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死者への証明  作者: 海老沢大地


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5/15

第5話 宮代啓介の証明


 午後4時42分。


 第7実験室の前には、朝とは違う空気が漂っていた。


 朝の冷たさは、まだ機械的だった。消毒液の匂い、白い壁、乾いた空調音。そこには研究施設特有の無機質さがあった。


 だが今は違う。


 廊下の空気は、目に見えない熱を帯びていた。


 研究員たちは足早に行き交い、誰もが声を潜めている。壁際に立つ捜査員の無線からは、短く途切れた報告音が漏れていた。遠くでは報道陣のざわめきが、分厚い壁を通してかすかに響いている。


 外はまだ雨だった。


 地上の窓から見えた空は、昼と夕方の境目を失ったような灰色だった。雨粒は細かく、しかし絶え間なく降り続いている。研究棟のガラスには水滴が何本もの筋を作り、外の景色を歪ませていた。


 相良律は、その歪んだ景色を思い出しながら、第7実験室の扉を見つめていた。


 午後5時。


 《オルフェ》は、宮代啓介を証明する。


 それは本来、翌朝9時に行われるはずだった。


 だが何者かが外部からシステムに侵入し、証明の時刻を前倒しした。


 久瀬誠一が仕掛けた死後の実験を、さらに別の誰かが動かしている。


 その事実が、相良の背筋を冷たくしていた。


「相良さん」


 背後から声がした。


 宮代だった。


 彼はいつも通り、黒いスーツを着ていた。ネクタイの結び目も乱れていない。髪も整っている。刑事としての外側は、まるで崩れていなかった。


 だが、目だけが違った。


 朝よりも深く沈んでいる。眠っていない者の目ではない。覚悟を決めた者の目でもない。


 それは、ずっと閉じ込めていたものを、ついに開けられる人間の目だった。


「逃げないんですね」


 相良が言うと、宮代は薄く笑った。


 笑ったというより、顔の筋肉を少しだけ動かしただけだった。


「逃げたところで、《オルフェ》は止まりません」


「あなた自身が止めることはできるかもしれない」


「私が止めたら、私の嘘が確定するだけです」


「もうほとんど確定しています」


「刑事としては、証明されるまで認めないことにしています」


「父親としては?」


 宮代は答えなかった。


 廊下の蛍光灯が、彼の横顔を白く照らしていた。頬の影が濃い。普段は見えなかった年齢の皺が、目元に細く刻まれている。


「父親としては」


 宮代は少し間を置いて言った。


「認めたくないことばかりです」


 その声には、感情が少なかった。


 少なすぎるせいで、かえって重かった。


     *


 午後4時58分。


 第7実験室には、最低限の人間だけが残された。


 相良、宮代、美緒、数人の捜査員、そしてシステム管理担当の研究員。全員が言葉を減らしていた。


 《オルフェ》の白い外装は、夕方の青白い照明を受けて、病院の手術台のように見えた。ポッドの内側には細いセンサーが並び、黒いモニターには開始までのカウントダウンが表示されている。


 残り、1分12秒。


 数字が減るたびに、室内の空気が薄くなっていくようだった。


 宮代は装置の前に立っていた。


 手錠をかけられているわけでも、拘束されているわけでもない。それなのに、彼の立ち姿はどこか裁かれる人間に似ていた。


 美緒は少し離れた場所に立っている。


 灰色のコートの襟元を両手で握りしめていた。夫の死からまだ2日も経っていない。だが彼女の顔には、悲しみよりも疲労が濃く出ていた。目の下には薄い影があり、唇は何度も何度も言葉を飲み込んだ人のように強く結ばれている。


 相良はモニターを見た。


 残り、10秒。


 9。


 8。


 7。


 機械音が低くなる。


 6。


 5。


 宮代の手が、ほんのわずかに動いた。


 4。


 3。


 彼は手帳を握りしめた。


 2。


 1。


 午後5時。


 《オルフェ》が起動した。


 第3証明を開始します。


 証明対象。


 宮代啓介。


 モニターに文字が浮かび上がった瞬間、宮代の表情から、人間らしい揺らぎが消えた。


 刑事の顔だった。


 尋問される側でありながら、尋問する者のような顔をしていた。


 データが流れ始める。


 5年前の医療記録。

 警察病院の入退室記録。

 久瀬誠一の研究ログ。

 未成年被験者の情動反応データ。


 その中に、ひとつの名前が表示された。


 宮代沙季。


 美緒が小さく息を呑んだ。


「娘さん……」


 宮代は動かなかった。


 モニターには、古い映像が表示された。


 病室だった。


 白いカーテン。点滴スタンド。淡い黄色の壁。窓際には、雨の日に使われたらしい透明なビニール傘が立てかけられている。


 ベッドには、1人の少女が眠っていた。


 細い腕。

 白い包帯。

 閉じられたまぶた。

 唇の色は薄く、頬には子どもらしい丸みがまだ残っていた。


 宮代沙季。


 当時13歳。


 映像の端に、若い宮代啓介が映っていた。


 今より髪は黒く、頬も少しだけ若い。だが表情は今とほとんど変わらない。感情を表に出さない顔。出さないのではなく、出した瞬間に崩れてしまうから、必死に押し殺している顔だった。


 病室に、久瀬誠一が入ってくる。


 白衣を着ている。

 眼鏡の奥の目は、ひどく静かだった。


『宮代さん。娘さんの記憶反応を調べます』


 映像の中の宮代が言う。


『犯人が分かるんですか』


『分かるとは言っていません』


『では、何が分かるんです』


『彼女が何を恐れたのかです』


 そこで映像が一度止まり、モニターに解析結果が重なった。


 対象者、宮代沙季。

 外傷性意識障害。

 聴覚刺激に対する情動反応あり。

 特定音声に強い恐怖反応。


 相良は画面を見つめた。


 特定音声。


 それが、宮代が言えなかった言葉なのだろう。


 映像が再開される。


 久瀬が録音機器を操作し、いくつかの音声を流す。


 足音。

 車のブレーキ音。

 男性の怒鳴り声。

 階段を転げ落ちるような鈍い音。


 少女の体はほとんど動かない。


 だが次の音声が流れた瞬間、心拍数の波形が跳ね上がった。


 それは男の声だった。


 低く、乾いた声。


『見なかったことにしろ』


 宮代沙季の指が、ぴくりと動いた。


 モニターの波形が赤く染まる。


 恐怖反応、最大値。


 美緒が口元を押さえた。


 宮代は微動だにしなかった。


 だが相良には分かった。


 彼は呼吸を止めている。


 モニターに文字が表示される。


 証明結果。


 宮代啓介は、娘の記憶解析結果を公的記録から隠蔽しました。


 室内の誰も声を出さなかった。


 宮代はゆっくりと目を閉じた。


「隠蔽ではありません」


 彼は静かに言った。


「保護です」


 その言葉に、モニターの赤い警告が点滅した。


 虚偽反応を検出。


 相良は宮代を見た。


「宮代さん」


 宮代は目を開けた。


 顔色は変わっていない。声も乱れていない。けれど、目の奥には、長い間凍らせていた怒りが見えた。


「私は、娘を守りたかった」


 警告は出なかった。


 真実反応。


「でも」


 宮代は続けた。


「同時に、自分も守った」


 モニターの赤い点滅が消えた。


 真実反応。


 宮代はゆっくりと話し始めた。


 5年前、娘の沙季は階段から突き落とされた。現場にいたのは複数人。だが目撃者はいなかった。防犯カメラも死角だった。沙季は意識不明になり、犯人は分からなかった。


 そこへ久瀬が現れた。


 記憶の反応を見れば、娘が最後に聞いた言葉が分かるかもしれない。


 宮代は同意した。


 父親として。


 刑事であることを忘れて。


 久瀬の装置は、沙季の恐怖反応を拾った。


『見なかったことにしろ』


 その言葉だけが、異常なほど強く反応した。


「それだけでは犯人にたどり着けない」


 宮代は言った。


「声紋も不鮮明。状況証拠にもならない。ですが久瀬さんは、同じ言葉に反応した別の被験者がいると言いました」


 相良は息を止めた。


「藤崎玲奈ですか」


 宮代は頷いた。


「彼女も、その言葉に反応した」


 モニターに新しい映像が出た。


 3年前の第7実験室。


 藤崎玲奈が椅子に座っている。痩せた体。震える肩。目の下の濃い影。


 久瀬が音声を流す。


『見なかったことにしろ』


 玲奈の体が大きく跳ねた。


 心拍数が急上昇する。

 眼球が揺れる。

 喉の奥から、声にならない悲鳴が漏れる。


 彼女は両手で耳を塞ぎ、何度も首を振った。


『違う、違う、私は言ってない、私じゃない』


 相良の背中に、冷たい汗が流れた。


「藤崎玲奈は、犯人を見たんじゃない」


 相良は呟いた。


「その言葉を聞いたんだ」


 宮代は頷いた。


「娘も、藤崎玲奈も、同じ言葉に怯えていた。2人は別々の事件の被害者に見えた。だが、本当は同じ何かにつながっていた」


「なぜ公表しなかったんですか」


 美緒が聞いた。


 声は震えていたが、目は逃げていなかった。


 宮代は美緒を見た。


「久瀬さんに止められました」


「夫に?」


「ええ。今出せば、娘さんは守れない。藤崎玲奈も消される。そう言われました」


「それを信じたんですか」


「信じたかったんです」


 赤い警告は出なかった。


 真実反応。


 宮代の声が初めて揺れた。


「娘はその後、意識を取り戻しました。でも、あの言葉を聞くと発作を起こした。夜中に泣き叫び、知らない男の声が聞こえると言った。学校にも戻れなかった」


 彼は手帳を握りしめた。


「私は父親として、これ以上娘を事件に巻き込みたくなかった」


「刑事としては?」


 相良が聞いた。


 宮代はすぐには答えなかった。


 数秒の沈黙が落ちた。


 室内の機械音が、やけに大きく聞こえた。


「刑事としては」


 宮代は言った。


「失格でした」


 その瞬間、モニターに文字が表示された。


 真実反応。


 相良は何も言えなかった。


 責める言葉はあった。

 だが、口にできなかった。


 父親として娘を守りたい気持ちも分かる。

 刑事として真実を追うべきだったことも分かる。


 どちらかだけが正しいのなら、こんなに苦しくはならない。


 久瀬は、それを分かっていて宮代を選んだのだ。


 人間が嘘をつく瞬間を、罪としてではなく、傷として暴くために。


     *


 証明はまだ終わっていなかった。


 モニターに、新しいデータが表示された。


 5年前、宮代沙季が恐怖反応を示した音声。

 3年前、藤崎玲奈が恐怖反応を示した音声。


 2つの波形が重ねられる。


 完全一致ではない。


 だが、声の癖、呼吸の間、語尾の落ち方が似ていた。


 《オルフェ》の解析結果が表示される。


 同一人物の可能性、72.8%。


 美緒が呟いた。


「同じ人間が、2人に……」


 その時、相良のスマートフォンが震えた。


 差出人不明。


 本文はなかった。


 添付ファイルだけが1つ。


 開くと、1枚の画像が表示された。


 古びた病院の外観だった。


 白い壁はところどころ黒ずみ、窓のいくつかには内側からカーテンが閉められている。正面玄関のガラス扉には、閉鎖中と書かれた紙が貼られていた。


 画像の下に、文字があった。


 藤崎玲奈はここにいる。


 住所も添えられていた。


 相良は画面を見つめた。


「宮代さん」


 彼はスマートフォンを差し出した。


「この病院に見覚えは?」


 宮代は画面を見た。


 顔色は変わらなかった。


 だが、目だけがわずかに細くなった。


「あります」


「どこですか」


「5年前、娘が入院していた病院です」


 美緒が一歩後ずさった。


 相良はモニターを見た。


 《オルフェ》には、最後の文字が表示されていた。


 第3証明、完了。


 第4証明は、藤崎玲奈の生存確認後に開始します。


 その下に、久瀬の署名のような短い文が浮かんでいた。


 死者は、まだ1人とは限らない。


 相良は理解した。


 久瀬誠一が証明したかったものは、死んだ人間の真実ではない。


 生きているはずなのに、社会から消された人間たちの真実だ。


 午後5時17分。


 雨はまだ降っていた。


 研究棟の外で待つ報道陣のライトが、濡れた地面に白く滲んでいる。


 相良はコートを掴み、出口へ向かった。


 藤崎玲奈に会わなければならない。


 3年前、自分が見捨てたかもしれない女に。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

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