表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死者への証明  作者: 海老沢大地


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/15

第11話 美緒の記憶


 第7実験室の空気は、さらに冷たくなっていた。


 午後9時12分。


 夜の研究棟は、昼間とは別の建物のように見える。廊下を歩く職員の数は減り、照明だけが白く残っていた。外には報道陣がまだ張りついているはずなのに、この地下2階まで声は届かない。


 聞こえるのは、《オルフェ》の低い駆動音だけだった。


 白いポッドの内部で、細いセンサーが淡く光っている。モニターの青白い光が相良律たちの顔を照らし、誰の顔色も実際より悪く見せていた。


 画面には、2つのフォルダが残っている。


 MIO_MEMORY_ORIGINAL.


 KUZE_FINAL_PROOF.


 相良は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。


 さっき《オルフェ》は、3年前の相良の罪を暴いた。


 白幡玲司へたどり着く証拠を、相良は自分の手で壊していた。藤崎玲奈を守るためだと思っていた。彼女がこれ以上壊れないようにと、自分に言い聞かせていた。


 けれど、本当に守ったのは自分だった。


 証拠を出して、玲奈が崩れていく姿を見たくなかった。

 久瀬と同じ場所へ踏み込むのが怖かった。

 正しさが、人を壊す瞬間を見たくなかった。


 だから壊した。


 そして白幡は、3年分の時間を得た。


 その事実が、相良の胸の奥で重く沈んでいる。


「相良さん」


 久瀬美緒の声がした。


 相良は顔を上げた。


 美緒は《オルフェ》のモニターを見つめていた。目元には涙の跡が残っている。だが、今はもう泣いていなかった。泣く段階を過ぎた人間の顔だった。


 恐怖もある。

 怒りもある。

 夫への不信も、まだ拭えていない。


 それでも、彼女は逃げようとしていなかった。


「開いてください」


 美緒が言った。


 声は震えていた。


 けれど、言葉ははっきりしていた。


「私の記憶を、開いてください」


 宮代啓介が一歩前に出る。


「久瀬さん。無理をする必要はありません。記憶処理の原本なら、専門の医師を立ち会わせた方がいい」


「宮代さん」


 美緒は宮代を見た。


「あなたは、娘さんの記録を見たいと思いませんでしたか」


 宮代は黙った。


 その沈黙だけで、答えは十分だった。


 美緒は小さく息を吸った。


「私は、自分の人生を他人の手で編集されていたんです。夫に。白幡に。もしかしたら、私自身のためだと言われて」


 彼女の指が、胸元の服を握りしめる。


「でも……それでも、知らないまま生きるのは、もう嫌です」


 相良は画面を見た。


 MIO_MEMORY_ORIGINAL.


 この中に、美緒が失った記憶がある。


 久瀬が奪った真実がある。


 そしておそらく、白幡玲司を追い詰めるための何かも。


「開きます」


 相良は言った。


「ただし、美緒さん。途中で苦しくなったら止めます」


「止めないでください」


「でも」


「相良さん」


 美緒の声が少しだけ強くなった。


「お願い。今度は、私を守るふりをして、私から真実を奪わないで」


 その言葉に、相良は何も返せなかった。


 3年前、藤崎玲奈に対して自分がしたこと。

 今、美緒に対してしてはいけないこと。


 すべてが、その一言に集約されていた。


 相良は頷き、フォルダを開いた。


     *


 画面が暗転した。


 数秒後、映像が表示される。


 7年前。


 夜の道路だった。


 映像はひどく揺れている。固定カメラではない。誰かの視界記録か、後から再構成された記憶映像に近いものだった。


 雨が降っていた。


 今夜の雨よりも強い雨だった。


 ヘッドライトが濡れた路面に長く伸び、道路の白線が水の中で揺れている。ワイパーの音が規則的に響く。車内には、かすかな音楽と、女性の浅い呼吸音が混じっていた。


 美緒の記憶だ。


 助手席から見た風景。


 運転席には、若い久瀬誠一がいる。


 今より頬に肉があり、髪も黒い。だが、目の奥の光だけは同じだった。何かを考え続けている人間の目。隣にいる妻よりも、頭の中の仮説を見ているような目。


 助手席の美緒が言う。


『誠一、少し休んだら? さっきから顔色が悪い』


 久瀬は前を見たまま答える。


『大丈夫だ』


『大丈夫って顔じゃないよ』


『研究のことを考えていただけだ』


『また?』


 声には呆れがある。


 けれど、嫌悪ではない。


 7年前の美緒は、夫をまだ信じていた。研究に取り憑かれた男だと分かっていて、それでもその横顔を愛おしむように見ていた。


 美緒が、今の美緒が、モニターの前で小さく息を呑む。


「私……こんな声で、あの人に話してたんだ」


 誰も返事をしなかった。


 映像の中で、美緒が自分のお腹に手を当てる。


 そこに、まだ生まれていない命がいた。


 久瀬の視線が一瞬だけそちらへ向く。


『病院まで、あと10分くらいだ』


『急がなくていいよ。検診は明日でもいいって言われたし』


『君が不安だと言った』


『言ったけど……こんな雨の日に無理しなくても』


『不安を放置する方が悪い』


 久瀬らしい言い方だった。


 優しさが、理屈の形をしている。


 美緒はモニターを見つめたまま、唇を噛んだ。


「誠一……」


 映像の中の車が、交差点に差しかかる。


 信号は青。


 その時だった。


 右側から、黒い車が突っ込んできた。


 映像が激しく揺れる。


 ブレーキ音。

 衝突音。

 割れるガラス。

 美緒の悲鳴。

 久瀬が何かを叫ぶ声。


 画面が白く弾けた。


 次に映ったのは、横倒しになった視界だった。


 雨が車内に入り込んでいる。ガラス片が頬の近くに散らばり、どこかでクラクションが鳴り続けていた。


 美緒の呼吸が乱れている。


『誠一……?』


 かすれた声。


『誠一、ねぇ……返事して』


 久瀬の声はない。


 美緒は動こうとするが、体が思うように動かない。視界がぼやける。腹部に強い痛みが走り、彼女は小さく呻いた。


『赤ちゃん……』


 その声は、聞いているだけで痛かった。


 美緒はモニターの前で、両手で口を押さえていた。目から涙が落ちているのに、瞬きもできないようだった。


 映像の中で、誰かの足音が近づいてくる。


 雨の中、革靴が濡れた路面を踏む音。


 黒い傘。


 黒いコート。


 顔はまだ見えない。


 倒れた車の窓の外に、男が立った。


 白幡玲司だった。


 今より少し若い。髪も黒く、姿勢もまっすぐだ。だが、その表情は現在と変わらない。


 穏やかで、静かで、どこか遠い。


 目の前で人が血を流しているのに、彼はまるで割れた花瓶でも見下ろしているようだった。


 白幡は、運転手らしき男に言った。


『見なかったことにしろ』


 その声が流れた瞬間、美緒が悲鳴を上げた。


「いやっ!」


 彼女は耳を塞いだ。


 相良はすぐに停止しようとした。


 だが美緒が叫ぶ。


「止めないで!」


「美緒さん、でも」


「止めないで! お願い、止めないで!」


 声は崩れていた。


 けれど、その奥に必死の意志があった。


 相良は手を止めた。


 映像は続く。


 白幡が、車内を覗き込む。


 美緒と目が合う。


 その瞬間、白幡の表情がわずかに変わった。


 困ったような顔。


 面倒なものを見つけた時の顔。


『生きているのか』


 誰に言うでもなく、白幡が呟く。


 運転手が慌てた声を出す。


『先生、どうしますか』


『救急車を呼びなさい』


『でも』


『助けるんだよ』


 白幡は穏やかに言った。


『死なれると、面倒だ』


 美緒の呼吸が浅くなる。


 映像の中の彼女は、白幡を見ていた。


 顔を見ていた。

 声を聞いていた。

 名前を聞いていた。


 だから、記憶を消された。


 いや、消されたのではない。


 白幡にとって都合のいい形へ、保護された。


 映像が飛ぶ。


 次の場面は、白幡記念病院の白い部屋だった。


 若い美緒がベッドに横たわっている。顔は青白く、目はうっすら開いているが、焦点が合っていない。


 隣に久瀬がいる。


 彼は美緒の手を握っていた。


 白幡もいた。


 白衣姿で、久瀬の背後に立っている。


『奥様は、見てはいけないものを見てしまった』


 白幡が言う。


 久瀬は俯いている。


『彼女の証言があれば、あなたも終わる』


『そうでしょうね』


『それでも警察へ?』


 久瀬は答えない。


 白幡はゆっくり続ける。


『ただ、考えてみてください。彼女は子どもを失った。事故の記憶を抱えたまま生きれば、心は持たないかもしれない』


 久瀬の手が、美緒の手を握る。


 強く。

 爪が食い込むほど。


『記憶を保護する方法があります』


 白幡の声は優しかった。


『彼女が壊れないように、事故の核心を覆う。あなたが望むなら、奥様は白幡玲司の顔も、あの言葉も、すべて思い出さずに済む』


 久瀬が顔を上げた。


 その顔は、相良が知っている久瀬とは違った。


 天才でも、研究者でも、冷酷な実験者でもない。


 妻を失いかけ、子どもを失い、何を守ればいいのか分からなくなった男の顔だった。


『それは、治療ですか』


 白幡が微笑む。


『ええ。彼女を生かすための治療です』


『嘘だ』


 久瀬の声は低かった。


『あなたは僕を黙らせたいだけだ』


『否定はしません』


 白幡は穏やかに言った。


『ですが、奥様を守れることも事実です』


 久瀬は美緒を見た。


 ベッドの上の美緒は、小さく呻いている。


『赤ちゃん……』


 その声を聞いた瞬間、久瀬の表情が崩れた。


 彼は泣いていなかった。


 だが、泣くよりもひどい顔だった。


 久瀬は白幡を見た。


『処理後の原本は、僕が管理する』


『構いません』


『あなたには渡さない』


『どうぞ。あなたが握っていると思えば、少しは気が済むでしょう』


 白幡はそう言って、微笑んだ。


 映像の中の久瀬は、美緒の手を握りながら呟いた。


『美緒……ごめん』


 その直後、画面が白く染まった。


     *


 映像が終わった。


 第7実験室には、誰もすぐには声を出せなかった。


 美緒は床に座り込んでいた。


 肩が震えている。泣いているのに、声が出ていない。涙だけが頬を伝い、顎の先から落ちていく。


 相良は近づこうとした。


 だが、美緒が片手を上げて止めた。


「来ないで……今は、来ないで」


 相良は足を止めた。


 宮代も黙っている。


 美緒は両手で顔を覆った。


「誠一は……私を守ったんですか」


 誰も答えられない。


「それとも、私から奪ったんですか」


 その問いにも、答えはなかった。


 美緒はゆっくり顔を上げた。


 涙で濡れた目には、怒りと悲しみが同時に浮かんでいた。


「両方なんですね」


 彼女は小さく笑った。


 笑いにはならなかった。喉の奥で壊れたような音になった。


「あの人、最後までそういう人だったんですね。守るためなら、私の心を勝手に触っていいと思ってた。私が苦しまなければ、それでいいって」


 彼女はモニターを見た。


「最低……本当に、最低」


 それでも、その声には愛情の残骸があった。


 消しきれないものが、涙の中に混じっていた。


 相良は、何も言えなかった。


 宮代が静かに言った。


「この映像は、白幡を追う材料になります」


「証拠になりますか」


 相良が聞く。


「真正性の確認が必要です。白幡側は改ざんだと言うでしょう。久瀬さんが作った映像だと主張する可能性もある」


「でしょうね」


「ですが、状況は変わりました」


 宮代の声は、刑事のものに戻っていた。


「藤崎玲奈さんの証言。白幡第0区画の記録。久瀬美緒さんの原記憶。これらを合わせれば、少なくとも捜査は正式に動かせます」


 その時、モニターが再び点灯した。


 KUZE_FINAL_PROOF.


 最後のフォルダが、自動で開いた。


 相良は息を呑んだ。


 画面に文字が表示される。


 第8証明を開始します。


 証明対象。


 白幡玲司。


 宮代が顔を上げる。


「白幡はもう連行されています」


「でも《オルフェ》は、彼の証明を始めるつもりです」


 相良はキーボードに手を伸ばした。


 その瞬間、画面に新しい文章が出た。


 白幡玲司の証明には、生体反応が必要です。


 現在、対象者は警察移送中。


 外部端末へ接続します。


 相良は凍りついた。


「まずい」


 宮代が反応する。


「何がですか」


「久瀬は、白幡の移送先まで計算していた」


「つまり?」


「白幡が連行される車内で、証明を始める気です」


 宮代はすぐに無線を取った。


「白幡の移送車両を確認しろ! 今すぐだ!」


 返答は雑音混じりだった。


 数秒後、若い刑事の焦った声が返る。


『宮代さん、移送車両と連絡が取れません!』


 宮代の顔が硬くなる。


「位置情報は?」


『国道沿いで停止しています。応援を向かわせていますが――』


 通信が途切れた。


 実験室に嫌な沈黙が落ちる。


 美緒が涙を拭いながら立ち上がった。


「白幡が逃げたんですか」


 相良はモニターを見た。


 久瀬の最後の証明は、まだ始まったばかりだった。


 画面に、新しい文字が浮かぶ。


 対象者、白幡玲司。


 虚偽反応を検出。


 同時刻。


 移送車両、通信途絶。


 相良は悟った。


 白幡玲司は、裁かれる前に逃げようとしている。


 そして久瀬誠一は、自分の死後でさえ、それを待ち構えていた。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ