第4話 証拠にならない真実
宮代啓介は、嘘をついた。
その事実が第7実験室に残した空気は、久瀬美緒の嘘が暴かれた時よりも重かった。
妻が夫の死について嘘をつく。
元研究者が過去について嘘をつく。
そこまでは、まだ理解できる。
人は守りたいものがある時、嘘を選ぶ。自分を守るため。誰かを守るため。あるいは、もう取り返しのつかない過去を、少しでもましな形で残すため。
だが、捜査を担当する刑事が、被害者との面識について嘘をついた。
それは事件の形を変える。
自殺か、他殺か。
そんな単純な問いでは足りなくなった。
誰が久瀬誠一を殺したのか。
ではない。
久瀬誠一は、なぜ死ぬ前に全員を選んだのか。
*
「私は捜査から外れた方がいいでしょうね」
宮代は自分からそう言った。
午前10時20分。
場所は、第三研究棟の休憩室だった。
研究室とは違い、そこには人間が使うための生活感がわずかに残っていた。壁際の自動販売機は故障中で、赤いランプだけが虚しく点いている。丸テーブルには古いコーヒーの染みがあり、誰かが置き忘れた紙コップが、空調の風でかすかに揺れていた。
窓の外では、雨がまだ降っていた。
研究棟の窓ガラスには細い水滴が何本も流れ、灰色の空をぼかしている。朝なのに、外は夕方のように暗い。遠くに見える木々も、雨と霧のせいで輪郭を失っていた。
その薄暗さが、休憩室の中にまで染み込んでいるようだった。
相良、美緒、宮代の3人だけがそこにいた。
若い刑事は上司への報告に走り、研究センターの職員たちは《オルフェ》のログ確認に追われている。
相良は缶コーヒーを開けた。ひどく甘い。舌に残る砂糖の味が不快だった。
「ずいぶん冷静ですね」
「騒いでも事実は変わりません」
「事実?」
「私は久瀬誠一さんと過去に会っています」
宮代はあっさり認めた。
相良は缶を持つ手を止めた。
「昨日は面識がないと言いました」
「嘘です」
「刑事が捜査中に嘘をつくんですね」
「人間なので」
「便利な言い訳ですね」
「あなたも昨日使っていました」
相良は返す言葉を失った。
美緒が静かに聞いた。
「夫と、いつ会ったんですか」
「5年前です」
「どこで?」
「病院です」
「病院?」
宮代は少しだけ間を置いた。
窓の方へ視線を向ける。ガラスに映った彼の横顔は、いつもの刑事の顔ではなかった。無表情に見えるのに、目の奥だけが遠くを見ている。
「私の娘が、意識不明の状態で入院していました」
休憩室の空気が変わった。
相良は宮代を見た。
初めて、この刑事の表情から仕事用の薄い膜が剥がれたように見えた。
「事故ですか」
「事件です」
宮代は答えた。
「当時、私は捜査1課ではありませんでした。所轄の刑事でした。娘は中学生で、帰宅途中に何者かに突き飛ばされ、階段から落ちた。頭を強く打って、しばらく意識が戻らなかった」
「犯人は?」
「捕まっていません」
宮代の声は平坦だった。
平坦すぎる声だった。
その平坦さが、逆に感情の深さを示していた。怒りも後悔も、何度も何度も飲み込んだ末に、表面だけが乾いてしまった声だった。
「久瀬さんは、その時に?」
「病院へ来ました。娘の記憶反応を調べれば、犯人に関する情報が見つかるかもしれないと言って」
美緒の顔がわずかに歪んだ。
「誠一は、そんなことまで」
「当時の《オルフェ》はまだ医療応用の名目でした。意識が戻らない患者の情動反応を調べることで、外部刺激への反応を確認する。そう説明されました」
「あなたは同意したんですか」
「しました」
宮代は即答した。
「父親としては、他にすがるものがなかった。刑事としては、失格だったと思います」
「結果は?」
相良が聞いた。
「娘は犯人の顔を覚えていませんでした」
「では、何を見つけたんですか」
宮代は相良を見た。
「恐怖です」
「恐怖?」
「娘は犯人の顔ではなく、声に反応しました。ある言葉に、異常な恐怖反応を示した」
「言葉とは?」
宮代は答えなかった。
缶コーヒーの空き缶が、テーブルの上で小さく鳴った。相良の指が無意識に缶を押していた。
沈黙が数秒続いた。
その沈黙は、知らないから答えられない沈黙ではなかった。知っているからこそ、ここでは口にできない沈黙だった。
「今は言えない?」
「明日、《オルフェ》が言うでしょう」
「あなたはそれでいいんですか」
「止められないなら、先に言っても同じです」
「本当に?」
相良の問いに、宮代は目を伏せた。
ほんの一瞬だった。だが、その一瞬で彼の中の迷いが見えた。
「同じではありません」
美緒が言った。
「なら、なぜ黙っていたんですか。夫と接触していたことを」
「久瀬さんに頼まれたからです」
「夫に?」
「ええ」
「いつ?」
「亡くなる3日前です」
相良は缶コーヒーを机に置いた。
金属がテーブルに触れ、鈍い音がした。
「3日前に久瀬と会った?」
「はい」
「どこで」
「この研究センターではありません。新宿の喫茶店です」
「何のために」
「自分が死ぬかもしれないと言われました」
美緒が息をのむ。
宮代は続けた。
「もし自分が死んだら、担当刑事として現場に来る可能性がある。その時、相良律を呼んでほしい、と」
「なぜあなたに?」
「私が警察官だからです」
「それだけですか」
「それだけではありません」
宮代は自分の手帳を見つめた。
指先が手帳の黒い表紙を押している。強く押しすぎて、爪の周りが白くなっていた。
「久瀬さんは、私の娘の件で借りがあると言いました」
「借り?」
「彼は、娘の記憶から得た情報を、私に渡さなかった」
相良は眉をひそめた。
「つまり久瀬は、犯人につながる情報を知っていた?」
「可能性はあります」
「それを隠した?」
「ええ」
美緒が小さく言った。
「誠一は、何をしていたの……」
その声は、怒りよりも疲労に近かった。
夫の死を追うたびに、夫の知らない罪が増えていく。妻にとって、それはどんな感覚なのだろう。相良には想像できなかった。
*
午後1時。
事件は、研究センターの外へ漏れ始めた。
最初は小さな匿名投稿だった。
国立先端認知科学研究センターで研究者死亡。
記憶から嘘を暴く実験装置が存在。
死後、関係者の嘘を自動公開中。
誰が流したのかは分からない。だが、内容は妙に具体的だった。
久瀬の名前。
《オルフェ》という装置名。
密室。
妻のアリバイ。
元研究者・相良律。
そして、捜査1課の刑事が過去に久瀬と接触していたという情報。
投稿は瞬く間に拡散された。
研究センターの前には、報道車両が集まり始めた。雨で濡れたアスファルトの上に、テレビ局のライトが白く反射している。傘を差した記者たちが、門の前で警備員に詰め寄っていた。
SNSでは久瀬美緒を犯人扱いする書き込みが流れ、相良の名前を検索する者も現れた。3年前の研究倫理問題に関する古い記事まで掘り返されている。
《オルフェ》は法的な証拠ではない。
それなのに、人々は証明されたと思い込んだ。
相良はセンター内のモニターに映るニュース速報を見ながら、吐き気に似たものを覚えた。
画面の中の自分の名前が、他人のもののように見えた。知らない誰かが、知らない場所で、自分を語っている。その気味の悪さが、皮膚の表面を薄く撫でていく。
「これが久瀬の狙いですか」
宮代が隣で言った。
「分かりません」
「世間に見せるために、自分の死を使った」
「久瀬ならやります」
「あなたは、久瀬さんをずいぶん信用しているんですね」
「信用ではありません」
「では?」
「諦めです」
相良はモニターを見た。
画面の中では、コメンテーターらしき人物が興奮気味に話している。
もし記憶から嘘が分かるなら、犯罪捜査は根本から変わる。
冤罪を防げるかもしれない。
しかし、人権侵害ではないのか。
本人の同意なく記憶を解析することは許されるのか。
その議論は、相良が3年前に久瀬と何度もぶつけ合ったものだった。
人の記憶は、本人のものだ。
相良はそう言った。
久瀬は笑った。
なら、被害者の記憶は誰のものだ?
殺された人間の記憶は?
嘘をつかれて人生を壊された人間の記憶は?
それも加害者の自由で踏みにじられていいのか?
久瀬はいつも、問いだけは正しかった。
だから厄介だった。
「《オルフェ》の結果は、証拠能力がありません」
宮代が言った。
「ええ」
「でも、世論はそう見ない」
「人は証拠より、分かりやすい物語を信じます」
「刑事の前で言うには、嫌な言葉ですね」
「研究者の前でも嫌な言葉です」
その時、美緒が廊下の向こうから歩いてきた。
手にはスマートフォンを握っている。顔色が変わっていた。灰色だった頬が、今は紙のように白い。歩幅も乱れている。
「相良さん」
「どうしました」
「これを見てください」
美緒が画面を差し出した。
そこには、差出人不明のメールが表示されていた。
件名はない。
本文は短い。
久瀬誠一を殺したのは、《オルフェ》ではない。
その下に、画像が添付されていた。
研究センターの古い防犯カメラ映像らしき1枚。日付は3年前。場所は地下2階の通路。
そこに映っていたのは、藤崎玲奈だった。
だが、相良が知っている玲奈とは違った。
彼女は車椅子に乗っていた。髪は短く切られ、顔は青白い。膝の上に置かれた手は細く、指先だけが不自然に硬く握られている。
隣に立っているのは久瀬誠一。
そして、もう1人。
画面の端に、若い男が映っていた。
警察の制服を着ている。
相良はその顔に見覚えがあった。
若い頃の宮代啓介だった。
「宮代さん」
相良はゆっくり振り返った。
「あなたは、藤崎玲奈にも会っていたんですか」
宮代は画像を見た。
今度は、表情を隠せなかった。
顔色が変わったわけではない。目を見開いたわけでもない。だが、唇の端がわずかに強張り、喉仏が小さく上下した。
その反応だけで十分だった。
「……これは」
「知らないとは言わせません」
美緒の声が震えていた。
「あなた、夫と何をしていたんですか」
宮代はしばらく黙っていた。
廊下の奥で、誰かの足音が響く。研究員たちのざわめき。外では報道陣の声。雨音。すべてが遠く感じられた。
やがて宮代は言った。
「藤崎玲奈は、私の娘の事件と関係しています」
相良は言葉を失った。
「関係している?」
「ええ」
「どういう意味ですか」
宮代は答えようとした。
その瞬間、研究棟内に警報音が鳴り響いた。
赤いランプが点滅する。
静かだった廊下が、一気にざわついた。職員の誰かが駆け出し、白衣の裾がひるがえる。
「第7実験室のデータベースに外部アクセス!」
職員の1人が叫んだ。
別の職員が続ける。
「《オルフェ》のログが抜かれています!」
相良は走り出した。
第7実験室へ向かう途中、スマートフォンが震えた。
また差出人不明のメールだった。
本文は1行。
真実は、証拠にならない。
添付ファイルが開かれる。
音声だった。
久瀬の声が流れる。
『律。君はまだ勘違いしている。僕が証明したいのは、誰が嘘をついたかじゃない』
相良は立ち止まった。
『嘘をついた人間が、なぜ嘘を必要としたのかだ』
音声はそこで切れた。
第7実験室のモニターには、新しい文字が表示されていた。
第3証明を前倒しで開始します。
証明対象。
宮代啓介。
開始時刻。
本日17時。
宮代が追いつき、画面を見た。
顔色は変わらなかった。刑事としての仮面は、まだそこにあった。
けれど、右手だけが動かなかった。
手帳を握る指が、力を込めたまま白くなっている。
相良は聞いた。
「宮代さん。3年前、あなたは何を隠したんですか」
宮代は顔色を変えることなく、答えなかった。
視線も逸らさなかった。口元も動かさなかった。ただ、ほんの少しだけ、肩が沈んだ。
答えないことが、答えだった。
死者の証明は、もう翌朝を待たなかった。
久瀬誠一が仕掛けた15日間の実験は、誰かの手によって加速し始めていた。
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