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死者への証明  作者: 海老沢大地


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第10話 旧型端末


 病院の地下を出た時、雨はほとんど止んでいた。


 午後7時46分。


 空にはまだ雲が厚く残っていたが、西の端だけがわずかに明るい。夜になりきれない灰色の光が、閉鎖された病院の外壁をぼんやり照らしている。濡れた雑草は黒く沈み、正面玄関の割れたガラスには、相良律たちの影が歪んで映っていた。


 地上の空気は、地下より冷たかった。


 それでも相良は、深く息を吸った。


 地下の保存液の匂いが、まだ喉の奥に残っている。白い壁。固定椅子。藤崎玲奈の記録。宮代沙季の記録。美緒の記憶処理。白幡玲司の笑み。


 すべてが、皮膚の内側に貼りついたまま剥がれなかった。


 宮代啓介は、白幡を連れて病院の玄関前に立っていた。


 白幡には手錠がかけられている。だが彼は、逮捕された人間の顔をしていなかった。白いコートの袖に少し埃がついている程度で、表情は落ち着いている。


 まるで、自分は少し予定を変更しただけだと言いたげだった。


「宮代刑事」


 白幡が静かに言った。


「私を連れて行っても、何も変わりませんよ」


 宮代は答えなかった。


 白幡は続ける。


「あなたは父親として動きすぎた。今後、あなたの証言は公平性を疑われるでしょう。藤崎玲奈さんは長期監禁による精神的影響がある。久瀬美緒さんは記憶処理を受けている。相良律さんは、久瀬誠一の元同僚であり、研究倫理問題の当事者だ」


 彼は穏やかに笑った。


「裁判は、物語ではありません。かわいそうな人間が勝つ場所ではない」


 宮代の頬の傷から、乾きかけた血が細く残っていた。


 彼は白幡を見たまま、低く言った。


「ええ。裁判は物語ではありません」


「分かっているなら」


「だから、あなたの物語もここで終わりではありません」


 白幡の笑みがわずかに薄くなる。


 宮代は続けた。


「私は刑事です。あなたを憎んでいます。娘のことで、今すぐ殴りたいとも思っている」


 その声は静かだった。


 だが静かすぎるほど、怒りが深かった。


「ですが、私はあなたを殴らない。逃がしもしない。あなたが嫌う手続きで、あなたを追います」


 白幡はつまらなそうに目を細めた。


「美しい決意ですね」


「娘に顔向けできる程度には」


 宮代は若い刑事に白幡を引き渡した。


 応援の警察車両が到着している。赤色灯が濡れたアスファルトに滲み、病院前の暗いロータリーを不規則に照らしていた。


 藤崎玲奈は、救急車の中にいた。


 毛布を肩にかけられ、救急隊員に血圧を測られている。顔色は悪い。だが、先ほどより呼吸は落ち着いていた。


 相良が近づくと、玲奈は顔を上げた。


「相良さん……」


 名前を呼ぶ声はまだ弱い。


 けれど、地下で聞いた恐怖だけの声ではなかった。


「大丈夫ですか」


「大丈夫、ではないです」


 玲奈は少しだけ笑おうとした。


 うまく笑えていなかった。唇の端が震えただけだった。


「でも、外に出られました」


 相良は何も言えなかった。


 その言葉が重すぎた。


 3年間閉じ込められていた人間にとって、病院の玄関を出ることが、どれほど大きな意味を持つのか。相良には想像することしかできない。


 玲奈は毛布の端を握りしめた。


「私、証言します」


「無理しなくていい」


「無理は、ずっとしてました」


 玲奈は相良を見た。


 その目にはまだ怯えがあった。だが、奥に別の光もあった。


「今度は、自分で選びたいんです」


 相良は頷いた。


「分かりました」


 玲奈は少し迷ってから、小さな声で言った。


「相良さん」


「はい」


「3年前、私のことを見捨てたって、思ってますか」


 相良は答えに詰まった。


 雨上がりの空気が、やけに冷たく感じた。


「思っています」


 正直に言うと、玲奈は目を伏せた。


「じゃあ、私も正直に言います」


「はい」


「あの時、助けてほしかった」


 その言葉は、相良の胸を深く刺した。


 だが玲奈は続けた。


「でも、あなたがいなかったら、私はもっと早く壊れていたと思う」


「藤崎さん」


「だから……許すとか、許さないとか、まだ分かりません。でも、今は逃げないでください」


 相良はゆっくり頷いた。


「逃げません」


 玲奈はそれを聞いて、ようやく目を閉じた。


 救急車の扉が閉まる。


 白い車体が、赤い光を揺らしながらゆっくり動き出した。


 相良はその後ろ姿を見送った。


 久瀬が残した証明は、藤崎玲奈を死者から生者へ引き戻した。


 だが、それだけでは終わらない。


 まだ第7実験室に、旧型端末が残っている。


     *


 研究センターに戻ったのは、午後8時38分だった。


 第三研究棟の前には、報道陣がさらに増えていた。雨は止んだが、地面は濡れたままで、カメラのライトが白く反射している。マイクを持った記者たちが入口の規制線へ押し寄せ、警備員が必死に距離を保っていた。


 相良たちは裏口から入った。


 建物の中は、昼間よりも静かだった。


 騒ぎが収まったのではない。むしろ、全員が息を潜めているような静けさだった。研究員たちは小声で話し、捜査員たちは端末を確認しながら廊下を行き来している。


 久瀬誠一の死は、もう研究所内の事件ではなくなっていた。


 白幡医療財団。

 違法な記憶誘導実験。

 失踪扱いにされた被験者。

 そして、死者が仕掛けた証明システム。


 どれか1つだけでも世間を揺らす話だった。


 それがすべて、1つの線でつながっている。


 第7実験室の前に着くと、美緒が立ち止まった。


「ここに、あるんですね」


「おそらく」


 相良は答えた。


 美緒は扉を見つめていた。


 彼女にとって、この場所は夫の死んだ場所だ。


 そして、自分の失われた記憶の原本が眠っているかもしれない場所でもある。


「怖いですか」


 相良が聞くと、美緒は少しだけ笑った。


 疲れた笑いだった。


「怖いです。でも、知らないままでいる方が、もっと怖い」


 宮代が認証パネルを操作した。


 ロックが解除され、扉が開く。


 第7実験室は、夜の照明に沈んでいた。


 白い床。

 中央の《オルフェ》。

 奥のガラス壁。

 久瀬の遺体が横たわっていた場所には、もう何もない。


 だが相良には、まだ白いシートの形が見える気がした。


 死んだ男はここにいない。


 それなのに、この部屋のすべてが久瀬誠一の存在を残している。


「旧型端末は?」


 宮代が聞いた。


「初期の《オルフェ》には、外部ネットワークに接続していない記録端末がありました。研究倫理審査前のデータを一時保存するためのものです」


「違法な使い方ですね」


「ええ」


 相良は実験室の奥へ向かった。


 壁際の収納棚。


 3年前、久瀬と殴り合いになった時、書類が床に散らばった場所だ。棚の一番下には、古いメンテナンス用のパネルがある。


 相良は膝をつき、パネルを外した。


 中は配線だらけだった。黒いケーブル、古い端子、埃をかぶった金属部品。懐中電灯を向けると、奥に小さな黒い箱が見えた。


 相良の心臓が強く打った。


「ありました」


 宮代が近づく。


「これが旧型端末?」


「はい」


 相良は慎重に取り出した。


 手のひらより少し大きい、黒い記録装置だった。表面には傷があり、ラベルは剥がれかけている。


 だが、端末の側面に、小さな文字が刻まれていた。


 RITSU ONLY.


 相良は息を止めた。


「律専用……」


 美緒が呟く。


「あの人らしいですね」


 相良は端末を接続した。


 古いケーブルを使い、《オルフェ》の補助端末へつなぐ。画面にノイズが走り、認証画面が表示された。


 生体認証。

 音声認証。

 記憶質問認証。


「記憶質問?」


 宮代が眉をひそめる。


「久瀬が作った認証です。本人しか答えられない質問を出す」


「パスワードより性格が悪い」


「久瀬なので」


 画面に質問が表示された。


 3年前、君が僕を殴る直前に言った言葉は?


 相良の喉が乾いた。


 あの夜。


 藤崎玲奈が泣いていた。

 久瀬が笑っていた。

 相良は怒りで視界が狭くなっていた。


 殴る直前に、自分は何と言ったのか。


 相良はキーボードに手を置いた。


 指が震える。


 美緒が静かに言った。


「相良さん」


「大丈夫です」


「本当に?」


「大丈夫ではありません。でも、やります」


 相良は入力した。


 お前は人を救いたいんじゃない。証明したいだけだ。


 認証中。


 画面の文字が点滅する。


 数秒が、やけに長かった。


 認証成功。


 端末が開いた。


 フォルダが3つ表示される。


 MIO_MEMORY_ORIGINAL.

 KUZE_FINAL_PROOF.

 SAGARA_LIE.


 相良の手が止まった。


 最後のフォルダ名。


 相良の嘘。


 宮代が画面を見た。


「あなた宛てですね」


「見れば分かります」


「開きますか」


 相良は答えられなかった。


 美緒の記憶原本。

 久瀬の最終証明。

 そして、自分の嘘。


 久瀬は最後まで、相良を逃がすつもりがなかった。


「まず、美緒さんの記憶を」


 相良はそう言いかけた。


 だが、その時、画面が勝手に切り替わった。


 自動実行プログラムが起動します。


 第7証明を開始します。


 証明対象。


 相良律。


 相良は凍りついた。


「ちょっと待て……」


 キーボードを操作するが、止まらない。


 宮代が端末を覗き込む。


「停止できますか」


「できない。久瀬がロックしてる」


 美緒が不安そうに言った。


「相良さん……何が始まるんですか」


 相良は答えられなかった。


 画面に、古い映像ファイルが開いた。


 3年前の第7実験室。


 藤崎玲奈。

 久瀬誠一。

 相良律。


 そして、映像の中の相良が、床に落ちた黒い端末を拾い上げていた。


 相良は記憶にない。


 いや、違う。


 忘れたふりをしていた。


 画面の中の相良は、端末のデータを見ていた。


 そこには、白幡玲司の名前が映っていた。


 相良の口が、映像の中で動く。


『こんなものを出せば、玲奈は壊れる』


 久瀬が言う。


『出さなければ、もっと多くの人間が壊れる』


 映像の中の相良は叫ぶ。


『それでも今じゃない!』


 次の瞬間、相良は端末を床に叩きつけていた。


 映像がそこで止まる。


 モニターに文字が表示された。


 証明結果。


 相良律は、3年前に白幡玲司へたどり着く証拠を破壊しました。


 美緒が相良を見た。


 宮代も、何も言わなかった。


 相良は息ができなかった。


 記憶が戻ってくる。


 久瀬は、3年前に白幡へたどり着いていた。


 相良はそれを知った。


 だが、藤崎玲奈がこれ以上壊れるのを恐れて、証拠を壊した。


 正しいことをしたと思っていた。


 いや、正しいと思いたかった。


 モニターに最後の文字が表示される。


 相良律は、白幡玲司を止める機会を1度失わせました。


 相良は膝から崩れそうになった。


 その時、美緒が近づいた。


 彼女は相良の頬を叩かなかった。

 責めもしなかった。


 ただ、震える声で言った。


「相良さん」


「……はい」


「今度は、壊さないで」


 相良は顔を上げた。


 美緒の目には涙があった。


 だが、その奥には怒りではなく、懇願があった。


「私の記憶も、藤崎さんの証言も、宮代さんの娘さんの痛みも。今度は、誰かを守るふりをして壊さないで」


 相良は何も言えなかった。


 それでも、頷いた。


 画面には、まだ2つのフォルダが残っている。


 MIO_MEMORY_ORIGINAL.

 KUZE_FINAL_PROOF.


 久瀬誠一の最後の証明は、相良の罪を暴いた。


 次に開くのは、美緒の失われた記憶だった。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

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