表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
死者への証明  作者: 海老沢大地


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/15

第12話 逃げる証明


 白幡玲司を乗せた移送車両は、国道沿いで停止していた。


 午後9時31分。


 雨上がりの道路には、薄い霧が出ていた。街灯の白い光が霧に滲み、夜の車道をぼんやりと照らしている。濡れたアスファルトは黒く光り、通り過ぎる車のヘッドライトがその上を細長く滑っていく。


 相良律たちが現場に着いた時、すでに警察車両が2台停まっていた。


 赤色灯の光が霧の中で点滅し、周囲のガードレールや道路標識を赤く染めている。普段なら何の変哲もない郊外の国道が、その夜だけは事件現場の顔をしていた。


 移送車両は、路肩に斜めに停まっていた。


 運転席のドアは開いている。

 助手席の窓にはひびが入っている。

 後部座席のドアも半開きだった。


 中は空だった。


 白幡玲司の姿はない。


 宮代啓介は車両へ駆け寄った。頬の傷には簡単な処置がされていたが、血の跡はまだ残っている。彼は中を覗き込み、すぐに表情を険しくした。


「運転していた刑事は?」


 若い刑事が答えた。


「意識はあります。軽い薬物反応が出ています。命に別状はありません」


「薬物?」


「車内に噴霧された可能性があります」


「白幡は」


「逃走中です。周辺を封鎖していますが、霧が濃くて……」


 宮代は舌打ちした。


 普段の彼なら、そんな音を立てることはなかっただろう。


 相良は車両の後部座席を見た。


 白幡が座っていた場所に、黒い端末が残されている。小型の通信機器だった。画面は割れているが、まだかすかに光っていた。


 そこに、文字が表示されている。


 第8証明、接続中。


 対象者、白幡玲司。


 生体反応、断続的に検出。


「まだ繋がっている」


 相良が言った。


 宮代が振り返る。


「白幡の位置が分かりますか」


「たぶん。端末が白幡の生体反応を拾っているなら、近くにいる」


「どのくらい近くですか」


「この通信範囲なら、500メートル以内」


 宮代はすぐに無線へ叫んだ。


「半径500メートル以内を封鎖! 白幡は徒歩で移動している可能性が高い。薬物を使っている。単独で近づくな!」


 霧の中を、複数の警察官が走っていく。


 相良は道路の向こうを見た。


 国道の脇には、古い工場跡があった。鉄のフェンスは錆び、敷地内には使われなくなった倉庫がいくつも並んでいる。雨に濡れたトタン屋根が、街灯の光を鈍く反射していた。


 白幡が逃げ込むなら、あそこだ。


 そう思った瞬間、手元の端末が震えた。


 画面に新しい文字。


 虚偽反応を検出。


 白幡玲司は、逃走していません。


 相良は眉をひそめた。


「逃走していない?」


 宮代が近づく。


「どういう意味ですか」


「白幡は、自分では逃げていないと思っている」


「屁理屈ですか」


「《オルフェ》は本人の認識に反応する。白幡が逃走ではなく、予定通りの移動だと認識しているなら、こう出る」


 宮代の目が細くなる。


「つまり、逃げ道を前から用意していた」


「ええ」


 その時、霧の向こうで何かが光った。


 工場跡の敷地内。


 倉庫の2階に、淡い白い光が灯っている。


 相良は息を吸った。


「あそこです」


 宮代も見た。


「行きます」


「僕も」


「危険です」


「久瀬の端末を読めるのは僕だけです」


「……分かりました。ただし、私の後ろに」


 相良は頷いた。


 その時、美緒が車を降りてきた。


「私も行きます」


 宮代が振り返る。


「久瀬さん、ここにいてください」


「嫌です」


「これは警察の仕事です」


「私の記憶を奪った人間が、そこにいるんでしょう」


 美緒の声は震えていた。


 だが、逃げるための震えではなかった。


「逃げる背中だけを見て、終わりにしたくありません」


 宮代は一瞬迷った。


 相良は美緒を見た。


 彼女の顔色は悪い。さっき自分の原記憶を見たばかりだ。普通なら立っているだけでもつらいはずだった。


 それでも、美緒はまっすぐ工場跡を見ていた。


 夫を失い、記憶を奪われ、自分の人生を他人に編集されていたことを知った女が、それでも真実を見届けようとしている。


「分かりました」


 宮代が言った。


「ただし、絶対に前へ出ないでください」


 美緒は頷いた。


「約束します」


 その言葉が、相良には少しだけ危うく聞こえた。


     *


 工場跡の敷地内は、霧と錆の匂いがした。


 フェンスの一部が切られている。人が通れる程度の隙間だった。そこを抜けると、足元には濡れた砂利が広がっていた。歩くたびに、靴底の下で小さな石が潰れるように鳴る。


 倉庫は3棟あった。


 そのうち一番奥の倉庫だけ、2階部分に光がある。


 相良たちは声を潜めて近づいた。


 宮代が先頭。

 相良がその後ろ。

 美緒はさらに後ろにいる。


 警察官たちは敷地の外側を囲んでいるが、中へ踏み込む人数は抑えられていた。白幡が何を仕掛けているか分からない。


 倉庫の扉は少し開いていた。


 中から、古い機械油と湿った木材の匂いが流れてくる。かつて工場だった場所に残る、錆と埃と鉄の匂い。


 宮代が小さく合図し、扉を開けた。


 内部は広かった。


 天井は高く、鉄骨がむき出しになっている。床には壊れた作業台や空のドラム缶が散らばり、壁際には使われなくなった機械が影の塊のように並んでいた。


 2階へ続く鉄階段がある。


 その上から、白い光が漏れていた。


 相良の端末が震える。


 対象者、白幡玲司。


 生体反応、安定。


 虚偽反応、継続中。


 白幡玲司は、自分が罪を犯したと認識していません。


 相良は画面を見つめた。


「最悪ですね」


 宮代が低く聞く。


「何がです」


「白幡は、自分を悪人だと思っていない」


「そういう人間は珍しくありません」


「分かっています。でも、これはもっとたちが悪い」


「どういう意味ですか」


「彼は、自分が人を救っていると思っている」


 宮代は階段の上を睨んだ。


「なら、なおさら止める必要があります」


 鉄階段を上がる。


 足を乗せるたびに、金属が軋んだ。音を抑えようとしても、古い階段は隠しきれない悲鳴を上げる。


 2階に着くと、小さな事務室があった。


 ドアは開いている。


 中には、白幡玲司がいた。


 椅子に座り、机の上のノートパソコンを操作している。手錠は外されていた。どうやって外したのか、机の上には小さな工具と血のついたガーゼが置かれている。


 白幡は顔を上げた。


 驚いた様子はなかった。


「思ったより早かったですね」


 宮代が拳銃を構える。


「白幡玲司。逃走および公務執行妨害の容疑で、改めて身柄を確保します」


 白幡は穏やかに首を傾げた。


「逃げてはいませんよ。私は必要な場所へ移動しただけです」


 相良の端末に文字が表示される。


 虚偽反応は検出されません。


 相良は顔をしかめた。


 本気でそう思っている。


 美緒が部屋の入口で立ち止まった。


「白幡さん」


 声は震えていた。


 けれど、目は逸らしていなかった。


「あなたは、私に何をしたんですか」


 白幡は美緒を見た。


 優しい医師のような目だった。


「あなたを救いました」


「ちっ、違う……」


 美緒の声が詰まる。


「私は、救われたんじゃない。奪われたんです。子どもを失った記憶も、あなたの顔も、夫が何をしたのかも……全部」


「それを覚えていたら、あなたは壊れていた」


「壊れるかどうかを、あなたが決めないで!」


 美緒の叫びが、古い事務室に響いた。


 その声に、相良は息を呑んだ。


 今までの美緒は、どこか抑えていた。悲しみも怒りも、きちんとした言葉に整えてから出していた。


 だが今の声は違った。


 整えられていない。

 痛みがそのまま出ている。


 白幡は静かに彼女を見ていた。


「人は、自分の真実に耐えられると思い込んでいます」


「私は、あなたの患者じゃない」


「患者でした」


「違う!」


 美緒の目から涙が落ちる。


「私は、あなたの実験材料だった」


 端末が震えた。


 白幡玲司、情動反応上昇。


 虚偽反応を検出。


 白幡が初めて、わずかに眉を動かした。


 相良は端末を見た。


「反応しました」


 宮代が白幡から目を離さずに聞く。


「何に?」


「実験材料という言葉です」


 白幡はため息をついた。


「久瀬くんの機械は、相変わらず粗雑ですね」


「粗雑なのに、怖いですか」


 相良が言うと、白幡は微笑んだ。


「怖くはありません。残念なだけです。彼なら、もっと洗練された使い方ができた」


「人を壊す使い方ですか」


「人を治す使い方です」


「白幡さん」


 相良は一歩前に出た。


「あなたはさっきから治療と言っています。でも治療なら、なぜ隠したんですか」


 白幡は答えない。


 端末に赤い文字。


 虚偽反応を検出。


「なぜ記録を地下に隠した」


 白幡は沈黙する。


 さらに赤い文字。


 虚偽反応。


「なぜ藤崎玲奈を3年間も閉じ込めた」


 白幡の目が、初めて冷たくなった。


「閉じ込めたのではありません。保護したのです」


 端末が強く震えた。


 虚偽反応。


 相良はその文字を見た。


 白幡は、自分が逃げているとは思っていない。

 罪を犯したとも思っていない。


 だが、藤崎玲奈を閉じ込めたことだけは、本人の中でも嘘だった。


 そこに、ほころびがある。


「藤崎玲奈を閉じ込めたのは、彼女が白幡玲司の名前を知っていたからですね」


 白幡の表情が消えた。


 白い仮面のようになった。


「相良さん。あなたは久瀬くんに似てきましたね」


「それは最悪の悪口ですね」


「ええ。最悪の褒め言葉です」


 宮代が一歩近づく。


「白幡、終わりです」


「終わり?」


 白幡は小さく笑った。


「終わるのは、あなた方の方です」


 彼はノートパソコンのキーを押した。


 倉庫の外で、複数のライトが点いた。


 窓の外に、人影が見える。


 警察ではない。


 黒い服を着た男たちが、倉庫の周囲に立っていた。手には棒状のものや、小型の銃器のようなものを持っている。


 宮代が無線に叫ぶ。


「外周、状況を報告しろ!」


 返答はない。


 ノイズだけが返ってくる。


 白幡は静かに言った。


「私は1人ではありません。医療は組織で行うものです」


 美緒が後ずさる。


「そんな……」


 相良の端末に、新しい文字が浮かんだ。


 KUZE_FINAL_PROOF、外部送信準備完了。


 送信先。


 全国報道機関。

 警察庁内部監査部門。

 白幡医療財団全理事。

 国立先端認知科学研究センター全職員。


 相良は目を見開いた。


「久瀬……」


 白幡の顔色が変わった。


「何をした」


 相良は端末を見た。


 画面にカウントダウンが表示されている。


 残り、3分00秒。


 白幡が立ち上がった。


「止めなさい」


 声が初めて荒れた。


「相良さん。それを止めなさい」


「嫌です」


「止めろ!」


 白幡が叫んだ。


 端末に赤い文字が走る。


 白幡玲司、強い恐怖反応を検出。


 宮代が低く言った。


「やっと、人間らしい顔になりましたね」


 白幡は宮代を睨んだ。


 その表情には、もう穏やかな医師の面影はなかった。


 焦り。

 怒り。

 恐怖。


 権力を持つ者が、自分の手から支配が滑り落ちていく瞬間の顔だった。


 カウントダウンは進む。


 2分41秒。


 2分40秒。


 外の男たちが動き出す。


 宮代が拳銃を構え直す。


 美緒が相良の袖を掴んだ。


「相良さん……これ、送れば終わるんですか」


 相良は画面を見た。


「終わりません」


 正直に言った。


「でも、始まります」


 美緒は涙を拭った。


「なら、始めてください」


 その声は震えていた。


 だが、迷いはなかった。


 白幡が机を蹴り飛ばした。


 ノートパソコンが床に落ちる。


 同時に、倉庫の1階で扉が破られる音がした。


 久瀬誠一の最後の証明は、残り2分を切っていた。


 そしてその2分が、白幡玲司の人生で初めて、誰かに支配される時間になった。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ