第13話 最後の2分
残り、1分58秒。
古い倉庫の2階にある事務室は、息をするだけで喉の奥に錆の味が残るような場所だった。
壁紙は湿気でところどころ剥がれ、天井の隅には黒い染みが広がっている。窓ガラスには細かな雨粒がまだ残り、外の赤色灯をぼんやりと歪ませていた。窓の向こうには、霧に包まれた工場跡の敷地が広がっている。白幡玲司の手の者らしき男たちが、ライトを揺らしながら倉庫を囲んでいた。
1階からは、扉をこじ開ける金属音が響いている。
ぎい、と鉄が曲がる音。
誰かが叫ぶ声。
警察無線の途切れた雑音。
濡れた靴底がコンクリートを蹴る音。
そのすべてが、2階の床を細かく震わせていた。
相良律は黒い端末を握りしめていた。
画面には、久瀬誠一が死後に仕掛けた最後の証明が表示されている。
KUZE_FINAL_PROOF、外部送信準備完了。
送信先。
全国報道機関。
警察庁内部監査部門。
白幡医療財団全理事。
国立先端認知科学研究センター全職員。
残り、1分57秒。
端末から音は鳴っていない。
それなのに、相良には聞こえていた。
かち。
かち。
かち。
秒数が削れるたび、誰かの人生が1枚ずつ剥がされていくようだった。
「相良さん」
白幡玲司が言った。
声はまだ穏やかだった。
だが、その穏やかさは薄いガラスのようだった。少し押せば割れる。割れた内側には、怒りと焦りと、何より支配を失うことへの恐怖が詰まっている。
「その端末を、こちらへ」
相良は動かなかった。
白幡の白いコートは埃で汚れ、袖口には手錠を外した時の血がにじんでいる。だが彼はそれを気にしていない。銀縁の眼鏡の奥から、端末だけを見ていた。
患者を見る目ではない。
人を見る目でもない。
失ってはいけない所有物を見ている目だった。
「渡しません」
相良が言うと、白幡はゆっくり息を吐いた。
「君は、また同じ間違いをする」
「同じ?」
「3年前、君は藤崎玲奈を守るために証拠を壊した。あれは正しかった。あの子は、真実に耐えられる状態ではなかった」
胸の奥に、古い痛みが刺さった。
藤崎玲奈の泣き声。
白い病衣。
震える肩。
床に叩きつけた黒い端末。
相良は奥歯を噛んだ。
「白幡さん。あなたに正しいと言われると、吐き気がします」
白幡の眉がほんの少し動いた。
「感情的ですね」
「ええ。今は感情的ですよ」
相良は端末を握る手に力を込めた。
「僕は3年前、間違えた。藤崎さんを守ったつもりで、真実を壊した。彼女が傷つく姿を見るのが怖くて、白幡玲司へたどり着く道を自分で潰した」
白幡は黙っていた。
相良は続ける。
「でも、あなたは違う。あなたは守るために嘘をついたんじゃない。人を壊して、自分が治した気になっていただけだ」
「……治療です」
端末が震えた。
赤い文字が走る。
虚偽反応を検出。
白幡の唇が強く結ばれた。
その瞬間、美緒が一歩前に出た。
彼女の肩には、先ほど投げられた金属器具がかすめた痕がある。服の布地が少し裂け、そこに赤い線がにじんでいた。けれど、美緒は痛みに顔をしかめることもなく、白幡を見ていた。
涙で濡れた目。
だが、その奥にはもう怯えだけではない光があった。
「白幡さん」
美緒の声は震えていた。
声の震えを隠そうともしていなかった。
「あなたは、私を救ったって言いましたよね」
「ええ」
「じゃあ、聞かせてください」
彼女は胸元を押さえた。
指先が白くなるほど強く、服を握っている。
「私のお腹の子は、本当に死んだんですか」
空気が止まった。
1階の騒音も、窓の外の赤色灯も、遠くに引いた気がした。
白幡の表情が、ほんのわずかに揺れた。
医師の顔でも、理事長の顔でもない。
何かを隠している人間の顔だった。
残り、1分12秒。
「……助かりませんでした」
白幡は答えた。
端末が赤く光った。
虚偽反応を検出。
美緒の目が大きく開いた。
「え……?」
その声は、ほとんど息だった。
白幡はすぐに口を閉じた。
だが、もう遅かった。
端末の画面に文字が浮かぶ。
久瀬美緒の胎児死亡記録に、不整合を検出。
詳細データは、KUZE_FINAL_PROOF内に保存済み。
美緒の膝が崩れかけた。
相良が支えようと手を伸ばすより早く、彼女は机の端に手をついた。爪が木の表面を引っかき、乾いた音が鳴る。
「ちょっと……待って」
美緒の声は掠れていた。
「待ってよ。何、それ。私の子が……私の赤ちゃんが……」
言葉が続かない。
喉の奥で何度もつかえている。
白幡は無言だった。
その沈黙が、美緒の足元をさらに崩していく。
「白幡さん!」
美緒が叫んだ。
その声には、母親になれなかった女の7年分の痛みが混じっていた。
「私の子は、本当に死んだの? ねぇ、答えてよ! 治療だの保護だの、そんな言葉じゃなくて、私の子がどうなったのかを答えて!」
白幡は視線を逸らした。
端末が再び震える。
虚偽反応、継続。
宮代啓介が白幡へ一歩近づいた。
拳銃は構えたまま。
だが、その目は刑事のものを越えていた。
「白幡。今すぐ答えろ」
「……あなたには関係ない」
「ある」
宮代の声が低く沈んだ。
「娘の記憶をいじられた父親としても、刑事としても、目の前で母親から子どもを奪った男を見逃す理由がない」
白幡は笑った。
それは、もう穏やかな笑みではなかった。
追い詰められた者が、まだ自分の方が上だと思い込もうとする笑いだった。
「感情的な人間ばかりだ」
「そうですよ」
美緒が言った。
涙を流したまま、それでも白幡を睨みつけた。
「私は感情的です。子どもを奪われたかもしれない母親なんだから、当たり前でしょう」
白幡の顔がわずかに歪んだ。
残り、38秒。
その時、白幡が動いた。
相良へ向かって踏み込む。想像よりも速かった。白いコートが視界の端で翻り、細いはずの腕が相良の手首を強く掴む。
「渡せ!」
穏やかだった声が割れた。
「それは出してはいけない! その記録だけは、世に出してはいけない!」
「なんでですか」
相良は端末を胸に抱え込んだ。
「医療のためなら、堂々と出せばいいでしょう!」
「黙れ!」
白幡の爪が相良の手首に食い込む。
痛みが走った。
端末が揺れ、画面に停止コマンドが表示される。
送信停止認証、開始。
白幡の親指が端末に触れた。
残り、29秒。
認証中。
相良の背中に冷たい汗が流れた。
白幡本人の生体認証で、止まる可能性がある。
「宮代さん!」
「分かってる!」
宮代が踏み込む。
だが白幡は相良の体を盾にした。宮代は撃てない。
残り、22秒。
美緒が白幡の腕を掴んだ。
「離して!」
白幡が振り払う。
美緒の体が壁にぶつかり、短い悲鳴が漏れた。
「美緒さん!」
相良の集中が一瞬切れた。
白幡の指が端末を奪いかける。
その時、美緒が床に落ちていた金属器具を掴み、白幡の手首に叩きつけた。
鈍い音。
白幡が呻く。
「ぐっ……!」
端末から手が離れた。
宮代が飛び込む。
白幡を床へ組み伏せた。古い床板が軋み、机の上の書類が雪崩のように落ちる。
「白幡玲司、確保!」
宮代の怒号が響いた。
残り、10秒。
9。
8。
白幡が床の上で叫んだ。
「やめろ! 久瀬! お前は死んだんだろう! 死んだ人間が、まだ私に触るな!」
7。
6。
5。
相良は端末を握りしめた。
美緒は床に座り込み、震える手で肩を押さえている。涙で顔はぐしゃぐしゃだった。それでも、彼女は画面から目を逸らさなかった。
4。
3。
白幡の息が荒い。
2。
1。
送信完了。
端末が白く光った。
その瞬間、倉庫の外で複数のスマートフォンが一斉に鳴った。警察無線、記者の端末、研究センターへ送られた通知。遠く離れた場所で、久瀬誠一の最後の証明が開かれていく。
白幡は、床に押さえつけられたまま動かなくなった。
美緒が震える声で言った。
「相良さん……」
「はい」
「私の子は……どこにいるんですか」
相良は端末の画面を見た。
新しいファイルが開いていた。
MIO_CHILD_RECORD.
そこには、1行だけ表示されていた。
死亡確認記録、改ざんの可能性あり。
相良は理解した。
久瀬誠一が最後まで隠していた証明は、白幡の罪だけではなかった。
美緒が失ったと思っていた子ども。
その死にさえ、嘘が混じっている。
物語は、久瀬誠一の死から始まった。
だが本当の死者は、まだ証明されていなかった。
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