第14話 生きていた証拠
送信完了の文字が消えても、美緒はしばらく動けなかった。
倉庫の2階にある古い事務室は、さっきまでの騒ぎが嘘のように静まり返っていた。1階では警察官たちが白幡の手の者を制圧しているはずなのに、その声は遠い膜の向こうから聞こえるようだった。
美緒には、もう何もはっきり聞こえていなかった。
耳の奥で、別の音が鳴っている。
7年前の雨。
割れるガラス。
久瀬の叫び声。
白幡の声。
見なかったことにしろ。
そして、今見た文字。
死亡確認記録、改ざんの可能性あり。
美緒は胸を押さえた。
そこに穴が開いているようだった。
7年間、彼女はそこに「死」を置いて生きてきた。生まれる前に失った命。自分が守れなかった子。夫と一緒に抱えるはずだった悲しみ。
それが、死ではなかったかもしれない。
奪われたのかもしれない。
隠されたのかもしれない。
そう思った瞬間、体の奥から何かが崩れる音がした。
「白幡さん」
美緒はゆっくり顔を上げた。
白幡玲司は床に押さえつけられていた。宮代啓介が背中に膝を乗せ、手錠をかけ直している。白幡の白いコートは汚れ、眼鏡は少し曲がっていた。
それでも彼は、まだ完全には敗者の顔をしていなかった。
何かを握っている。
美緒には分かった。
この男はまだ、最後の鍵を自分の中に隠している。
「私の子は、どこですか」
美緒の声は震えていた。
震えているのに、部屋の隅まで届いた。
白幡は答えない。
「ねぇ、答えてください。私は……私は7年間、自分の子は死んだと思っていたんです。墓もない。顔も知らない。名前もつけられなかった。それでも、死んだんだって、自分に言い聞かせてきたんです」
美緒の目から涙が落ちる。
「それが嘘なら……あなたは、私から何を奪ったんですか」
白幡は床に伏せたまま、薄く笑った。
「子どもは、親の所有物ではありません」
宮代の手に力が入った。
「黙れ」
「事実です。母親が傷ついたからといって、子どもを返せばいいという話ではない」
「返す?」
美緒の声が変わった。
細く、冷たい声だった。
「今、返すって言いましたね」
白幡の表情が止まった。
相良律は端末を見た。
画面に赤い文字が出ている。
虚偽反応を検出。
白幡は、失言したのだ。
子どもが死んでいるなら、返すという言葉は出ない。
「宮代さん」
相良は言った。
「白幡は知っています。所在を」
宮代が白幡の腕をさらに固定した。
「白幡玲司。今ここで話せ。子どもはどこだ」
「私は知らない」
赤い警告。
虚偽反応。
宮代の目が鋭くなる。
「もうその嘘は通用しない」
「通用しますよ」
白幡は荒い息の中で笑った。
「機械の反応など、裁判ではいくらでも争える。記録は流れた。世間は騒ぐでしょう。ですが、肝心の子どもの所在までは、久瀬くんも掴めなかった」
「じゃあ、あなたから聞くまでです」
「私が話すと?」
白幡は美緒を見た。
その目には、嫌な優しさが戻っていた。
「久瀬美緒さん。あなたは、本当に会う覚悟がありますか」
美緒の唇が震えた。
「……あります」
「その子は、あなたを母親だと思っていない」
美緒の顔がわずかに歪んだ。
白幡は続ける。
「あなたの声も知らない。あなたの顔も知らない。久瀬誠一のことも知らない。別の名前で、別の家庭に近い環境で、別の人生を生きている」
「だから何ですか」
「会えば、その子の人生も壊れる」
美緒は息を詰めた。
それは、白幡の言葉で初めて彼女が揺れた瞬間だった。
相良にも分かった。
白幡はそこを狙っている。
母親の罪悪感。
自分が会うことで子どもを傷つけるかもしれないという恐怖。
7年間奪われていたにもかかわらず、美緒はもう子どもの痛みを考えている。
だからこそ、白幡の言葉は刺さる。
「美緒さん」
相良は静かに呼んだ。
美緒は顔を上げた。
「決めるのは今じゃなくていいです」
「でも……」
「探すことと、会うことは別です。知ることと、奪い返すことも別です」
相良は端末を握り直した。
「でも、存在を知る権利はあります。あなたにも、その子にも」
美緒は目を閉じた。
涙が頬を伝う。
「……そうですね」
小さな声だった。
けれど、確かだった。
「私は、知りたい。会うかどうかは、その子のことを考えて決めます。でも、知らないままにはしません」
白幡の顔から、笑みが消えた。
その時、端末に新しい通知が表示された。
KUZE_FINAL_PROOF内、補助ファイル解凍完了。
N-009関連施設候補、抽出。
候補数、3件。
相良は画面を見た。
「出ました」
美緒が息を呑む。
「どこ……?」
表示されたのは、3つの施設名だった。
白幡医療財団系列の児童療養施設。
閉鎖済みの小児リハビリ施設。
そして、民間の養育支援施設。
その3つ目の名前を見た瞬間、宮代が眉をひそめた。
「この施設……」
「知っているんですか」
「白幡財団と関係がないように見えますが、寄付金の流れを追えばつながるかもしれません」
相良はさらに記録を開いた。
そこに、久瀬の追記があった。
N-009は、生存している。
ただし、現時点で接触してはならない。
白幡の監視下にある可能性が高い。
美緒に真実を伝えるかどうかは、僕には決める資格がない。
美緒はその文章を見て、息を止めた。
「誠一……」
久瀬は、最後の最後で決めなかった。
いつも人の選択を奪ってきた男が、最後にだけ、選択を美緒に残した。
遅すぎる。
あまりにも遅すぎる。
けれど、それは確かに久瀬の後悔だった。
白幡が低く言った。
「美しい話にしたいのですか。死んだ夫の懺悔。奪われた子ども。正義の証明。世間は好むでしょうね、そういう物語を」
相良は白幡を見た。
「物語にしたのは、あなたです」
「私が?」
「人の記憶を勝手に書き換えて、生きやすい物語を与えたつもりでいた。あなたは医者じゃない。編集者です。人の人生を、自分の都合のいい筋書きに直していただけだ」
白幡の目が冷える。
「久瀬くんより、ずいぶん口が達者になりましたね」
「久瀬よりは、まだましな人間でいたいので」
「無理ですよ」
白幡は笑った。
「あなたも、真実のために人を傷つける側へ来た」
相良は否定しなかった。
「そうかもしれません」
美緒が相良を見る。
相良は続けた。
「でも、傷つくかどうかを僕が決めない。知るかどうかを、僕が決めない。それだけは、もう間違えません」
白幡は黙った。
端末に赤い文字が出る。
白幡玲司、強い恐怖反応を検出。
白幡はもう、相良を見ていなかった。
彼の視線は端末の画面に固定されている。
候補施設の3つ目。
民間の養育支援施設。
そこに何かがある。
相良は画面を拡大した。
施設名。
ひかりの家。
所在地。
神奈川県西部。
登録児童情報。
7歳。
性別、女。
識別コード、N-009。
現在名。
その行だけが、黒く塗りつぶされていた。
美緒が震える声で言った。
「女の子……」
相良は黙って頷いた。
美緒はその場に崩れ落ちた。
泣き声が漏れた。
それは、悲しみだけではなかった。
怒り。
混乱。
恐怖。
そして、ほんのわずかな希望。
7年間死んだと思っていた命が、どこかで生きているかもしれない。
その希望は、美緒を救うにはあまりにも鋭すぎた。
希望もまた、人を傷つけるのだ。
宮代が無線で指示を出す。
「ひかりの家を確認しろ。白幡医療財団との資金関係、関係者、職員、児童記録を至急照会。児童保護の手続きを最優先にしろ。報道には絶対に漏らすな」
その声は完全に刑事のものだった。
白幡は目を閉じた。
敗北を認めたわけではない。
だが、少なくともこの場では、彼の物語は終わった。
相良は端末を見た。
KUZE_FINAL_PROOFの最後に、もう1つだけ未開封のファイルが残っている。
LAST_MESSAGE_TO_RITSU.
相良律への最後のメッセージ。
美緒は涙を拭いながら言った。
「相良さん」
「はい」
「見てください」
「でも」
「誠一があなたに残したなら、あなたが見るべきです」
相良はしばらく画面を見つめた。
久瀬の言葉を、今さら聞きたいのか。
聞きたくない。
けれど、逃げないと決めた。
相良はファイルを開いた。
画面に、久瀬誠一の顔が映った。
死の数時間前の映像だった。
頬はこけ、目は赤く、髪は乱れている。だが、その顔には奇妙な穏やかさがあった。
『律』
久瀬は言った。
『ここまで見たなら、君はたぶん、僕を殴りたいだろう』
相良は小さく呟いた。
「死んでなかったらな」
映像の久瀬は少し笑った。
『僕は君に謝らない』
相良の眉が動く。
『謝って済むことではないからだ』
映像の久瀬は、深く息を吸った。
『でも、頼みたいことがある。僕の証明を、僕の正しさにしないでくれ』
相良は息を止めた。
『僕は正しくない。白幡を止めようとして、多くの人を傷つけた。美緒から記憶を奪い、玲奈を救えず、宮代刑事を利用し、君の弱さまで計算に入れた』
久瀬はカメラを見た。
『だから、これは正義の証明ではない』
画面の中の久瀬の目は、相良が知るどの時よりも人間らしかった。
『これは、死者への証明だ』
倉庫の外で、遠く警察無線が鳴っている。
白幡は連行され、美緒は失われた子どもの手がかりを得た。宮代は娘の事件をもう一度追える。藤崎玲奈は生きている。
だが、誰も救われ切ってはいない。
久瀬の映像は続いた。
『死んだ人間は、何も証明できない。だから僕は、生きている君たちに押しつける。最低だろう』
相良は画面を睨んだ。
「最低だよ」
『でも、君ならたぶん、僕の証明を終わらせてくれる』
相良は何も言えなかった。
『律。真実は、人を救わないことがある。それでも、嘘でしか生きられない世界よりは、少しだけましだと僕は思いたい』
映像がそこで途切れた。
端末の画面に、最後の文字が表示された。
最終証明。
相良律の選択に委ねます。
相良は端末を閉じた。
外では夜が深くなっていた。
だが、雨はもう止んでいた。
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