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死者への証明  作者: 海老沢大地


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6/15

第6話 消えた女


 病院は、街の外れにあった。


 午後6時9分。


 雨は弱まっていたが、空はまだ重かった。雲は低く垂れ込め、夕暮れの光を吸い込んだまま返してこない。車のフロントガラスには細かい雨粒が残り、ワイパーが動くたびに景色が薄く歪んだ。


 相良律は、助手席から外を見ていた。


 研究センターのある都市部を離れるにつれて、建物の高さが低くなっていく。ガラス張りのオフィスビルは古い雑居ビルに変わり、やがて住宅街と倉庫ばかりの道になった。


 道路脇の街灯は、夕方なのにすでに点いていた。オレンジ色の光が濡れたアスファルトに伸び、車が通るたびに細かく揺れる。


 運転しているのは宮代だった。


 ハンドルを握る手は安定している。速度も乱れない。だが、車内には沈黙が積もっていた。


 後部座席には美緒が座っている。


 彼女は膝の上に両手を置き、窓の外を見つめていた。街灯が通り過ぎるたび、その横顔に淡い光と影が交互に落ちる。目元は疲れているのに、眠る気配はない。


 誰も、研究センターに残るとは言わなかった。


 相良も。

 宮代も。

 美緒も。


 差出人不明のメールに書かれていた住所は、かつて宮代沙季が入院していた病院だった。いまは閉鎖され、表向きは使われていない。


 そこに、藤崎玲奈がいる。


 それが本当なら、3年前に死んだと聞かされていた女は、生きていることになる。


 そして、もし嘘なら。


 久瀬誠一の死後の証明は、誰かに乗っ取られていることになる。


「宮代さん」


 相良はフロントガラスの向こうを見たまま言った。


「本当に警察の応援を呼ばなくていいんですか」


「呼びます」


「今は?」


「今呼べば、情報が漏れます」


「刑事らしくない判断ですね」


「父親らしい判断でもありません」


 宮代の声は低かった。


「ですが、今はこれが一番早い」


 相良は横目で宮代を見た。


「あなたは、まだ何か隠していますね」


 宮代は答えなかった。


 車内に、ワイパーの音だけが響く。


 きゅっ、きゅっ、とゴムがガラスを撫でる音。


 その単調な音が、沈黙をさらに深くした。


「答えないことが答えだと、さっき学びました」


 相良が言うと、宮代はわずかに口元を動かした。


「あなたは嫌な学習が早い」


「久瀬の元同僚ですから」


「なるほど」


 短いやり取りの後、再び沈黙が戻った。


 美緒が後部座席から言った。


「藤崎玲奈さんは、どんな人だったんですか」


 相良はすぐに答えられなかった。


 どんな人だったのか。


 その問いに答えるには、相良は藤崎玲奈のことを知らなすぎた。


 知っていたのは、実験記録の中の彼女だけだ。


 心拍数。

 恐怖反応。

 記憶の揺らぎ。

 トラウマの深度。


 数字と波形と、泣き声。


 人間としての藤崎玲奈を、相良はほとんど知らない。


「よく笑う人でした」


 しばらくして、相良は言った。


 それは、記憶の底からようやく拾い上げた言葉だった。


「実験の前、いつも冗談を言っていました。怖がっているのに、怖くないふりをする人でした」


「強い人?」


「違います」


 相良は首を振った。


「弱いところを見せたくない人です」


 言ってから、相良は胸の奥が痛んだ。


 それは玲奈だけではない。


 久瀬も、宮代も、美緒も、自分も。


 この事件に関わる人間は、みんな弱さの隠し方だけがうまい。


     *


 病院は、低い丘の上に建っていた。


 敷地へ続く坂道には、濡れた落ち葉が貼りついていた。車のタイヤがその上を踏むと、鈍く湿った音がした。


 正面に現れた建物は、画像で見たよりも古びていた。


 5階建ての白い病棟。外壁は雨で黒ずみ、ところどころにひびが入っている。正面玄関の上には、かすれた文字で「白幡記念病院」と残っていた。


 玄関前のロータリーには車が1台もない。


 植え込みは手入れされておらず、雨を吸った雑草が膝ほどの高さまで伸びていた。古い看板は傾き、閉鎖のお知らせと書かれた紙はビニールの内側で黄色く変色している。


 だが、完全な廃墟ではなかった。


 相良はすぐに気づいた。


 玄関のガラス扉の内側、右奥。


 暗いロビーの一部だけ、床が濡れていない。


 誰かが最近、そこを歩いている。


「使われていますね」


 相良が言った。


 宮代は頷いた。


「表向きは閉鎖中ですが、所有権はまだ医療法人に残っています。5年前、娘がいた頃は普通の病院でした。その後、経営難で閉鎖されたと聞いています」


「医療法人?」


「白幡医療財団」


 美緒が顔を上げた。


「白幡……」


「知っていますか」


 相良が聞く。


 美緒は少し迷ってから言った。


「誠一の研究に、資金を出していた団体のひとつです」


 雨音が、急に大きく聞こえた。


 相良は病院を見上げた。


 閉鎖された病院。

 宮代の娘。

 藤崎玲奈。

 久瀬の研究資金。


 線がつながり始めている。


 だがその線は、真相へ向かっているというより、より深い場所へ引きずり込む縄のようだった。


 宮代は車を降りた。


 相良と美緒も続く。


 雨は細かい霧雨に変わっていた。傘を差すほどではない。だが、数分立っていれば髪も肩もじっとり濡れるような雨だった。


 玄関に近づくと、建物の中から冷えた空気が漏れてきた。


 病院特有の消毒液の匂いは薄い。代わりに、湿った壁紙、古い薬品、長く閉め切られた部屋の埃っぽさが混じっている。


 宮代がガラス扉に手をかけた。


 鍵はかかっていなかった。


 扉が開くと、金属の軋む音がロビーに響いた。


 中は薄暗かった。


 天井の照明はほとんど消えている。だが奥の廊下の非常灯だけが緑色に光り、床に細い影を落としていた。


 受付カウンターには誰もいない。


 古いパンフレットが散らばり、壁の時計は午後2時17分で止まっていた。


 相良は足を踏み入れた。


 靴底が床に触れるたび、湿った音がした。


「誰かいます」


 宮代が低く言った。


「分かるんですか」


「埃の積もり方が不自然です」


 彼は床を指した。


 薄く積もった埃の中に、いくつもの足跡があった。古い足跡だけではない。輪郭のはっきりした、新しい足跡も混じっている。


 しかも1人分ではなかった。


 相良は喉の奥が乾くのを感じた。


「藤崎玲奈だけじゃない」


「ええ」


 宮代は懐中電灯を取り出した。


 白い光が暗いロビーを切り裂く。光の先で、埃が細かい粒になって舞った。


 美緒が小さく言った。


「ここに、夫が来ていたんでしょうか」


「可能性は高い」


 相良が答えた。


「久瀬は、こういう場所を好みます」


「どういう場所ですか」


「人が忘れた場所です」


 美緒は黙った。


 その横顔に、怒りとも悲しみともつかない表情が浮かんでいた。


     *


 2階へ上がる階段は、非常灯の緑色の光に照らされていた。


 手すりは冷たく、指先に金属の湿気がまとわりつく。階段の途中には、古い車椅子が1台、壁に寄せて置かれていた。座面には埃が積もっているが、車輪の一部だけが不自然にきれいだった。


 最近、動かされた跡だ。


 2階の廊下に出ると、空気がさらに重くなった。


 左右に病室が並んでいる。ドアの多くは開け放たれ、ベッドは白いシーツを外されたまま、鉄の骨組みだけを晒していた。廊下の奥からは、かすかに水の落ちる音が聞こえる。


 ぽたん。


 ぽたん。


 規則的で、神経に触る音だった。


 宮代が足を止めた。


「この階です」


「娘さんがいた病室ですか」


「はい」


 彼の声が少し低くなった。


 廊下の奥、右側の病室。


 宮代はその前で立ち止まった。


 ドアプレートには、かすれた字で「207」と書かれている。


 宮代の指が、一瞬だけドアノブの前で止まった。


 その動作を見て、相良は何も言わなかった。


 ここは、宮代にとって事件現場なのだ。


 娘が眠り続けた場所。

 父親として祈り、刑事として壊れかけた場所。

 そして、久瀬誠一にすがってしまった場所。


 宮代はドアを開けた。


 病室の中は、思ったよりきれいだった。


 ベッドが1台残っている。窓には白いカーテンがかかり、雨で湿った外の光をぼんやり通していた。部屋の隅には、小さな机と椅子。机の上には、誰かが最近置いたらしい紙コップがあった。


 相良は近づいた。


 紙コップの底には、まだ少し水が残っている。


「最近まで誰かがいた」


 相良が言うと、宮代はベッドの脇を見ていた。


 そこには、古い医療用モニターが置かれていた。電源は入っていない。だが、コードは新しい延長ケーブルにつながっている。


 美緒が壁際の棚を見つけた。


「これ……」


 棚には、ノートが数冊並んでいた。


 相良は1冊を手に取った。


 表紙には、細い字で名前が書かれている。


 藤崎玲奈。


 相良の指が止まった。


 ノートを開く。


 中には、短い文章が何度も書かれていた。


 私は死んでいない。


 私は死んでいない。


 私は死んでいない。


 ページをめくっても、同じ文が続く。


 ただ、途中から筆跡が変わっていた。


 震えた字。

 強く押しつけた字。

 子どものように丸い字。

 そして、あるページで文章が変わる。


 私は見た。


 相良は息を止めた。


 次のページ。


 見なかったことにしろ。


 その文字だけ、何度も黒く塗りつぶされていた。


 美緒が口元に手を当てた。


「藤崎さんは、ここにいたんですね」


「少なくとも、最近まで」


 相良が言った。


 その時、廊下の奥で音がした。


 かたん。


 小さな音だった。


 だが、3人は同時に振り返った。


 宮代が懐中電灯を向ける。


 廊下の奥。


 緑色の非常灯の下に、人影があった。


 細い体。

 病衣のような白い服。

 短く切られた髪。


 相良は声を失った。


 藤崎玲奈だった。


 3年前より痩せている。頬はこけ、目の下には深い影がある。だが、その目は確かに相良を見ていた。


 人形のように無表情ではない。


 怯えている。

 怒っている。

 それでも、生きている。


「藤崎さん……」


 相良が一歩踏み出した。


 玲奈は後ずさった。


 足元がふらつく。壁に手をつき、呼吸を浅くしている。


「来ないで」


 声はかすれていた。


 長く使っていない楽器のような声だった。


「藤崎さん、僕です。相良です」


「知ってる」


 玲奈は言った。


「あなたは、知ってる」


「何を」


「私が死んだことにされた理由」


 相良は足を止めた。


 宮代が慎重に近づこうとする。


 玲奈は激しく首を振った。


「警察も来ないで」


 宮代は動きを止めた。


 玲奈の視線が宮代へ移る。


 その目に、はっきりとした恐怖が浮かんだ。


「あなたの娘さんは、悪くない」


 宮代の顔が固まった。


「沙季を知っているのか」


「知ってる」


 玲奈は壁に寄りかかりながら言った。


「沙季ちゃんは、見てしまっただけ」


「何を」


 玲奈は唇を震わせた。


 廊下の非常灯が、彼女の顔を緑色に照らしている。生きている人間の顔なのに、まるで水の底から浮かび上がった死者のように見えた。


「久瀬先生が、隠していたもの」


 美緒が小さく息を吸った。


「夫が?」


 玲奈は美緒を見た。


 その瞬間、玲奈の表情が崩れた。


 泣きそうになったのではない。


 笑いそうになったのでもない。


 長い間、誰にも言えなかった言葉が、喉の奥まで来てしまった人間の顔だった。


「久瀬先生は、悪い人じゃなかった」


 玲奈は言った。


「でも、正しい人でもなかった」


 その言葉は、相良の胸に刺さった。


 久瀬誠一という男を、これほど正確に言い表した言葉を、相良は知らなかった。


「藤崎さん」


 相良はできるだけ静かに言った。


「あなたは、何を見たんですか」


 玲奈は答えようとした。


 その時だった。


 病室の中で、置かれていた医療用モニターが突然点灯した。


 古い画面に、青白い光が走る。


 ノイズが鳴り、文字が浮かび上がった。


 第4証明を開始します。


 証明対象。


 藤崎玲奈。


 玲奈の顔から血の気が引いた。


「いや」


 彼女は小さく呟いた。


「また、見るのはいや」


 相良はモニターへ駆け寄った。


「誰が起動した?」


 宮代が無線を取ろうとする。


 だが、その前に病院内のスピーカーから音声が流れた。


 久瀬誠一の声だった。


『玲奈さん。今度は、あなたが証明する番です』


 玲奈は耳を塞いだ。


 廊下の奥から、何かが落ちる音がした。


 誰かがいる。


 相良は暗い廊下を見た。


 非常灯の緑色の光の先で、白い扉がゆっくり閉まっていくのが見えた。


 人影はすでに消えていた。


 モニターには次の文字が表示された。


 藤崎玲奈は、犯人の顔を見ていません。


 しかし、犯人の名前を知っています。


 玲奈が膝から崩れ落ちた。


 相良は駆け寄る。


 彼女は震える手で、相良の袖を掴んだ。


「相良さん」


「大丈夫です。落ち着いて」


「違う」


 玲奈は首を振った。


 目には涙が浮かんでいた。だが、その涙は恐怖だけのものではなかった。悔しさと怒りと、長い沈黙を破る痛みが混ざっていた。


「あの人の名前を言ったら、みんな死ぬ」


「誰の名前ですか」


 玲奈は唇を動かした。


 声はほとんど出ていなかった。


 だが、相良には聞こえた。


「白幡」


 その名前を聞いた瞬間、美緒の顔が凍りついた。


 白幡医療財団。


 久瀬の研究資金を出していた団体。


 宮代の娘が入院していた病院の所有者。


 そして、藤崎玲奈を3年間、生きたまま消していた場所。


 モニターに赤い文字が浮かんだ。


 第4証明、続行不能。


 外部妨害を検出。


 次の瞬間、病院全体の電気が落ちた。


 暗闇が、廊下を飲み込んだ。


 雨音だけが残った。


 相良の腕の中で、藤崎玲奈が震えていた。


 そして暗闇の奥から、誰かの足音が近づいてきた。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

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