第2話 妻の嘘
久瀬美緒は、夫の遺体を見ても泣かなかった。
それが相良律には、ひどく印象に残った。
人は悲しい時、必ず泣くわけではない。そんなことは分かっている。涙は感情の証明にはならないし、涙がないからといって冷たい人間だと決めつけるのは乱暴だ。
それでも、夫が密室で死に、その場で自分の嘘を機械に暴かれた人間にしては、美緒は落ち着きすぎていた。
落ち着いているというより、準備していたように見えた。
この日が来ることを、ずっと前から知っていたように。
*
事情聴取は、第七実験室の隣にある会議室で行われた。
窓のない小さな部屋だった。白い壁、長机、四脚の椅子。壁際には古いホワイトボードが立てかけられ、誰かが消し忘れた数式の跡が薄く残っていた。
美緒は相良の正面に座った。
宮代刑事は机の横に立ち、手帳を開いている。もう一人、若い刑事が部屋の隅に控えていたが、ほとんど口を開かなかった。
本来、相良が同席する理由はない。
だが美緒が「相良さんがいるなら話します」と言ったため、宮代はしばらく考えた末、それを許した。
相良としては迷惑だった。
死んだ友人。
その妻。
警察。
記憶を暴く装置。
そして、明日には自分の嘘が証明される。
この場にいて気分のいい理由など、ひとつもない。
「昨夜のことを、最初から話してください」
宮代が言った。
美緒は両手を膝の上で重ねていた。爪は短く切られ、飾り気がない。結婚指輪だけが、白い指に残っている。
「昨日の夜、私は自宅にいました」
「最初の供述と同じですね」
「はい。二十一時頃に夕食を終えて、二十二時過ぎに入浴しました。その後、寝室で本を読んでいました」
「誰か、それを証明できる人は?」
「いません」
「ご主人とは連絡を取りましたか」
「二十時半頃に一度、メッセージを送りました」
「内容は」
「帰るのか、帰らないのか、と」
「返信は?」
「ありませんでした」
宮代は手帳に目を落とした。
「しかし、《オルフェ》はあなたの供述に虚偽があると表示しました。第三研究棟地下二階付近にいた可能性がある、と」
美緒は少しだけ口元をゆるめた。
笑ったのではない。
むしろ、何かを諦めたように見えた。
「あの機械は、間違えます」
「研究者の妻としての意見ですか」
「被験者の妻としての意見です」
相良は美緒を見た。
「被験者?」
美緒は相良に目を向けた。
「聞いていないんですか」
「何を」
「私が、初期実験の被験者だったことです」
相良は答えられなかった。
三年前、相良がまだ研究チームにいた頃、久瀬は《オルフェ》の実験データを一部隠していた。倫理審査を通していないデータがあるのではないかと疑い、相良は久瀬と激しく対立した。
その時、久瀬は言った。
お前は、知らない方がいい。
知れば、お前は正しくなりすぎる。
相良はその言葉が嫌いだった。
正しすぎることの何が悪い。
そう思っていた。
だが今、美緒の口から出た言葉で、相良はようやく理解した。
久瀬が隠していたものは、数字ではなかった。
人間だった。
「久瀬は、あなたを実験に?」
「ええ」
「同意は?」
「ありました」
美緒はすぐに答えた。
「ただし、何に同意したのかを、私は正確には知らなかった」
宮代が眉を動かした。
「どういう意味ですか」
「最初は、記憶障害の治療だと説明されました。私は事故の後遺症で、一部の記憶が曖昧になっていたので」
「事故?」
美緒は指輪に触れた。
「七年前、車の事故に遭いました。私は助かりましたが、お腹の子は助かりませんでした」
会議室の空気が変わった。
若い刑事がペンを止めた。宮代も一瞬、言葉を選ぶように黙った。
相良は何も言えなかった。
久瀬に子どもがいた可能性など、聞いたこともなかった。
「誠一は、私を救いたかったんだと思います」
美緒は静かに言った。
「少なくとも、最初は」
「最初は?」
「私の記憶から、事故の恐怖を取り除く。そういう研究だと聞かされていました。でも、途中から目的が変わったんです」
「どう変わったんですか」
「私が本当に覚えていないのか。それとも、覚えていないふりをしているだけなのか。誠一は、それを知りたがるようになりました」
相良は、拳を握っていることに気づいた。
久瀬ならやる。
そう思った自分が嫌だった。
「事故には、何か隠された事情が?」
宮代が尋ねる。
美緒は首を横に振った。
「ありません。少なくとも、警察の記録上は。ただ、誠一は納得しなかった。あの人は、何かを失った時、偶然だと思えない人でした。必ず原因がある。必ず誰かが間違えた。必ず証明できる。そう考える人でした」
「科学者としては自然な姿勢かもしれません」
「夫としては最悪です」
美緒の声は震えていなかった。
だからこそ、痛かった。
「昨夜、研究所には行ったんですか」
宮代が核心に戻した。
美緒はしばらく黙った。
空調の音だけが部屋に残る。
やがて彼女は、ゆっくりと言った。
「行きました」
若い刑事が顔を上げた。
宮代は表情を変えない。
「なぜ、最初の供述で嘘を?」
「誠一に言われていたからです」
「ご主人に?」
「もし自分が死んでも、昨夜のことは話すなと」
「なぜ」
「私を守るためだと言っていました」
「何から」
「分かりません」
「本当に?」
宮代の声が少しだけ硬くなった。
「久瀬さんの死亡推定時刻は、昨夜二十三時半前後です。《オルフェ》が示したあなたの虚偽推定時刻は二十三時二十八分。あなたはその時間、第三研究棟地下二階付近にいた。これは偶然ですか」
美緒は答えなかった。
相良はたまらず口を挟んだ。
「美緒さん。あなたは第七実験室に入ったんですか」
美緒は相良を見た。
「入っていません」
「地下二階までは来た」
「はい」
「久瀬に会いましたか」
「会えませんでした」
「会えなかった?」
「第七実験室の前まで行きました。でも、扉は開かなかった。中からロックされていました」
「久瀬は中に?」
「たぶん」
「声は?」
「聞こえませんでした」
「ではなぜ、彼が中にいると?」
美緒はバッグからスマートフォンを取り出した。
「これです」
画面に、一通のメッセージが表示されていた。
送信者は、久瀬誠一。
時刻は、昨夜二十三時十四分。
本文は短かった。
来るなと言っても、君は来るだろう。
だから来い。
ただし、扉は開けるな。
相良は画面を見つめた。
「意味が分かりませんね」
宮代が言った。
「ええ。私にも分かりませんでした。でも、行かなければいけないと思ったんです」
「なぜ?」
「その前に、もう一通届いていました」
美緒は画面を操作した。
時刻は、二十二時五十一分。
同じく久瀬からのメッセージ。
今日、僕は君に殺される。
若い刑事が小さく息をのんだ。
宮代が言った。
「このメッセージを、なぜ最初に見せなかったんですか」
「見せるなと言われていたからです」
「死んだご主人に?」
「はい」
「あなたは、夫が自殺するかもしれないと思って研究所へ向かった。それなのに警察には黙っていた。そういう理解でいいですか」
「違います」
「何が違うんです」
「私は、誠一が自殺するとは思っていませんでした」
「では何だと?」
美緒は指輪を見つめた。
「あの人は、自分で自分を殺すほど、素直な人ではありません」
相良は思わず笑いそうになった。
それは、たしかに久瀬誠一という男をよく表していた。
久瀬は死ぬ時でさえ、ただでは死なない。
自分の死を証明に変える。
他人の人生を巻き込んで、最後の実験を始める。
「美緒さん」
相良は言った。
「久瀬は、あなたに何をさせたかったんですか」
「分かりません」
「本当に?」
「ただ、ひとつだけ言われました」
「何を」
「相良律が来たら、これを渡せと」
美緒はバッグから、小さな封筒を取り出した。
白い封筒だった。
宛名はない。
封はされていない。
宮代が手を伸ばそうとしたが、美緒は首を振った。
「これは相良さんに、と言われました」
「捜査資料になる可能性があります」
「それでも、まず相良さんにと」
宮代は相良を見た。
相良はため息をついた。
「開けても?」
「どうぞ」
封筒の中には、一枚の写真が入っていた。
古い写真だった。
写っているのは、若い頃の久瀬誠一、相良律、そしてもう一人の女性。
相良はその女性を知っていた。
藤崎玲奈。
三年前、《オルフェ》の初期実験中に精神を壊し、研究所を去った被験者。
そして、相良がこの研究から逃げる原因になった人物。
写真の裏には、久瀬の字で短い文章が書かれていた。
玲奈は死んでいない。
相良の呼吸が止まった。
宮代が覗き込む。
「藤崎玲奈とは?」
「被験者です」
「今どこに?」
「分かりません」
「死んでいない、と書かれていますが」
相良は写真から目を離せなかった。
「僕は、死んだと思っていました」
「なぜ?」
答えようとした瞬間、会議室のスピーカーから電子音が鳴った。
研究棟の館内放送ではない。
もっと近い。
相良のポケットからだった。
スマートフォンが震えている。
画面を見ると、差出人不明のメールが届いていた。
件名はなかった。
本文には、たった一行。
明日の証明で、君は僕を二度殺す。
相良は血の気が引くのを感じた。
添付ファイルがひとつあった。
開くと、短い音声が再生された。
久瀬誠一の声だった。
『律。君はいつも、自分が正しい側にいると思っていた』
ノイズ混じりの声が続く。
『だから、君にだけは見せておきたい。正しさで人は殺せるということを』
そこで音声は途切れた。
会議室に沈黙が落ちた。
美緒が小さく言った。
「始まったんですね」
相良は彼女を見た。
「何が」
「誠一の復讐です」
「誰への」
美緒は答えなかった。
代わりに、相良の手の中にある写真を見た。
写真の中の藤崎玲奈は、笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、相良は思い出した。
三年前の夜。
実験室の床に散らばった資料。
泣き叫ぶ玲奈。
それを見下ろしていた久瀬。
そして、自分が言った言葉。
もうやめろ、久瀬。
彼女は壊れている。
久瀬は答えた。
違う。
壊れたんじゃない。
ようやく本当の記憶に近づいたんだ。
あの時、相良は久瀬を殴った。
そして研究所を去った。
それで終わったと思っていた。
だが、終わっていなかった。
宮代が静かに言った。
「相良さん。明日の第二証明まで、あなたにも事情を聞かせていただく必要があります」
「僕を疑っているんですか」
「全員を疑っています」
「死んだ久瀬も?」
「もちろん」
その答えだけは、相良にも少しだけ気に入った。
美緒が立ち上がった。
「私は、夫を殺していません」
宮代が言った。
「それはこれから調べます」
「でも、嘘はつきました」
「なぜですか」
美緒は扉の前で振り返った。
「夫が、私の嘘から始める必要があると言ったからです」
「何を始めるために?」
美緒は相良を見た。
「証明です」
それだけ言って、彼女は部屋を出ていった。
会議室のドアが閉まる。
相良は椅子に座ったまま、写真の裏の文字を見つめていた。
玲奈は死んでいない。
もしそれが本当なら。
久瀬誠一の死は、密室殺人でも自殺でもない。
三年前に終わったはずの実験が、まだ続いているということになる。
そして明日、《オルフェ》は相良律を証明する。
久瀬が言った通りなら、相良はその証明の中で、久瀬を二度殺す。
窓のない会議室で、相良は初めて思った。
久瀬誠一は、本当に死んだのだろうか。
それともあの男は、死ぬことでようやく、誰よりも自由になったのだろうか。
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