第11話 美緒の記憶
第7実験室の空気は、さらに冷たくなっていた。
午後9時12分。
夜の研究棟は、昼間とは別の建物のように見える。廊下を歩く職員の数は減り、照明だけが白く残っていた。外には報道陣がまだ張りついているはずなのに、この地下2階まで声は届かない。
聞こえるのは、《オルフェ》の低い駆動音だけだった。
白いポッドの内部で、細いセンサーが淡く光っている。モニターの青白い光が相良律たちの顔を照らし、誰の顔色も実際より悪く見せていた。
画面には、2つのフォルダが残っている。
MIO_MEMORY_ORIGINAL.
KUZE_FINAL_PROOF.
相良は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
さっき《オルフェ》は、3年前の相良の罪を暴いた。
白幡玲司へたどり着く証拠を、相良は自分の手で壊していた。藤崎玲奈を守るためだと思っていた。彼女がこれ以上壊れないようにと、自分に言い聞かせていた。
けれど、本当に守ったのは自分だった。
証拠を出して、玲奈が崩れていく姿を見たくなかった。
久瀬と同じ場所へ踏み込むのが怖かった。
正しさが、人を壊す瞬間を見たくなかった。
だから壊した。
そして白幡は、3年分の時間を得た。
その事実が、相良の胸の奥で重く沈んでいる。
「相良さん」
久瀬美緒の声がした。
相良は顔を上げた。
美緒は《オルフェ》のモニターを見つめていた。目元には涙の跡が残っている。だが、今はもう泣いていなかった。泣く段階を過ぎた人間の顔だった。
恐怖もある。
怒りもある。
夫への不信も、まだ拭えていない。
それでも、彼女は逃げようとしていなかった。
「開いてください」
美緒が言った。
声は震えていた。
けれど、言葉ははっきりしていた。
「私の記憶を、開いてください」
宮代啓介が一歩前に出る。
「久瀬さん。無理をする必要はありません。記憶処理の原本なら、専門の医師を立ち会わせた方がいい」
「宮代さん」
美緒は宮代を見た。
「あなたは、娘さんの記録を見たいと思いませんでしたか」
宮代は黙った。
その沈黙だけで、答えは十分だった。
美緒は小さく息を吸った。
「私は、自分の人生を他人の手で編集されていたんです。夫に。白幡に。もしかしたら、私自身のためだと言われて」
彼女の指が、胸元の服を握りしめる。
「でも……それでも、知らないまま生きるのは、もう嫌です」
相良は画面を見た。
MIO_MEMORY_ORIGINAL.
この中に、美緒が失った記憶がある。
久瀬が奪った真実がある。
そしておそらく、白幡玲司を追い詰めるための何かも。
「開きます」
相良は言った。
「ただし、美緒さん。途中で苦しくなったら止めます」
「止めないでください」
「でも」
「相良さん」
美緒の声が少しだけ強くなった。
「お願い。今度は、私を守るふりをして、私から真実を奪わないで」
その言葉に、相良は何も返せなかった。
3年前、藤崎玲奈に対して自分がしたこと。
今、美緒に対してしてはいけないこと。
すべてが、その一言に集約されていた。
相良は頷き、フォルダを開いた。
*
画面が暗転した。
数秒後、映像が表示される。
7年前。
夜の道路だった。
映像はひどく揺れている。固定カメラではない。誰かの視界記録か、後から再構成された記憶映像に近いものだった。
雨が降っていた。
今夜の雨よりも強い雨だった。
ヘッドライトが濡れた路面に長く伸び、道路の白線が水の中で揺れている。ワイパーの音が規則的に響く。車内には、かすかな音楽と、女性の浅い呼吸音が混じっていた。
美緒の記憶だ。
助手席から見た風景。
運転席には、若い久瀬誠一がいる。
今より頬に肉があり、髪も黒い。だが、目の奥の光だけは同じだった。何かを考え続けている人間の目。隣にいる妻よりも、頭の中の仮説を見ているような目。
助手席の美緒が言う。
『誠一、少し休んだら? さっきから顔色が悪い』
久瀬は前を見たまま答える。
『大丈夫だ』
『大丈夫って顔じゃないよ』
『研究のことを考えていただけだ』
『また?』
声には呆れがある。
けれど、嫌悪ではない。
7年前の美緒は、夫をまだ信じていた。研究に取り憑かれた男だと分かっていて、それでもその横顔を愛おしむように見ていた。
美緒が、今の美緒が、モニターの前で小さく息を呑む。
「私……こんな声で、あの人に話してたんだ」
誰も返事をしなかった。
映像の中で、美緒が自分のお腹に手を当てる。
そこに、まだ生まれていない命がいた。
久瀬の視線が一瞬だけそちらへ向く。
『病院まで、あと10分くらいだ』
『急がなくていいよ。検診は明日でもいいって言われたし』
『君が不安だと言った』
『言ったけど……こんな雨の日に無理しなくても』
『不安を放置する方が悪い』
久瀬らしい言い方だった。
優しさが、理屈の形をしている。
美緒はモニターを見つめたまま、唇を噛んだ。
「誠一……」
映像の中の車が、交差点に差しかかる。
信号は青。
その時だった。
右側から、黒い車が突っ込んできた。
映像が激しく揺れる。
ブレーキ音。
衝突音。
割れるガラス。
美緒の悲鳴。
久瀬が何かを叫ぶ声。
画面が白く弾けた。
次に映ったのは、横倒しになった視界だった。
雨が車内に入り込んでいる。ガラス片が頬の近くに散らばり、どこかでクラクションが鳴り続けていた。
美緒の呼吸が乱れている。
『誠一……?』
かすれた声。
『誠一、ねぇ……返事して』
久瀬の声はない。
美緒は動こうとするが、体が思うように動かない。視界がぼやける。腹部に強い痛みが走り、彼女は小さく呻いた。
『赤ちゃん……』
その声は、聞いているだけで痛かった。
美緒はモニターの前で、両手で口を押さえていた。目から涙が落ちているのに、瞬きもできないようだった。
映像の中で、誰かの足音が近づいてくる。
雨の中、革靴が濡れた路面を踏む音。
黒い傘。
黒いコート。
顔はまだ見えない。
倒れた車の窓の外に、男が立った。
白幡玲司だった。
今より少し若い。髪も黒く、姿勢もまっすぐだ。だが、その表情は現在と変わらない。
穏やかで、静かで、どこか遠い。
目の前で人が血を流しているのに、彼はまるで割れた花瓶でも見下ろしているようだった。
白幡は、運転手らしき男に言った。
『見なかったことにしろ』
その声が流れた瞬間、美緒が悲鳴を上げた。
「いやっ!」
彼女は耳を塞いだ。
相良はすぐに停止しようとした。
だが美緒が叫ぶ。
「止めないで!」
「美緒さん、でも」
「止めないで! お願い、止めないで!」
声は崩れていた。
けれど、その奥に必死の意志があった。
相良は手を止めた。
映像は続く。
白幡が、車内を覗き込む。
美緒と目が合う。
その瞬間、白幡の表情がわずかに変わった。
困ったような顔。
面倒なものを見つけた時の顔。
『生きているのか』
誰に言うでもなく、白幡が呟く。
運転手が慌てた声を出す。
『先生、どうしますか』
『救急車を呼びなさい』
『でも』
『助けるんだよ』
白幡は穏やかに言った。
『死なれると、面倒だ』
美緒の呼吸が浅くなる。
映像の中の彼女は、白幡を見ていた。
顔を見ていた。
声を聞いていた。
名前を聞いていた。
だから、記憶を消された。
いや、消されたのではない。
白幡にとって都合のいい形へ、保護された。
映像が飛ぶ。
次の場面は、白幡記念病院の白い部屋だった。
若い美緒がベッドに横たわっている。顔は青白く、目はうっすら開いているが、焦点が合っていない。
隣に久瀬がいる。
彼は美緒の手を握っていた。
白幡もいた。
白衣姿で、久瀬の背後に立っている。
『奥様は、見てはいけないものを見てしまった』
白幡が言う。
久瀬は俯いている。
『彼女の証言があれば、あなたも終わる』
『そうでしょうね』
『それでも警察へ?』
久瀬は答えない。
白幡はゆっくり続ける。
『ただ、考えてみてください。彼女は子どもを失った。事故の記憶を抱えたまま生きれば、心は持たないかもしれない』
久瀬の手が、美緒の手を握る。
強く。
爪が食い込むほど。
『記憶を保護する方法があります』
白幡の声は優しかった。
『彼女が壊れないように、事故の核心を覆う。あなたが望むなら、奥様は白幡玲司の顔も、あの言葉も、すべて思い出さずに済む』
久瀬が顔を上げた。
その顔は、相良が知っている久瀬とは違った。
天才でも、研究者でも、冷酷な実験者でもない。
妻を失いかけ、子どもを失い、何を守ればいいのか分からなくなった男の顔だった。
『それは、治療ですか』
白幡が微笑む。
『ええ。彼女を生かすための治療です』
『嘘だ』
久瀬の声は低かった。
『あなたは僕を黙らせたいだけだ』
『否定はしません』
白幡は穏やかに言った。
『ですが、奥様を守れることも事実です』
久瀬は美緒を見た。
ベッドの上の美緒は、小さく呻いている。
『赤ちゃん……』
その声を聞いた瞬間、久瀬の表情が崩れた。
彼は泣いていなかった。
だが、泣くよりもひどい顔だった。
久瀬は白幡を見た。
『処理後の原本は、僕が管理する』
『構いません』
『あなたには渡さない』
『どうぞ。あなたが握っていると思えば、少しは気が済むでしょう』
白幡はそう言って、微笑んだ。
映像の中の久瀬は、美緒の手を握りながら呟いた。
『美緒……ごめん』
その直後、画面が白く染まった。
*
映像が終わった。
第7実験室には、誰もすぐには声を出せなかった。
美緒は床に座り込んでいた。
肩が震えている。泣いているのに、声が出ていない。涙だけが頬を伝い、顎の先から落ちていく。
相良は近づこうとした。
だが、美緒が片手を上げて止めた。
「来ないで……今は、来ないで」
相良は足を止めた。
宮代も黙っている。
美緒は両手で顔を覆った。
「誠一は……私を守ったんですか」
誰も答えられない。
「それとも、私から奪ったんですか」
その問いにも、答えはなかった。
美緒はゆっくり顔を上げた。
涙で濡れた目には、怒りと悲しみが同時に浮かんでいた。
「両方なんですね」
彼女は小さく笑った。
笑いにはならなかった。喉の奥で壊れたような音になった。
「あの人、最後までそういう人だったんですね。守るためなら、私の心を勝手に触っていいと思ってた。私が苦しまなければ、それでいいって」
彼女はモニターを見た。
「最低……本当に、最低」
それでも、その声には愛情の残骸があった。
消しきれないものが、涙の中に混じっていた。
相良は、何も言えなかった。
宮代が静かに言った。
「この映像は、白幡を追う材料になります」
「証拠になりますか」
相良が聞く。
「真正性の確認が必要です。白幡側は改ざんだと言うでしょう。久瀬さんが作った映像だと主張する可能性もある」
「でしょうね」
「ですが、状況は変わりました」
宮代の声は、刑事のものに戻っていた。
「藤崎玲奈さんの証言。白幡第0区画の記録。久瀬美緒さんの原記憶。これらを合わせれば、少なくとも捜査は正式に動かせます」
その時、モニターが再び点灯した。
KUZE_FINAL_PROOF.
最後のフォルダが、自動で開いた。
相良は息を呑んだ。
画面に文字が表示される。
第8証明を開始します。
証明対象。
白幡玲司。
宮代が顔を上げる。
「白幡はもう連行されています」
「でも《オルフェ》は、彼の証明を始めるつもりです」
相良はキーボードに手を伸ばした。
その瞬間、画面に新しい文章が出た。
白幡玲司の証明には、生体反応が必要です。
現在、対象者は警察移送中。
外部端末へ接続します。
相良は凍りついた。
「まずい」
宮代が反応する。
「何がですか」
「久瀬は、白幡の移送先まで計算していた」
「つまり?」
「白幡が連行される車内で、証明を始める気です」
宮代はすぐに無線を取った。
「白幡の移送車両を確認しろ! 今すぐだ!」
返答は雑音混じりだった。
数秒後、若い刑事の焦った声が返る。
『宮代さん、移送車両と連絡が取れません!』
宮代の顔が硬くなる。
「位置情報は?」
『国道沿いで停止しています。応援を向かわせていますが――』
通信が途切れた。
実験室に嫌な沈黙が落ちる。
美緒が涙を拭いながら立ち上がった。
「白幡が逃げたんですか」
相良はモニターを見た。
久瀬の最後の証明は、まだ始まったばかりだった。
画面に、新しい文字が浮かぶ。
対象者、白幡玲司。
虚偽反応を検出。
同時刻。
移送車両、通信途絶。
相良は悟った。
白幡玲司は、裁かれる前に逃げようとしている。
そして久瀬誠一は、自分の死後でさえ、それを待ち構えていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




