第3話 相良律の証明
午前8時55分。
相良律は、第7実験室の前に立っていた。
地下2階の廊下は、地上よりも温度が低い。空調の風が天井の細い吹き出し口から絶えず流れ、白い壁に沿って冷気だけが静かに這っていた。窓はない。外では雨が降っているはずなのに、ここでは雨音さえ聞こえない。
その静けさが、かえって耳に痛かった。
昨日と同じ雨だった。
相良は濡れた傘を入口の傘立てに置いてきたはずなのに、まだコートの袖口に湿った重さが残っている気がした。指先が冷えている。寒さのせいだけではない。
この場所には、3年前の夜の気配が残っていた。
藤崎玲奈が実験室の床に座り込み、両耳を塞いで泣いていた夜。機械音がやけに大きく響き、久瀬誠一だけが興奮したようにモニターを見つめていた夜。
思い出したくない記憶ほど、輪郭がはっきりしている。
相良は扉の横にある認証パネルを見つめた。黒いガラス面に、自分の顔が薄く映っている。目の下には影ができ、髪も少し乱れていた。
「顔色が悪いですね」
隣に立つ宮代刑事が言った。
宮代は今日もきっちりとネクタイを締めていた。雨に濡れた気配も、睡眠不足の気配も見せない。だが目だけは、昨日よりわずかに鋭くなっている。刑事としての警戒心が、薄い膜のように全身を覆っていた。
「寝ていないので」
「眠れなかった?」
「眠りたくなかった」
相良が答えると、宮代は手帳を閉じた。
その音が、廊下に小さく響いた。
「夢を見るからですか」
相良は答えなかった。
宮代という男は、会話の入り方がうまい。尋問のようには聞こえない。それなのに、気づけば相手の傷口のすぐそばに指を置いている。刑事として有能なのか、それとも単に性格が悪いのか。相良には判断できなかった。
「昨日届いた音声データですが」
宮代が言った。
「解析に回しました。送信元は偽装されています。久瀬さん本人が、生前に予約送信した可能性が高い」
「でしょうね」
「驚かないんですね」
「久瀬はそういう男です」
「死後に人を動かす男ですか」
「生きている時からそうでした」
相良が言うと、宮代はわずかに視線を落とした。手帳の角を親指でなぞる。その動作は落ち着いているようで、どこか慎重だった。
「今日の第2証明。止めることもできます」
「止められるんですか」
「物理的に電源を落とせば」
「無理です」
「なぜ?」
「あの装置は、ただの機械じゃない。久瀬がこんな形で動かしたなら、止めた瞬間に別の場所へデータが送られる仕組みくらい作っているはずです」
「根拠は?」
「久瀬誠一だからです」
「便利な根拠ですね」
「ええ。最悪なことに、たいてい当たります」
その時、第7実験室の扉が開いた。
金属のロックが外れる音がして、密閉されていた空気が廊下へ漏れた。消毒液と金属、そして電子機器が熱を持った時のわずかな焦げ臭さ。相良の胸の奥が、嫌な形で縮む。
中にはすでに数人の捜査員とセンター職員がいた。
《オルフェ》の本体は、昨日と同じ場所に鎮座している。白いポッドのような装置。研究機器というより、相良には人間を飲み込む棺桶に見えた。
モニターには、カウントダウンが表示されていた。
残り、3分22秒。
相良は息を吐いた。自分でも気づかないうちに、呼吸を止めていたらしい。
「相良さん」
背後から声がした。
振り返ると、久瀬美緒がいた。
昨日の黒いコートではなく、今日は薄い灰色のコートを着ている。雨に濡れた髪をきちんと整えてはいるが、顔色は昨日よりも悪い。頬の血の気が薄く、唇も乾いていた。それでも目だけは、妙にはっきりしていた。
「来たんですか」
「夫の証明ですから」
「あなたを傷つけるかもしれない」
「もう十分傷ついています」
美緒はそう言って、《オルフェ》を見た。
その目には怒りも悲しみもあった。だが、それ以上に強かったのは、知ろうとする意志だった。夫を愛していたからではない。夫を許しているからでもない。
知らなければ、これ以上憎むことさえできない。
そんな目だった。
「それに、今日はあなたの番でしょう」
相良は苦笑した。
「楽しみにしているように聞こえます」
「違います」
美緒は首を振った。
「私は、知りたいんです。夫が最後に何を見ていたのか」
「久瀬を信じるんですか」
「いいえ」
即答だった。
「あの人を信じたら、こちらが壊れます」
相良は何も言えなかった。
それは、妻だから言える言葉だった。
*
午前9時。
《オルフェ》が起動した。
室内の照明が一段階落ちたように感じられた。実際には変わっていないのかもしれない。ただ、白い壁も、機械の外装も、捜査員たちの顔も、急に冷たく遠く見えた。
低い機械音が床から伝わってくる。足裏に微かな振動があった。
モニターに文字が浮かび上がる。
第2証明を開始します。
証明対象。
相良律。
その名前を見た瞬間、相良の背中に冷たいものが走った。
数値が流れる。過去の実験データ、面談記録、情動反応、眼球運動、音声波形。3年前、相良自身が研究者として残したデータまで読み込まれている。
まるで、自分の皮膚の内側を他人に覗かれているようだった。
「相良さん」
宮代が低く言った。
「あなたはこの装置の被験者になったことがあるんですか」
「ありません」
答えた直後、モニターに赤い文字が浮かんだ。
虚偽反応を検出。
宮代の視線がこちらへ向く。責めるようではない。ただ、逃がさない目だった。
相良は舌打ちしたくなった。
「正確には、正式な被験者ではありません。開発者として自己検証データを取ったことがあるだけです」
「それを普通は被験者と言います」
「研究者は自分に甘いんです」
「あなたは特に?」
「たぶん」
モニターの表示が変わった。
証明結果。
相良律は、藤崎玲奈の死亡を確認していません。
室内が静まり返った。
誰かが息を呑む音がした。美緒だった。
宮代が聞いた。
「藤崎玲奈さんは、死亡したと聞いていました」
「僕もそう聞いていました」
「誰から?」
相良は画面から目を離さずに答えた。
「久瀬からです」
モニターに次の文章が出る。
相良律は、藤崎玲奈が生存している可能性を認識していました。
虚偽反応。
相良は目を閉じた。
違う。
そう言いたかった。
知らなかった。
本当に知らなかった。
だが、胸の奥では別の声がした。
お前は知っていた。
知っていて、見ないふりをした。
「説明してください」
宮代の声は冷静だった。
相良はしばらく黙った。喉が乾いていた。言葉を出す前に、何度も唾を飲み込む必要があった。
そして3年前のことを話し始めた。
藤崎玲奈は、《オルフェ》の初期実験に参加していた被験者だった。表向きは記憶障害の治療。だが実際には、強い罪悪感やトラウマを持つ人間の記憶反応を解析するための実験だった。
玲奈は、ある交通事故の目撃者だった。
彼女は事故現場にいた。被害者は幼い子ども。加害者は逃走した。玲奈は「犯人の顔を見た」と証言したが、後にその証言は曖昧になった。
警察は彼女の記憶を信用しなかった。
久瀬は違った。
彼は、玲奈の記憶の中に「消された真実」があると考えた。
「消された?」
宮代が聞いた。
「人間の記憶は、都合よく変わります。恐怖、罪悪感、自己防衛。脳は自分を守るために事実を曲げることがある」
「藤崎玲奈さんは犯人を見ていた?」
「久瀬はそう考えていました」
「あなたは?」
相良は答えるまでに、少し時間がかかった。
「僕は、彼女をこれ以上追い詰めるべきではないと思っていた」
「それで研究所を辞めた?」
「はい」
「その後、藤崎さんは?」
「入院したと聞きました。精神的に不安定になったと」
「死亡したと聞いたのは?」
「数か月後です」
「誰から?」
「久瀬です」
モニターに文字が出た。
虚偽反応は検出されません。
宮代は手帳に何かを書いた。ペン先が紙をこする音が、妙に大きく聞こえた。
「つまり、死亡したという情報は久瀬さんからだけだった」
「そうです」
「死亡届や葬儀は確認しましたか」
「していません」
「なぜ?」
相良は笑った。
自分でも嫌になるほど、乾いた笑いだった。
「確認したくなかったからです」
モニターに再び赤い文字。
真実反応。
美緒が静かに言った。
「あなたは、逃げたんですね」
その言葉は責めているようで、そうではなかった。むしろ、美緒自身にも向けられているように聞こえた。
相良は頷いた。
「ええ。逃げました」
その瞬間、《オルフェ》の画面が暗転した。
数秒後、映像が流れ始める。
古い記録映像だった。画質は荒い。日付は3年前。場所は第7実験室。
画面の中に、藤崎玲奈が映っていた。
細い体。白い病衣。震える手。彼女は《オルフェ》のポッドに座り、何かを拒むように首を振っている。センサーの線が首元とこめかみに貼られ、まるで小さな虫が皮膚に食いついているように見えた。
映像の外から、久瀬の声がした。
『玲奈さん。もう少しです。あなたは本当の記憶に近づいている』
玲奈が泣きながら叫ぶ。
『違う、違う、私は見てない、見てないの』
別の声が入った。
相良自身の声だった。
『久瀬、やめろ。これ以上は危険だ』
『危険だから意味がある』
『彼女は壊れる』
『壊れた記憶を元に戻しているんだ』
映像の中で、相良が久瀬の胸ぐらを掴む。
久瀬は笑っていた。
恐怖も焦りもない。相手の怒りさえ、実験結果のひとつとして観察しているような笑いだった。
『律。君は優しいふりをしているだけだ』
『黙れ』
『君は彼女を救いたいんじゃない。自分が正しい人間でいたいだけだ』
次の瞬間、相良は久瀬を殴った。
映像が乱れる。
椅子が倒れる音。
誰かが叫ぶ声。
玲奈の荒い呼吸。
そして、藤崎玲奈の叫び声が響いた。
『思い出した』
画面の中の玲奈は、相良を見ていた。
いや、正確には相良の背後を見ていた。
『あの車に乗っていたのは――』
そこで映像は途切れた。
室内に重い沈黙が落ちた。
宮代が言った。
「肝心なところで切れていますね」
「久瀬らしい」
相良は吐き捨てた。
「人を苛立たせる天才です」
美緒は画面を見つめたまま言った。
「誠一は、その続きを知っていたんでしょうか」
「知っていたはずです」
「なら、なぜ隠したんですか」
「証明したかったからでしょう」
「何を?」
相良は答えられなかった。
その時、モニターに最後の文章が表示された。
第2証明、完了。
結論。
相良律は、藤崎玲奈を殺していません。
しかし、藤崎玲奈が消える理由を作りました。
相良は息を止めた。
美緒がこちらを見る。
宮代も黙っている。
証明は終わったはずだった。
だが画面には、続きがあった。
第3証明は、明日午前9時に開始します。
証明対象。
宮代啓介。
宮代刑事の名前が表示された瞬間、室内の空気が変わった。
若い刑事が思わず宮代を見る。
宮代本人は、表情を変えなかった。眉も動かさず、唇も結んだままだった。ただ、右手に持っていた手帳を、ゆっくりと閉じた。
その動きだけが、妙に丁寧すぎた。
「私ですか」
彼は静かに言った。
「久瀬さんとは面識がないはずなんですが」
モニターに、一行だけ文字が追加された。
虚偽反応の事前登録を確認。
宮代啓介は、久瀬誠一と過去に接触しています。
相良は宮代を見た。
「面識がない?」
宮代は答えなかった。
顔色を変えることもなく、視線を伏せることもなく、ただ静かにモニターを見つめていた。だが、その沈黙は、言葉よりもはっきりしていた。
答えないことが、答えだった。
モニターの右端に赤い警告が点滅する。
虚偽反応を検出。
死んだ男の証明は、今度は警察へ向いた。
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