第6話 消えた女
病院は、街の外れにあった。
午後6時9分。
雨は弱まっていたが、空はまだ重かった。雲は低く垂れ込め、夕暮れの光を吸い込んだまま返してこない。車のフロントガラスには細かい雨粒が残り、ワイパーが動くたびに景色が薄く歪んだ。
相良律は、助手席から外を見ていた。
研究センターのある都市部を離れるにつれて、建物の高さが低くなっていく。ガラス張りのオフィスビルは古い雑居ビルに変わり、やがて住宅街と倉庫ばかりの道になった。
道路脇の街灯は、夕方なのにすでに点いていた。オレンジ色の光が濡れたアスファルトに伸び、車が通るたびに細かく揺れる。
運転しているのは宮代だった。
ハンドルを握る手は安定している。速度も乱れない。だが、車内には沈黙が積もっていた。
後部座席には美緒が座っている。
彼女は膝の上に両手を置き、窓の外を見つめていた。街灯が通り過ぎるたび、その横顔に淡い光と影が交互に落ちる。目元は疲れているのに、眠る気配はない。
誰も、研究センターに残るとは言わなかった。
相良も。
宮代も。
美緒も。
差出人不明のメールに書かれていた住所は、かつて宮代沙季が入院していた病院だった。いまは閉鎖され、表向きは使われていない。
そこに、藤崎玲奈がいる。
それが本当なら、3年前に死んだと聞かされていた女は、生きていることになる。
そして、もし嘘なら。
久瀬誠一の死後の証明は、誰かに乗っ取られていることになる。
「宮代さん」
相良はフロントガラスの向こうを見たまま言った。
「本当に警察の応援を呼ばなくていいんですか」
「呼びます」
「今は?」
「今呼べば、情報が漏れます」
「刑事らしくない判断ですね」
「父親らしい判断でもありません」
宮代の声は低かった。
「ですが、今はこれが一番早い」
相良は横目で宮代を見た。
「あなたは、まだ何か隠していますね」
宮代は答えなかった。
車内に、ワイパーの音だけが響く。
きゅっ、きゅっ、とゴムがガラスを撫でる音。
その単調な音が、沈黙をさらに深くした。
「答えないことが答えだと、さっき学びました」
相良が言うと、宮代はわずかに口元を動かした。
「あなたは嫌な学習が早い」
「久瀬の元同僚ですから」
「なるほど」
短いやり取りの後、再び沈黙が戻った。
美緒が後部座席から言った。
「藤崎玲奈さんは、どんな人だったんですか」
相良はすぐに答えられなかった。
どんな人だったのか。
その問いに答えるには、相良は藤崎玲奈のことを知らなすぎた。
知っていたのは、実験記録の中の彼女だけだ。
心拍数。
恐怖反応。
記憶の揺らぎ。
トラウマの深度。
数字と波形と、泣き声。
人間としての藤崎玲奈を、相良はほとんど知らない。
「よく笑う人でした」
しばらくして、相良は言った。
それは、記憶の底からようやく拾い上げた言葉だった。
「実験の前、いつも冗談を言っていました。怖がっているのに、怖くないふりをする人でした」
「強い人?」
「違います」
相良は首を振った。
「弱いところを見せたくない人です」
言ってから、相良は胸の奥が痛んだ。
それは玲奈だけではない。
久瀬も、宮代も、美緒も、自分も。
この事件に関わる人間は、みんな弱さの隠し方だけがうまい。
*
病院は、低い丘の上に建っていた。
敷地へ続く坂道には、濡れた落ち葉が貼りついていた。車のタイヤがその上を踏むと、鈍く湿った音がした。
正面に現れた建物は、画像で見たよりも古びていた。
5階建ての白い病棟。外壁は雨で黒ずみ、ところどころにひびが入っている。正面玄関の上には、かすれた文字で「白幡記念病院」と残っていた。
玄関前のロータリーには車が1台もない。
植え込みは手入れされておらず、雨を吸った雑草が膝ほどの高さまで伸びていた。古い看板は傾き、閉鎖のお知らせと書かれた紙はビニールの内側で黄色く変色している。
だが、完全な廃墟ではなかった。
相良はすぐに気づいた。
玄関のガラス扉の内側、右奥。
暗いロビーの一部だけ、床が濡れていない。
誰かが最近、そこを歩いている。
「使われていますね」
相良が言った。
宮代は頷いた。
「表向きは閉鎖中ですが、所有権はまだ医療法人に残っています。5年前、娘がいた頃は普通の病院でした。その後、経営難で閉鎖されたと聞いています」
「医療法人?」
「白幡医療財団」
美緒が顔を上げた。
「白幡……」
「知っていますか」
相良が聞く。
美緒は少し迷ってから言った。
「誠一の研究に、資金を出していた団体のひとつです」
雨音が、急に大きく聞こえた。
相良は病院を見上げた。
閉鎖された病院。
宮代の娘。
藤崎玲奈。
久瀬の研究資金。
線がつながり始めている。
だがその線は、真相へ向かっているというより、より深い場所へ引きずり込む縄のようだった。
宮代は車を降りた。
相良と美緒も続く。
雨は細かい霧雨に変わっていた。傘を差すほどではない。だが、数分立っていれば髪も肩もじっとり濡れるような雨だった。
玄関に近づくと、建物の中から冷えた空気が漏れてきた。
病院特有の消毒液の匂いは薄い。代わりに、湿った壁紙、古い薬品、長く閉め切られた部屋の埃っぽさが混じっている。
宮代がガラス扉に手をかけた。
鍵はかかっていなかった。
扉が開くと、金属の軋む音がロビーに響いた。
中は薄暗かった。
天井の照明はほとんど消えている。だが奥の廊下の非常灯だけが緑色に光り、床に細い影を落としていた。
受付カウンターには誰もいない。
古いパンフレットが散らばり、壁の時計は午後2時17分で止まっていた。
相良は足を踏み入れた。
靴底が床に触れるたび、湿った音がした。
「誰かいます」
宮代が低く言った。
「分かるんですか」
「埃の積もり方が不自然です」
彼は床を指した。
薄く積もった埃の中に、いくつもの足跡があった。古い足跡だけではない。輪郭のはっきりした、新しい足跡も混じっている。
しかも1人分ではなかった。
相良は喉の奥が乾くのを感じた。
「藤崎玲奈だけじゃない」
「ええ」
宮代は懐中電灯を取り出した。
白い光が暗いロビーを切り裂く。光の先で、埃が細かい粒になって舞った。
美緒が小さく言った。
「ここに、夫が来ていたんでしょうか」
「可能性は高い」
相良が答えた。
「久瀬は、こういう場所を好みます」
「どういう場所ですか」
「人が忘れた場所です」
美緒は黙った。
その横顔に、怒りとも悲しみともつかない表情が浮かんでいた。
*
2階へ上がる階段は、非常灯の緑色の光に照らされていた。
手すりは冷たく、指先に金属の湿気がまとわりつく。階段の途中には、古い車椅子が1台、壁に寄せて置かれていた。座面には埃が積もっているが、車輪の一部だけが不自然にきれいだった。
最近、動かされた跡だ。
2階の廊下に出ると、空気がさらに重くなった。
左右に病室が並んでいる。ドアの多くは開け放たれ、ベッドは白いシーツを外されたまま、鉄の骨組みだけを晒していた。廊下の奥からは、かすかに水の落ちる音が聞こえる。
ぽたん。
ぽたん。
規則的で、神経に触る音だった。
宮代が足を止めた。
「この階です」
「娘さんがいた病室ですか」
「はい」
彼の声が少し低くなった。
廊下の奥、右側の病室。
宮代はその前で立ち止まった。
ドアプレートには、かすれた字で「207」と書かれている。
宮代の指が、一瞬だけドアノブの前で止まった。
その動作を見て、相良は何も言わなかった。
ここは、宮代にとって事件現場なのだ。
娘が眠り続けた場所。
父親として祈り、刑事として壊れかけた場所。
そして、久瀬誠一にすがってしまった場所。
宮代はドアを開けた。
病室の中は、思ったよりきれいだった。
ベッドが1台残っている。窓には白いカーテンがかかり、雨で湿った外の光をぼんやり通していた。部屋の隅には、小さな机と椅子。机の上には、誰かが最近置いたらしい紙コップがあった。
相良は近づいた。
紙コップの底には、まだ少し水が残っている。
「最近まで誰かがいた」
相良が言うと、宮代はベッドの脇を見ていた。
そこには、古い医療用モニターが置かれていた。電源は入っていない。だが、コードは新しい延長ケーブルにつながっている。
美緒が壁際の棚を見つけた。
「これ……」
棚には、ノートが数冊並んでいた。
相良は1冊を手に取った。
表紙には、細い字で名前が書かれている。
藤崎玲奈。
相良の指が止まった。
ノートを開く。
中には、短い文章が何度も書かれていた。
私は死んでいない。
私は死んでいない。
私は死んでいない。
ページをめくっても、同じ文が続く。
ただ、途中から筆跡が変わっていた。
震えた字。
強く押しつけた字。
子どものように丸い字。
そして、あるページで文章が変わる。
私は見た。
相良は息を止めた。
次のページ。
見なかったことにしろ。
その文字だけ、何度も黒く塗りつぶされていた。
美緒が口元に手を当てた。
「藤崎さんは、ここにいたんですね」
「少なくとも、最近まで」
相良が言った。
その時、廊下の奥で音がした。
かたん。
小さな音だった。
だが、3人は同時に振り返った。
宮代が懐中電灯を向ける。
廊下の奥。
緑色の非常灯の下に、人影があった。
細い体。
病衣のような白い服。
短く切られた髪。
相良は声を失った。
藤崎玲奈だった。
3年前より痩せている。頬はこけ、目の下には深い影がある。だが、その目は確かに相良を見ていた。
人形のように無表情ではない。
怯えている。
怒っている。
それでも、生きている。
「藤崎さん……」
相良が一歩踏み出した。
玲奈は後ずさった。
足元がふらつく。壁に手をつき、呼吸を浅くしている。
「来ないで」
声はかすれていた。
長く使っていない楽器のような声だった。
「藤崎さん、僕です。相良です」
「知ってる」
玲奈は言った。
「あなたは、知ってる」
「何を」
「私が死んだことにされた理由」
相良は足を止めた。
宮代が慎重に近づこうとする。
玲奈は激しく首を振った。
「警察も来ないで」
宮代は動きを止めた。
玲奈の視線が宮代へ移る。
その目に、はっきりとした恐怖が浮かんだ。
「あなたの娘さんは、悪くない」
宮代の顔が固まった。
「沙季を知っているのか」
「知ってる」
玲奈は壁に寄りかかりながら言った。
「沙季ちゃんは、見てしまっただけ」
「何を」
玲奈は唇を震わせた。
廊下の非常灯が、彼女の顔を緑色に照らしている。生きている人間の顔なのに、まるで水の底から浮かび上がった死者のように見えた。
「久瀬先生が、隠していたもの」
美緒が小さく息を吸った。
「夫が?」
玲奈は美緒を見た。
その瞬間、玲奈の表情が崩れた。
泣きそうになったのではない。
笑いそうになったのでもない。
長い間、誰にも言えなかった言葉が、喉の奥まで来てしまった人間の顔だった。
「久瀬先生は、悪い人じゃなかった」
玲奈は言った。
「でも、正しい人でもなかった」
その言葉は、相良の胸に刺さった。
久瀬誠一という男を、これほど正確に言い表した言葉を、相良は知らなかった。
「藤崎さん」
相良はできるだけ静かに言った。
「あなたは、何を見たんですか」
玲奈は答えようとした。
その時だった。
病室の中で、置かれていた医療用モニターが突然点灯した。
古い画面に、青白い光が走る。
ノイズが鳴り、文字が浮かび上がった。
第4証明を開始します。
証明対象。
藤崎玲奈。
玲奈の顔から血の気が引いた。
「いや」
彼女は小さく呟いた。
「また、見るのはいや」
相良はモニターへ駆け寄った。
「誰が起動した?」
宮代が無線を取ろうとする。
だが、その前に病院内のスピーカーから音声が流れた。
久瀬誠一の声だった。
『玲奈さん。今度は、あなたが証明する番です』
玲奈は耳を塞いだ。
廊下の奥から、何かが落ちる音がした。
誰かがいる。
相良は暗い廊下を見た。
非常灯の緑色の光の先で、白い扉がゆっくり閉まっていくのが見えた。
人影はすでに消えていた。
モニターには次の文字が表示された。
藤崎玲奈は、犯人の顔を見ていません。
しかし、犯人の名前を知っています。
玲奈が膝から崩れ落ちた。
相良は駆け寄る。
彼女は震える手で、相良の袖を掴んだ。
「相良さん」
「大丈夫です。落ち着いて」
「違う」
玲奈は首を振った。
目には涙が浮かんでいた。だが、その涙は恐怖だけのものではなかった。悔しさと怒りと、長い沈黙を破る痛みが混ざっていた。
「あの人の名前を言ったら、みんな死ぬ」
「誰の名前ですか」
玲奈は唇を動かした。
声はほとんど出ていなかった。
だが、相良には聞こえた。
「白幡」
その名前を聞いた瞬間、美緒の顔が凍りついた。
白幡医療財団。
久瀬の研究資金を出していた団体。
宮代の娘が入院していた病院の所有者。
そして、藤崎玲奈を3年間、生きたまま消していた場所。
モニターに赤い文字が浮かんだ。
第4証明、続行不能。
外部妨害を検出。
次の瞬間、病院全体の電気が落ちた。
暗闇が、廊下を飲み込んだ。
雨音だけが残った。
相良の腕の中で、藤崎玲奈が震えていた。
そして暗闇の奥から、誰かの足音が近づいてきた。
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