第12話 逃げる証明
白幡玲司を乗せた移送車両は、国道沿いで停止していた。
午後9時31分。
雨上がりの道路には、薄い霧が出ていた。街灯の白い光が霧に滲み、夜の車道をぼんやりと照らしている。濡れたアスファルトは黒く光り、通り過ぎる車のヘッドライトがその上を細長く滑っていく。
相良律たちが現場に着いた時、すでに警察車両が2台停まっていた。
赤色灯の光が霧の中で点滅し、周囲のガードレールや道路標識を赤く染めている。普段なら何の変哲もない郊外の国道が、その夜だけは事件現場の顔をしていた。
移送車両は、路肩に斜めに停まっていた。
運転席のドアは開いている。
助手席の窓にはひびが入っている。
後部座席のドアも半開きだった。
中は空だった。
白幡玲司の姿はない。
宮代啓介は車両へ駆け寄った。頬の傷には簡単な処置がされていたが、血の跡はまだ残っている。彼は中を覗き込み、すぐに表情を険しくした。
「運転していた刑事は?」
若い刑事が答えた。
「意識はあります。軽い薬物反応が出ています。命に別状はありません」
「薬物?」
「車内に噴霧された可能性があります」
「白幡は」
「逃走中です。周辺を封鎖していますが、霧が濃くて……」
宮代は舌打ちした。
普段の彼なら、そんな音を立てることはなかっただろう。
相良は車両の後部座席を見た。
白幡が座っていた場所に、黒い端末が残されている。小型の通信機器だった。画面は割れているが、まだかすかに光っていた。
そこに、文字が表示されている。
第8証明、接続中。
対象者、白幡玲司。
生体反応、断続的に検出。
「まだ繋がっている」
相良が言った。
宮代が振り返る。
「白幡の位置が分かりますか」
「たぶん。端末が白幡の生体反応を拾っているなら、近くにいる」
「どのくらい近くですか」
「この通信範囲なら、500メートル以内」
宮代はすぐに無線へ叫んだ。
「半径500メートル以内を封鎖! 白幡は徒歩で移動している可能性が高い。薬物を使っている。単独で近づくな!」
霧の中を、複数の警察官が走っていく。
相良は道路の向こうを見た。
国道の脇には、古い工場跡があった。鉄のフェンスは錆び、敷地内には使われなくなった倉庫がいくつも並んでいる。雨に濡れたトタン屋根が、街灯の光を鈍く反射していた。
白幡が逃げ込むなら、あそこだ。
そう思った瞬間、手元の端末が震えた。
画面に新しい文字。
虚偽反応を検出。
白幡玲司は、逃走していません。
相良は眉をひそめた。
「逃走していない?」
宮代が近づく。
「どういう意味ですか」
「白幡は、自分では逃げていないと思っている」
「屁理屈ですか」
「《オルフェ》は本人の認識に反応する。白幡が逃走ではなく、予定通りの移動だと認識しているなら、こう出る」
宮代の目が細くなる。
「つまり、逃げ道を前から用意していた」
「ええ」
その時、霧の向こうで何かが光った。
工場跡の敷地内。
倉庫の2階に、淡い白い光が灯っている。
相良は息を吸った。
「あそこです」
宮代も見た。
「行きます」
「僕も」
「危険です」
「久瀬の端末を読めるのは僕だけです」
「……分かりました。ただし、私の後ろに」
相良は頷いた。
その時、美緒が車を降りてきた。
「私も行きます」
宮代が振り返る。
「久瀬さん、ここにいてください」
「嫌です」
「これは警察の仕事です」
「私の記憶を奪った人間が、そこにいるんでしょう」
美緒の声は震えていた。
だが、逃げるための震えではなかった。
「逃げる背中だけを見て、終わりにしたくありません」
宮代は一瞬迷った。
相良は美緒を見た。
彼女の顔色は悪い。さっき自分の原記憶を見たばかりだ。普通なら立っているだけでもつらいはずだった。
それでも、美緒はまっすぐ工場跡を見ていた。
夫を失い、記憶を奪われ、自分の人生を他人に編集されていたことを知った女が、それでも真実を見届けようとしている。
「分かりました」
宮代が言った。
「ただし、絶対に前へ出ないでください」
美緒は頷いた。
「約束します」
その言葉が、相良には少しだけ危うく聞こえた。
*
工場跡の敷地内は、霧と錆の匂いがした。
フェンスの一部が切られている。人が通れる程度の隙間だった。そこを抜けると、足元には濡れた砂利が広がっていた。歩くたびに、靴底の下で小さな石が潰れるように鳴る。
倉庫は3棟あった。
そのうち一番奥の倉庫だけ、2階部分に光がある。
相良たちは声を潜めて近づいた。
宮代が先頭。
相良がその後ろ。
美緒はさらに後ろにいる。
警察官たちは敷地の外側を囲んでいるが、中へ踏み込む人数は抑えられていた。白幡が何を仕掛けているか分からない。
倉庫の扉は少し開いていた。
中から、古い機械油と湿った木材の匂いが流れてくる。かつて工場だった場所に残る、錆と埃と鉄の匂い。
宮代が小さく合図し、扉を開けた。
内部は広かった。
天井は高く、鉄骨がむき出しになっている。床には壊れた作業台や空のドラム缶が散らばり、壁際には使われなくなった機械が影の塊のように並んでいた。
2階へ続く鉄階段がある。
その上から、白い光が漏れていた。
相良の端末が震える。
対象者、白幡玲司。
生体反応、安定。
虚偽反応、継続中。
白幡玲司は、自分が罪を犯したと認識していません。
相良は画面を見つめた。
「最悪ですね」
宮代が低く聞く。
「何がです」
「白幡は、自分を悪人だと思っていない」
「そういう人間は珍しくありません」
「分かっています。でも、これはもっとたちが悪い」
「どういう意味ですか」
「彼は、自分が人を救っていると思っている」
宮代は階段の上を睨んだ。
「なら、なおさら止める必要があります」
鉄階段を上がる。
足を乗せるたびに、金属が軋んだ。音を抑えようとしても、古い階段は隠しきれない悲鳴を上げる。
2階に着くと、小さな事務室があった。
ドアは開いている。
中には、白幡玲司がいた。
椅子に座り、机の上のノートパソコンを操作している。手錠は外されていた。どうやって外したのか、机の上には小さな工具と血のついたガーゼが置かれている。
白幡は顔を上げた。
驚いた様子はなかった。
「思ったより早かったですね」
宮代が拳銃を構える。
「白幡玲司。逃走および公務執行妨害の容疑で、改めて身柄を確保します」
白幡は穏やかに首を傾げた。
「逃げてはいませんよ。私は必要な場所へ移動しただけです」
相良の端末に文字が表示される。
虚偽反応は検出されません。
相良は顔をしかめた。
本気でそう思っている。
美緒が部屋の入口で立ち止まった。
「白幡さん」
声は震えていた。
けれど、目は逸らしていなかった。
「あなたは、私に何をしたんですか」
白幡は美緒を見た。
優しい医師のような目だった。
「あなたを救いました」
「ちっ、違う……」
美緒の声が詰まる。
「私は、救われたんじゃない。奪われたんです。子どもを失った記憶も、あなたの顔も、夫が何をしたのかも……全部」
「それを覚えていたら、あなたは壊れていた」
「壊れるかどうかを、あなたが決めないで!」
美緒の叫びが、古い事務室に響いた。
その声に、相良は息を呑んだ。
今までの美緒は、どこか抑えていた。悲しみも怒りも、きちんとした言葉に整えてから出していた。
だが今の声は違った。
整えられていない。
痛みがそのまま出ている。
白幡は静かに彼女を見ていた。
「人は、自分の真実に耐えられると思い込んでいます」
「私は、あなたの患者じゃない」
「患者でした」
「違う!」
美緒の目から涙が落ちる。
「私は、あなたの実験材料だった」
端末が震えた。
白幡玲司、情動反応上昇。
虚偽反応を検出。
白幡が初めて、わずかに眉を動かした。
相良は端末を見た。
「反応しました」
宮代が白幡から目を離さずに聞く。
「何に?」
「実験材料という言葉です」
白幡はため息をついた。
「久瀬くんの機械は、相変わらず粗雑ですね」
「粗雑なのに、怖いですか」
相良が言うと、白幡は微笑んだ。
「怖くはありません。残念なだけです。彼なら、もっと洗練された使い方ができた」
「人を壊す使い方ですか」
「人を治す使い方です」
「白幡さん」
相良は一歩前に出た。
「あなたはさっきから治療と言っています。でも治療なら、なぜ隠したんですか」
白幡は答えない。
端末に赤い文字。
虚偽反応を検出。
「なぜ記録を地下に隠した」
白幡は沈黙する。
さらに赤い文字。
虚偽反応。
「なぜ藤崎玲奈を3年間も閉じ込めた」
白幡の目が、初めて冷たくなった。
「閉じ込めたのではありません。保護したのです」
端末が強く震えた。
虚偽反応。
相良はその文字を見た。
白幡は、自分が逃げているとは思っていない。
罪を犯したとも思っていない。
だが、藤崎玲奈を閉じ込めたことだけは、本人の中でも嘘だった。
そこに、ほころびがある。
「藤崎玲奈を閉じ込めたのは、彼女が白幡玲司の名前を知っていたからですね」
白幡の表情が消えた。
白い仮面のようになった。
「相良さん。あなたは久瀬くんに似てきましたね」
「それは最悪の悪口ですね」
「ええ。最悪の褒め言葉です」
宮代が一歩近づく。
「白幡、終わりです」
「終わり?」
白幡は小さく笑った。
「終わるのは、あなた方の方です」
彼はノートパソコンのキーを押した。
倉庫の外で、複数のライトが点いた。
窓の外に、人影が見える。
警察ではない。
黒い服を着た男たちが、倉庫の周囲に立っていた。手には棒状のものや、小型の銃器のようなものを持っている。
宮代が無線に叫ぶ。
「外周、状況を報告しろ!」
返答はない。
ノイズだけが返ってくる。
白幡は静かに言った。
「私は1人ではありません。医療は組織で行うものです」
美緒が後ずさる。
「そんな……」
相良の端末に、新しい文字が浮かんだ。
KUZE_FINAL_PROOF、外部送信準備完了。
送信先。
全国報道機関。
警察庁内部監査部門。
白幡医療財団全理事。
国立先端認知科学研究センター全職員。
相良は目を見開いた。
「久瀬……」
白幡の顔色が変わった。
「何をした」
相良は端末を見た。
画面にカウントダウンが表示されている。
残り、3分00秒。
白幡が立ち上がった。
「止めなさい」
声が初めて荒れた。
「相良さん。それを止めなさい」
「嫌です」
「止めろ!」
白幡が叫んだ。
端末に赤い文字が走る。
白幡玲司、強い恐怖反応を検出。
宮代が低く言った。
「やっと、人間らしい顔になりましたね」
白幡は宮代を睨んだ。
その表情には、もう穏やかな医師の面影はなかった。
焦り。
怒り。
恐怖。
権力を持つ者が、自分の手から支配が滑り落ちていく瞬間の顔だった。
カウントダウンは進む。
2分41秒。
2分40秒。
外の男たちが動き出す。
宮代が拳銃を構え直す。
美緒が相良の袖を掴んだ。
「相良さん……これ、送れば終わるんですか」
相良は画面を見た。
「終わりません」
正直に言った。
「でも、始まります」
美緒は涙を拭った。
「なら、始めてください」
その声は震えていた。
だが、迷いはなかった。
白幡が机を蹴り飛ばした。
ノートパソコンが床に落ちる。
同時に、倉庫の1階で扉が破られる音がした。
久瀬誠一の最後の証明は、残り2分を切っていた。
そしてその2分が、白幡玲司の人生で初めて、誰かに支配される時間になった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。




