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死者への証明  作者: 海老沢大地


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第1話 僕を信じるな


 人は死ぬ間際、いちばん本当のことを言う。


 そう信じている人間は多い。遺書、最後の電話、消えかけた声、血のついた指先で床に書かれた名前。物語の中では、それらが真実への扉になる。


 だが、久瀬誠一は違った。


 彼は死ぬ直前に、嘘を残した。


 いや、正確にはこう書くべきだろう。


 彼は死ぬ直前に、「自分を信じるな」と書き残した。


 その一文が、すべての始まりだった。


     *


 午前六時四十七分。


 国立先端認知科学研究センターの第三研究棟で、警備員が異常を知らせる赤いランプに気づいた。


 第三研究棟は、一般職員でも簡単には入れない。建物の入口には顔認証、指紋認証、静脈認証があり、各フロアごとに認証レベルが分けられている。その中でも地下二階の第七実験室は、センター内でも特に厳重な部屋だった。


 なぜなら、そこには《オルフェ》がある。


 正式名称は、情動記憶照合装置。

 人間の記憶に残った感情反応を読み取り、本人が意識的に隠している認知のゆがみを可視化するための実験装置だ。


 簡単に言えば、人の記憶から「嘘の痕跡」を見つける機械だった。


 もちろん、法廷で使えるほど確立された技術ではない。世間に公表されているのは、記憶障害やトラウマ治療への応用研究という表向きの説明だけだった。


 しかし、研究センターの内側にいた人間なら知っていた。


 《オルフェ》は、医療機器では終わらない。


 それは、いずれ人間の嘘を測る道具になる。


 人が誰かを殺した記憶。

 盗んだ記憶。

 裏切った記憶。

 忘れたふりをしている記憶。

 本人さえ都合よく塗り替えた、罪の輪郭。


 《オルフェ》は、それを暴く可能性を持っていた。


 そしてその朝、装置の開発責任者である久瀬誠一が、第七実験室で死んでいた。


     *


 相良律が研究センターに着いたのは、午前八時十三分だった。


 雨が降っていた。


 春先の雨にしては冷たく、傘を差していてもコートの裾がじっとりと濡れる。研究棟の前には警察車両が二台停まり、白いレインコートを着た鑑識らしき人間が出入りしていた。


 相良は入口で足を止めた。


 ここへ来るのは三年ぶりだった。


 もっと言えば、来たくなかった。


「相良律さんですね」


 入口の警備室前で、スーツ姿の男が声をかけてきた。四十代半ばくらい。整った髪、疲れた目、きっちり結ばれたネクタイ。刑事というより、銀行員に近い印象だった。


「警視庁捜査一課の宮代です」


 男は警察手帳を見せた。


「お電話した者です」


「電話では、久瀬が死んだとしか聞いていません」


 相良は自分の声が思ったより乾いていることに気づいた。


「なぜ僕が呼ばれたんですか」


「久瀬誠一さんの遺言です」


「遺言?」


「正確には、現場にあなたの名前がありました」


 宮代はそう言って、相良を建物内へ促した。


 第三研究棟の中は、昔とほとんど変わっていなかった。白すぎる壁、無機質な床、空調の低い音。エレベーター横の掲示板には、相変わらず一般向けの講演会ポスターが貼られている。


 人の心を科学する。

 記憶の傷に、新しい治療の光を。


 相良はその文言を見て、思わず笑いそうになった。


 嘘だ。


 ここは、人の心を救う場所ではない。

 人の心を分解する場所だ。


 地下二階へ降りると、空気が変わった。消毒液と金属のにおいが混じった冷たい空気。通路の奥に、第七実験室があった。


 扉の前には、黄色い規制線が張られている。


「中へ?」


「本来なら部外者は入れません。ただ、あなたは元関係者ですし、現場に名前が残されていた。確認してもらいたいものがあります」


「僕は三年前に辞めています」


「存じています」


 宮代は表情を変えずに言った。


「久瀬さんとは、最後まで連絡を取っていたんですか」


「いいえ」


「最後に会ったのは?」


「三年前です」


「喧嘩別れですか」


 相良は宮代を見た。


「それは捜査に必要な質問ですか」


「必要になるかもしれません」


「なら答えます。喧嘩別れです」


「理由は?」


「彼の研究に、ついていけなくなった」


 宮代は一瞬だけ視線を動かした。メモを取るでもなく、ただ相良の声色を記憶しているようだった。


「久瀬さんは、どんな人でしたか」


「天才でした」


「それだけですか」


「最低な天才でした」


 宮代の口元がわずかに動いた。笑ったのか、困ったのかは分からなかった。


 規制線の内側へ入り、白い手袋を渡された。相良はそれをつけて、第七実験室へ入った。


 部屋の中央には、《オルフェ》があった。


 大型の医療用ポッドに似た装置。白い外装、透明なカバー、頭部を包むように配置されたセンサー。脳波、血流、微細な表情筋の動き、眼球運動、心拍変動。あらゆる反応を拾い、記憶に残った感情のゆがみを照合する。


 相良は三年前、その初期モデルの開発に関わっていた。


 そして、逃げた。


 実験室の奥、ガラス壁の手前に、白いシートをかけられたものがあった。


 人の形をしていた。


「遺体はまだ?」


「まもなく搬送されます。その前に、現場の状況だけ見ていただきたかった」


 宮代がシートの端を少しだけめくった。


 久瀬誠一の顔が見えた。


 三年前より痩せていた。頬はこけ、髪には白いものが増えている。だが、閉じられたまぶたの奥にある頑固さだけは、昔のままのように見えた。


 相良は息を吸った。


 悲しみはなかった。


 少なくとも、その瞬間には。


 代わりに胸の奥へ落ちてきたのは、ひどく冷たい違和感だった。


「死因は?」


「薬物の可能性が高いと見ています。詳しいことは司法解剖後です」


「自殺ですか」


「状況だけ見れば」


「密室だったんですね」


 相良が言うと、宮代が少しだけ目を細めた。


「なぜそう思いました」


「第七実験室は、内側からロックできる。外から開けるには、久瀬本人か管理責任者の生体認証が必要です。でも管理責任者は久瀬だった。つまり彼が内側から閉めたら、普通は誰も入れない」


「その通りです。昨夜二十三時十二分、久瀬さんが一人で入室。以後、今朝警備員が異常を確認するまで、入退室記録はありません」


「監視カメラは」


「通路にはあります。誰も入っていません」


「部屋の中は?」


「ありません」


「彼らしい」


 相良は小さく言った。


「見られるのは嫌いでしたから」


 久瀬の遺体のそばには、机があった。机上にはノートパソコン、空のコーヒーカップ、白い薬包紙のようなもの、そして一枚の紙。


 宮代がその紙を指した。


「これです」


 相良は近づいた。


 紙には、黒いペンで短い一文が書かれていた。


 僕を信じるな。


 それだけだった。


 署名もない。

 日付もない。

 謝罪もない。

 誰かへの恨みもない。


 久瀬らしいと思った。

 久瀬らしくないとも思った。


「筆跡は?」


「本人のものと見ていいでしょう」


「それで、なぜ僕を?」


 宮代は机の端に置かれたタブレットを示した。


 画面には、認証待機状態の《オルフェ》の管理画面が表示されている。そこに、ひとつのファイル名があった。


 SAGARA_RITSU.key


 相良は眉をひそめた。


「僕の名前ですね」


「ええ。開こうとしましたが、暗号化されています」


「警察が解析すればいい」


「解析班は作業中です。ただ、ファイルを開くには、あなたの生体情報が必要な可能性がある」


「僕の?」


「久瀬さんが、あなたを鍵にしているようです」


 相良は黙った。


 三年前、久瀬はよく言っていた。


 人間は、鍵の形をした嘘を持っている。

 その嘘を正しい場所に差し込めば、記憶は勝手に開く。


 そのたびに相良は言い返した。


 人間を鍵穴みたいに扱うな。


 だが久瀬は笑っていた。

 あの、相手を怒らせるためだけに存在するような笑い方で。


「相良さん」


 宮代の声で、相良は現実へ戻った。


「協力していただけますか」


「拒否したら?」


「任意です」


「任意という言葉は便利ですね。警察が使うと、だいたい断りづらい」


「断っても構いません。ただ」


 宮代は《オルフェ》を見た。


「久瀬さんは、あなたが来ることを前提にしていたようです」


「久瀬はいつもそうです。人の都合を勝手に決める」


「今もですか」


「死んでもです」


 相良はタブレットの前に立った。


 画面の下部に、生体認証の開始ボタンが表示されている。


 押すべきではない。


 そう思った。


 久瀬が自分を呼んだ理由など、知りたくなかった。三年前に捨てた研究だ。三年前に見切りをつけた男だ。今さら死者の指示に従う理由などない。


 それでも、相良の指は画面に触れた。


 認証が始まった。


 タブレットのカメラが相良の虹彩を読み取り、指先の静脈情報を確認する。数秒後、画面に文字が出た。


 認証完了。


 続けて、ファイルが開いた。


 映像ではなかった。

 音声でもなかった。


 そこに表示されたのは、ひとつの予約実行プログラムだった。


 実行時刻。

 午前九時ちょうど。


 残り時間は、二分を切っていた。


「これは?」


 宮代が画面を覗き込む。


 相良は答えなかった。答えられなかった。


 《オルフェ》の本体が、低い音を立てて起動した。白いポッドの内側に淡い光が走る。停止していたはずの解析プログラムが、誰の操作もなく立ち上がっていく。


 研究室の照明が一瞬だけ揺れた。


「止められますか」


 宮代が言った。


「分かりません」


「元開発者でしょう」


「三年前の話です。今のバージョンは知らない」


「止めた方がいいですか」


「たぶん」


「たぶん?」


「久瀬が死ぬ前に仕込んだものです。まともなはずがない」


 カウントがゼロになった。


 《オルフェ》のモニターに文字が浮かんだ。


 第一証明を開始します。


 証明対象。


 久瀬美緒。


 相良は画面を見つめた。


 久瀬美緒。

 久瀬誠一の妻だ。


 モニターに、無数の数値と波形が表示される。心拍、眼球運動、情動反応。おそらく過去に《オルフェ》へ登録されたデータだ。そこから、特定の記憶反応だけが抽出されていく。


 そして数秒後、結果が表示された。


 証明結果。


 久瀬美緒のアリバイ供述には、意図的な虚偽が含まれています。


 実験室の空気が止まった。


 宮代が低く言った。


「久瀬さんの奥さんは、昨夜、家にいたと証言しています」


 相良は画面から目を離せなかった。


 《オルフェ》はさらに文章を続けた。


 虚偽推定時刻。

 二十三時二十八分。


 場所反応。

 第三研究棟地下二階付近。


 宮代が相良を見た。


「死亡推定時刻と重なります」


 相良は、机の上の紙をもう一度見た。


 僕を信じるな。


 その一文が、急に別の意味を持ち始めていた。


 久瀬誠一は、死ぬ前に妻を疑っていたのか。

 それとも、妻を犯人に見せようとしていたのか。


 あるいはその両方か。


 その時、実験室の入口で足音がした。


 振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。


 黒いコートを着た、細い女性だった。濡れた髪が頬に張りつき、傘を持つ手がかすかに震えている。


 久瀬美緒。


 写真でしか見たことのなかった久瀬の妻が、警察官に制止されながら、こちらを見ていた。


 彼女の視線は、遺体ではなく、モニターに向いていた。


 そして表示された自分の名前を見た瞬間、彼女は笑った。


 泣きそうな顔で、笑った。


「やっぱり」


 美緒は言った。


「あの人、死んでも私を許してくれないんですね」


 宮代が近づく。


「久瀬美緒さん。昨夜の行動について、改めてお話を」


「違います」


 美緒は首を振った。


「私は殺していません」


 その言い方は、不思議だった。


 まるで、自分が疑われることを最初から知っていたようだった。


 相良は思わず聞いた。


「なら、なぜ嘘をついたんですか」


 美緒は相良を見た。


「あなたが、相良さん?」


「はい」


「夫から聞いています」


「久瀬が?」


「ええ」


 美緒は雨に濡れたまま、静かに言った。


「あの人が最後に信じた、最低の裏切り者だと」


 相良は言葉を失った。


 美緒は続けた。


「でも、あなたにだけは伝えてほしいと言われました」


「何を」


 美緒は、白いシートに覆われた夫の遺体を見た。


「あの人は、自分が死ぬ日を知っていました」


 実験室に、再び《オルフェ》の機械音が響いた。


 モニターに、新しい文字が表示される。


 第二証明は、明日午前九時に開始します。


 証明対象。


 相良律。


 自分の名前を見た瞬間、相良は理解した。


 久瀬誠一の死は、終わりではなかった。


 これは、始まりだった。


 死んだ男が仕掛けた、十五日間の証明。


 その第一日目に、相良律は呼び戻された。


 自分が捨てたはずの研究へ。


 自分が忘れたふりをしていた罪へ。


 そして、まだ誰も知らない久瀬誠一の本当の死因へ。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

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