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死者への証明  作者: 海老沢大地


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2/15

第2話 妻の嘘


 久瀬美緒は、夫の遺体を見ても泣かなかった。


 それが相良律には、ひどく印象に残った。


 人は悲しい時、必ず泣くわけではない。そんなことは分かっている。涙は感情の証明にはならないし、涙がないからといって冷たい人間だと決めつけるのは乱暴だ。


 それでも、夫が密室で死に、その場で自分の嘘を機械に暴かれた人間にしては、美緒は落ち着きすぎていた。


 落ち着いているというより、準備していたように見えた。


 この日が来ることを、ずっと前から知っていたように。


     *


 事情聴取は、第七実験室の隣にある会議室で行われた。


 窓のない小さな部屋だった。白い壁、長机、四脚の椅子。壁際には古いホワイトボードが立てかけられ、誰かが消し忘れた数式の跡が薄く残っていた。


 美緒は相良の正面に座った。


 宮代刑事は机の横に立ち、手帳を開いている。もう一人、若い刑事が部屋の隅に控えていたが、ほとんど口を開かなかった。


 本来、相良が同席する理由はない。


 だが美緒が「相良さんがいるなら話します」と言ったため、宮代はしばらく考えた末、それを許した。


 相良としては迷惑だった。


 死んだ友人。

 その妻。

 警察。

 記憶を暴く装置。

 そして、明日には自分の嘘が証明される。


 この場にいて気分のいい理由など、ひとつもない。


「昨夜のことを、最初から話してください」


 宮代が言った。


 美緒は両手を膝の上で重ねていた。爪は短く切られ、飾り気がない。結婚指輪だけが、白い指に残っている。


「昨日の夜、私は自宅にいました」


「最初の供述と同じですね」


「はい。二十一時頃に夕食を終えて、二十二時過ぎに入浴しました。その後、寝室で本を読んでいました」


「誰か、それを証明できる人は?」


「いません」


「ご主人とは連絡を取りましたか」


「二十時半頃に一度、メッセージを送りました」


「内容は」


「帰るのか、帰らないのか、と」


「返信は?」


「ありませんでした」


 宮代は手帳に目を落とした。


「しかし、《オルフェ》はあなたの供述に虚偽があると表示しました。第三研究棟地下二階付近にいた可能性がある、と」


 美緒は少しだけ口元をゆるめた。


 笑ったのではない。

 むしろ、何かを諦めたように見えた。


「あの機械は、間違えます」


「研究者の妻としての意見ですか」


「被験者の妻としての意見です」


 相良は美緒を見た。


「被験者?」


 美緒は相良に目を向けた。


「聞いていないんですか」


「何を」


「私が、初期実験の被験者だったことです」


 相良は答えられなかった。


 三年前、相良がまだ研究チームにいた頃、久瀬は《オルフェ》の実験データを一部隠していた。倫理審査を通していないデータがあるのではないかと疑い、相良は久瀬と激しく対立した。


 その時、久瀬は言った。


 お前は、知らない方がいい。

 知れば、お前は正しくなりすぎる。


 相良はその言葉が嫌いだった。


 正しすぎることの何が悪い。

 そう思っていた。


 だが今、美緒の口から出た言葉で、相良はようやく理解した。


 久瀬が隠していたものは、数字ではなかった。

 人間だった。


「久瀬は、あなたを実験に?」


「ええ」


「同意は?」


「ありました」


 美緒はすぐに答えた。


「ただし、何に同意したのかを、私は正確には知らなかった」


 宮代が眉を動かした。


「どういう意味ですか」


「最初は、記憶障害の治療だと説明されました。私は事故の後遺症で、一部の記憶が曖昧になっていたので」


「事故?」


 美緒は指輪に触れた。


「七年前、車の事故に遭いました。私は助かりましたが、お腹の子は助かりませんでした」


 会議室の空気が変わった。


 若い刑事がペンを止めた。宮代も一瞬、言葉を選ぶように黙った。


 相良は何も言えなかった。


 久瀬に子どもがいた可能性など、聞いたこともなかった。


「誠一は、私を救いたかったんだと思います」


 美緒は静かに言った。


「少なくとも、最初は」


「最初は?」


「私の記憶から、事故の恐怖を取り除く。そういう研究だと聞かされていました。でも、途中から目的が変わったんです」


「どう変わったんですか」


「私が本当に覚えていないのか。それとも、覚えていないふりをしているだけなのか。誠一は、それを知りたがるようになりました」


 相良は、拳を握っていることに気づいた。


 久瀬ならやる。

 そう思った自分が嫌だった。


「事故には、何か隠された事情が?」


 宮代が尋ねる。


 美緒は首を横に振った。


「ありません。少なくとも、警察の記録上は。ただ、誠一は納得しなかった。あの人は、何かを失った時、偶然だと思えない人でした。必ず原因がある。必ず誰かが間違えた。必ず証明できる。そう考える人でした」


「科学者としては自然な姿勢かもしれません」


「夫としては最悪です」


 美緒の声は震えていなかった。


 だからこそ、痛かった。


「昨夜、研究所には行ったんですか」


 宮代が核心に戻した。


 美緒はしばらく黙った。


 空調の音だけが部屋に残る。


 やがて彼女は、ゆっくりと言った。


「行きました」


 若い刑事が顔を上げた。


 宮代は表情を変えない。


「なぜ、最初の供述で嘘を?」


「誠一に言われていたからです」


「ご主人に?」


「もし自分が死んでも、昨夜のことは話すなと」


「なぜ」


「私を守るためだと言っていました」


「何から」


「分かりません」


「本当に?」


 宮代の声が少しだけ硬くなった。


「久瀬さんの死亡推定時刻は、昨夜二十三時半前後です。《オルフェ》が示したあなたの虚偽推定時刻は二十三時二十八分。あなたはその時間、第三研究棟地下二階付近にいた。これは偶然ですか」


 美緒は答えなかった。


 相良はたまらず口を挟んだ。


「美緒さん。あなたは第七実験室に入ったんですか」


 美緒は相良を見た。


「入っていません」


「地下二階までは来た」


「はい」


「久瀬に会いましたか」


「会えませんでした」


「会えなかった?」


「第七実験室の前まで行きました。でも、扉は開かなかった。中からロックされていました」


「久瀬は中に?」


「たぶん」


「声は?」


「聞こえませんでした」


「ではなぜ、彼が中にいると?」


 美緒はバッグからスマートフォンを取り出した。


「これです」


 画面に、一通のメッセージが表示されていた。


 送信者は、久瀬誠一。


 時刻は、昨夜二十三時十四分。


 本文は短かった。


 来るなと言っても、君は来るだろう。

 だから来い。

 ただし、扉は開けるな。


 相良は画面を見つめた。


「意味が分かりませんね」


 宮代が言った。


「ええ。私にも分かりませんでした。でも、行かなければいけないと思ったんです」


「なぜ?」


「その前に、もう一通届いていました」


 美緒は画面を操作した。


 時刻は、二十二時五十一分。


 同じく久瀬からのメッセージ。


 今日、僕は君に殺される。


 若い刑事が小さく息をのんだ。


 宮代が言った。


「このメッセージを、なぜ最初に見せなかったんですか」


「見せるなと言われていたからです」


「死んだご主人に?」


「はい」


「あなたは、夫が自殺するかもしれないと思って研究所へ向かった。それなのに警察には黙っていた。そういう理解でいいですか」


「違います」


「何が違うんです」


「私は、誠一が自殺するとは思っていませんでした」


「では何だと?」


 美緒は指輪を見つめた。


「あの人は、自分で自分を殺すほど、素直な人ではありません」


 相良は思わず笑いそうになった。


 それは、たしかに久瀬誠一という男をよく表していた。


 久瀬は死ぬ時でさえ、ただでは死なない。

 自分の死を証明に変える。

 他人の人生を巻き込んで、最後の実験を始める。


「美緒さん」


 相良は言った。


「久瀬は、あなたに何をさせたかったんですか」


「分かりません」


「本当に?」


「ただ、ひとつだけ言われました」


「何を」


「相良律が来たら、これを渡せと」


 美緒はバッグから、小さな封筒を取り出した。


 白い封筒だった。

 宛名はない。

 封はされていない。


 宮代が手を伸ばそうとしたが、美緒は首を振った。


「これは相良さんに、と言われました」


「捜査資料になる可能性があります」


「それでも、まず相良さんにと」


 宮代は相良を見た。


 相良はため息をついた。


「開けても?」


「どうぞ」


 封筒の中には、一枚の写真が入っていた。


 古い写真だった。


 写っているのは、若い頃の久瀬誠一、相良律、そしてもう一人の女性。


 相良はその女性を知っていた。


 藤崎玲奈。


 三年前、《オルフェ》の初期実験中に精神を壊し、研究所を去った被験者。

 そして、相良がこの研究から逃げる原因になった人物。


 写真の裏には、久瀬の字で短い文章が書かれていた。


 玲奈は死んでいない。


 相良の呼吸が止まった。


 宮代が覗き込む。


「藤崎玲奈とは?」


「被験者です」


「今どこに?」


「分かりません」


「死んでいない、と書かれていますが」


 相良は写真から目を離せなかった。


「僕は、死んだと思っていました」


「なぜ?」


 答えようとした瞬間、会議室のスピーカーから電子音が鳴った。


 研究棟の館内放送ではない。

 もっと近い。

 相良のポケットからだった。


 スマートフォンが震えている。


 画面を見ると、差出人不明のメールが届いていた。


 件名はなかった。


 本文には、たった一行。


 明日の証明で、君は僕を二度殺す。


 相良は血の気が引くのを感じた。


 添付ファイルがひとつあった。


 開くと、短い音声が再生された。


 久瀬誠一の声だった。


『律。君はいつも、自分が正しい側にいると思っていた』


 ノイズ混じりの声が続く。


『だから、君にだけは見せておきたい。正しさで人は殺せるということを』


 そこで音声は途切れた。


 会議室に沈黙が落ちた。


 美緒が小さく言った。


「始まったんですね」


 相良は彼女を見た。


「何が」


「誠一の復讐です」


「誰への」


 美緒は答えなかった。


 代わりに、相良の手の中にある写真を見た。


 写真の中の藤崎玲奈は、笑っていた。


 その笑顔を見た瞬間、相良は思い出した。


 三年前の夜。


 実験室の床に散らばった資料。

 泣き叫ぶ玲奈。

 それを見下ろしていた久瀬。

 そして、自分が言った言葉。


 もうやめろ、久瀬。

 彼女は壊れている。


 久瀬は答えた。


 違う。

 壊れたんじゃない。

 ようやく本当の記憶に近づいたんだ。


 あの時、相良は久瀬を殴った。


 そして研究所を去った。


 それで終わったと思っていた。


 だが、終わっていなかった。


 宮代が静かに言った。


「相良さん。明日の第二証明まで、あなたにも事情を聞かせていただく必要があります」


「僕を疑っているんですか」


「全員を疑っています」


「死んだ久瀬も?」


「もちろん」


 その答えだけは、相良にも少しだけ気に入った。


 美緒が立ち上がった。


「私は、夫を殺していません」


 宮代が言った。


「それはこれから調べます」


「でも、嘘はつきました」


「なぜですか」


 美緒は扉の前で振り返った。


「夫が、私の嘘から始める必要があると言ったからです」


「何を始めるために?」


 美緒は相良を見た。


「証明です」


 それだけ言って、彼女は部屋を出ていった。


 会議室のドアが閉まる。


 相良は椅子に座ったまま、写真の裏の文字を見つめていた。


 玲奈は死んでいない。


 もしそれが本当なら。


 久瀬誠一の死は、密室殺人でも自殺でもない。


 三年前に終わったはずの実験が、まだ続いているということになる。


 そして明日、《オルフェ》は相良律を証明する。


 久瀬が言った通りなら、相良はその証明の中で、久瀬を二度殺す。


 窓のない会議室で、相良は初めて思った。


 久瀬誠一は、本当に死んだのだろうか。


 それともあの男は、死ぬことでようやく、誰よりも自由になったのだろうか。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

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