「久瀬先生は、完成させただけ。元になるものは、ずっと前から白幡にあった」
「元になるもの?」
「記憶を読む装置じゃない」
玲奈は両手で自分の腕を抱いた。
寒さに震えているようにも、過去から身を守っているようにも見えた。
「人の嘘を、作る装置」
廊下の非常灯が、また一度だけ瞬いた。
その瞬間、床に落ちていた医療用モニターが再び点灯した。
青白い画面に文字が浮かぶ。
第5証明を開始します。
証明対象。
久瀬美緒。
美緒が目を見開いた。
「……私?」
画面に、次の文章が表示された。
久瀬美緒は、白幡を知っています。
美緒は唇を震わせた。
「知らない……私は、そんな場所」
赤い警告が点滅した。
虚偽反応を検出。
美緒は顔色を変えた。
「ち、違う……知らない。私は、本当に」
相良が美緒を見る。
彼女は本気で怯えていた。
嘘をついた人間の顔ではない。
自分の記憶そのものを疑い始めた人間の顔だった。
モニターに、最後の文字が出た。
久瀬美緒は、7年前に白幡へ入っています。
その下に、小さな文字が続く。
同行者。
久瀬誠一。
美緒の膝が崩れた。
相良は支えようと手を伸ばしたが、間に合わなかった。
彼女は床に座り込み、両手で頭を抱えた。
「うそ……うそよ。私、そんなの覚えてない」
玲奈が、泣きそうな声で言った。
「覚えてないんじゃない」
美緒がゆっくり顔を上げる。
玲奈は震える唇で続けた。
「覚えさせてもらえなかったんです」
病院の地下へ続く階段は、廊下の奥にあった。
そこから、冷たい風が吹き上がってきた。
雨の匂いではない。
消毒液でもない。
もっと古く、もっと白く、もっと深い場所の匂いだった。
相良は懐中電灯を拾い上げた。
光の先に、地下への扉が浮かび上がる。
扉には、白いペンキで小さく文字が書かれていた。
白幡第0区画。
久瀬誠一の証明は、ついに死者の研究室を離れた。
真実は、病院の地下にあった。
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