第5話 宮代啓介の証明
午後4時42分。
第7実験室の前には、朝とは違う空気が漂っていた。
朝の冷たさは、まだ機械的だった。消毒液の匂い、白い壁、乾いた空調音。そこには研究施設特有の無機質さがあった。
だが今は違う。
廊下の空気は、目に見えない熱を帯びていた。
研究員たちは足早に行き交い、誰もが声を潜めている。壁際に立つ捜査員の無線からは、短く途切れた報告音が漏れていた。遠くでは報道陣のざわめきが、分厚い壁を通してかすかに響いている。
外はまだ雨だった。
地上の窓から見えた空は、昼と夕方の境目を失ったような灰色だった。雨粒は細かく、しかし絶え間なく降り続いている。研究棟のガラスには水滴が何本もの筋を作り、外の景色を歪ませていた。
相良律は、その歪んだ景色を思い出しながら、第7実験室の扉を見つめていた。
午後5時。
《オルフェ》は、宮代啓介を証明する。
それは本来、翌朝9時に行われるはずだった。
だが何者かが外部からシステムに侵入し、証明の時刻を前倒しした。
久瀬誠一が仕掛けた死後の実験を、さらに別の誰かが動かしている。
その事実が、相良の背筋を冷たくしていた。
「相良さん」
背後から声がした。
宮代だった。
彼はいつも通り、黒いスーツを着ていた。ネクタイの結び目も乱れていない。髪も整っている。刑事としての外側は、まるで崩れていなかった。
だが、目だけが違った。
朝よりも深く沈んでいる。眠っていない者の目ではない。覚悟を決めた者の目でもない。
それは、ずっと閉じ込めていたものを、ついに開けられる人間の目だった。
「逃げないんですね」
相良が言うと、宮代は薄く笑った。
笑ったというより、顔の筋肉を少しだけ動かしただけだった。
「逃げたところで、《オルフェ》は止まりません」
「あなた自身が止めることはできるかもしれない」
「私が止めたら、私の嘘が確定するだけです」
「もうほとんど確定しています」
「刑事としては、証明されるまで認めないことにしています」
「父親としては?」
宮代は答えなかった。
廊下の蛍光灯が、彼の横顔を白く照らしていた。頬の影が濃い。普段は見えなかった年齢の皺が、目元に細く刻まれている。
「父親としては」
宮代は少し間を置いて言った。
「認めたくないことばかりです」
その声には、感情が少なかった。
少なすぎるせいで、かえって重かった。
*
午後4時58分。
第7実験室には、最低限の人間だけが残された。
相良、宮代、美緒、数人の捜査員、そしてシステム管理担当の研究員。全員が言葉を減らしていた。
《オルフェ》の白い外装は、夕方の青白い照明を受けて、病院の手術台のように見えた。ポッドの内側には細いセンサーが並び、黒いモニターには開始までのカウントダウンが表示されている。
残り、1分12秒。
数字が減るたびに、室内の空気が薄くなっていくようだった。
宮代は装置の前に立っていた。
手錠をかけられているわけでも、拘束されているわけでもない。それなのに、彼の立ち姿はどこか裁かれる人間に似ていた。
美緒は少し離れた場所に立っている。
灰色のコートの襟元を両手で握りしめていた。夫の死からまだ2日も経っていない。だが彼女の顔には、悲しみよりも疲労が濃く出ていた。目の下には薄い影があり、唇は何度も何度も言葉を飲み込んだ人のように強く結ばれている。
相良はモニターを見た。
残り、10秒。
9。
8。
7。
機械音が低くなる。
6。
5。
宮代の手が、ほんのわずかに動いた。
4。
3。
彼は手帳を握りしめた。
2。
1。
午後5時。
《オルフェ》が起動した。
第3証明を開始します。
証明対象。
宮代啓介。
モニターに文字が浮かび上がった瞬間、宮代の表情から、人間らしい揺らぎが消えた。
刑事の顔だった。
尋問される側でありながら、尋問する者のような顔をしていた。
データが流れ始める。
5年前の医療記録。
警察病院の入退室記録。
久瀬誠一の研究ログ。
未成年被験者の情動反応データ。
その中に、ひとつの名前が表示された。
宮代沙季。
美緒が小さく息を呑んだ。
「娘さん……」
宮代は動かなかった。
モニターには、古い映像が表示された。
病室だった。
白いカーテン。点滴スタンド。淡い黄色の壁。窓際には、雨の日に使われたらしい透明なビニール傘が立てかけられている。
ベッドには、1人の少女が眠っていた。
細い腕。
白い包帯。
閉じられたまぶた。
唇の色は薄く、頬には子どもらしい丸みがまだ残っていた。
宮代沙季。
当時13歳。
映像の端に、若い宮代啓介が映っていた。
今より髪は黒く、頬も少しだけ若い。だが表情は今とほとんど変わらない。感情を表に出さない顔。出さないのではなく、出した瞬間に崩れてしまうから、必死に押し殺している顔だった。
病室に、久瀬誠一が入ってくる。
白衣を着ている。
眼鏡の奥の目は、ひどく静かだった。
『宮代さん。娘さんの記憶反応を調べます』
映像の中の宮代が言う。
『犯人が分かるんですか』
『分かるとは言っていません』
『では、何が分かるんです』
『彼女が何を恐れたのかです』
そこで映像が一度止まり、モニターに解析結果が重なった。
対象者、宮代沙季。
外傷性意識障害。
聴覚刺激に対する情動反応あり。
特定音声に強い恐怖反応。
相良は画面を見つめた。
特定音声。
それが、宮代が言えなかった言葉なのだろう。
映像が再開される。
久瀬が録音機器を操作し、いくつかの音声を流す。
足音。
車のブレーキ音。
男性の怒鳴り声。
階段を転げ落ちるような鈍い音。
少女の体はほとんど動かない。
だが次の音声が流れた瞬間、心拍数の波形が跳ね上がった。
それは男の声だった。
低く、乾いた声。
『見なかったことにしろ』
宮代沙季の指が、ぴくりと動いた。
モニターの波形が赤く染まる。
恐怖反応、最大値。
美緒が口元を押さえた。
宮代は微動だにしなかった。
だが相良には分かった。
彼は呼吸を止めている。
モニターに文字が表示される。
証明結果。
宮代啓介は、娘の記憶解析結果を公的記録から隠蔽しました。
室内の誰も声を出さなかった。
宮代はゆっくりと目を閉じた。
「隠蔽ではありません」
彼は静かに言った。
「保護です」
その言葉に、モニターの赤い警告が点滅した。
虚偽反応を検出。
相良は宮代を見た。
「宮代さん」
宮代は目を開けた。
顔色は変わっていない。声も乱れていない。けれど、目の奥には、長い間凍らせていた怒りが見えた。
「私は、娘を守りたかった」
警告は出なかった。
真実反応。
「でも」
宮代は続けた。
「同時に、自分も守った」
モニターの赤い点滅が消えた。
真実反応。
宮代はゆっくりと話し始めた。
5年前、娘の沙季は階段から突き落とされた。現場にいたのは複数人。だが目撃者はいなかった。防犯カメラも死角だった。沙季は意識不明になり、犯人は分からなかった。
そこへ久瀬が現れた。
記憶の反応を見れば、娘が最後に聞いた言葉が分かるかもしれない。
宮代は同意した。
父親として。
刑事であることを忘れて。
久瀬の装置は、沙季の恐怖反応を拾った。
『見なかったことにしろ』
その言葉だけが、異常なほど強く反応した。
「それだけでは犯人にたどり着けない」
宮代は言った。
「声紋も不鮮明。状況証拠にもならない。ですが久瀬さんは、同じ言葉に反応した別の被験者がいると言いました」
相良は息を止めた。
「藤崎玲奈ですか」
宮代は頷いた。
「彼女も、その言葉に反応した」
モニターに新しい映像が出た。
3年前の第7実験室。
藤崎玲奈が椅子に座っている。痩せた体。震える肩。目の下の濃い影。
久瀬が音声を流す。
『見なかったことにしろ』
玲奈の体が大きく跳ねた。
心拍数が急上昇する。
眼球が揺れる。
喉の奥から、声にならない悲鳴が漏れる。
彼女は両手で耳を塞ぎ、何度も首を振った。
『違う、違う、私は言ってない、私じゃない』
相良の背中に、冷たい汗が流れた。
「藤崎玲奈は、犯人を見たんじゃない」
相良は呟いた。
「その言葉を聞いたんだ」
宮代は頷いた。
「娘も、藤崎玲奈も、同じ言葉に怯えていた。2人は別々の事件の被害者に見えた。だが、本当は同じ何かにつながっていた」
「なぜ公表しなかったんですか」
美緒が聞いた。
声は震えていたが、目は逃げていなかった。
宮代は美緒を見た。
「久瀬さんに止められました」
「夫に?」
「ええ。今出せば、娘さんは守れない。藤崎玲奈も消される。そう言われました」
「それを信じたんですか」
「信じたかったんです」
赤い警告は出なかった。
真実反応。
宮代の声が初めて揺れた。
「娘はその後、意識を取り戻しました。でも、あの言葉を聞くと発作を起こした。夜中に泣き叫び、知らない男の声が聞こえると言った。学校にも戻れなかった」
彼は手帳を握りしめた。
「私は父親として、これ以上娘を事件に巻き込みたくなかった」
「刑事としては?」
相良が聞いた。
宮代はすぐには答えなかった。
数秒の沈黙が落ちた。
室内の機械音が、やけに大きく聞こえた。
「刑事としては」
宮代は言った。
「失格でした」
その瞬間、モニターに文字が表示された。
真実反応。
相良は何も言えなかった。
責める言葉はあった。
だが、口にできなかった。
父親として娘を守りたい気持ちも分かる。
刑事として真実を追うべきだったことも分かる。
どちらかだけが正しいのなら、こんなに苦しくはならない。
久瀬は、それを分かっていて宮代を選んだのだ。
人間が嘘をつく瞬間を、罪としてではなく、傷として暴くために。
*
証明はまだ終わっていなかった。
モニターに、新しいデータが表示された。
5年前、宮代沙季が恐怖反応を示した音声。
3年前、藤崎玲奈が恐怖反応を示した音声。
2つの波形が重ねられる。
完全一致ではない。
だが、声の癖、呼吸の間、語尾の落ち方が似ていた。
《オルフェ》の解析結果が表示される。
同一人物の可能性、72.8%。
美緒が呟いた。
「同じ人間が、2人に……」
その時、相良のスマートフォンが震えた。
差出人不明。
本文はなかった。
添付ファイルだけが1つ。
開くと、1枚の画像が表示された。
古びた病院の外観だった。
白い壁はところどころ黒ずみ、窓のいくつかには内側からカーテンが閉められている。正面玄関のガラス扉には、閉鎖中と書かれた紙が貼られていた。
画像の下に、文字があった。
藤崎玲奈はここにいる。
住所も添えられていた。
相良は画面を見つめた。
「宮代さん」
彼はスマートフォンを差し出した。
「この病院に見覚えは?」
宮代は画面を見た。
顔色は変わらなかった。
だが、目だけがわずかに細くなった。
「あります」
「どこですか」
「5年前、娘が入院していた病院です」
美緒が一歩後ずさった。
相良はモニターを見た。
《オルフェ》には、最後の文字が表示されていた。
第3証明、完了。
第4証明は、藤崎玲奈の生存確認後に開始します。
その下に、久瀬の署名のような短い文が浮かんでいた。
死者は、まだ1人とは限らない。
相良は理解した。
久瀬誠一が証明したかったものは、死んだ人間の真実ではない。
生きているはずなのに、社会から消された人間たちの真実だ。
午後5時17分。
雨はまだ降っていた。
研究棟の外で待つ報道陣のライトが、濡れた地面に白く滲んでいる。
相良はコートを掴み、出口へ向かった。
藤崎玲奈に会わなければならない。
3年前、自分が見捨てたかもしれない女に。
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